第二章①

 驟雨の前になると街が濃い緑色に変わる。

 木々の葉が騒めきだし、春先になると落ち着きのなくなる狂人か、満月の夜は子宮が疼き一人ではいられなくなる女のように緩慢としたスピードで平静さを失い始める。そして、雷鳴と同時に、驟雨に一瞬で街が消える。それも、この国の人たちの気性のように気まぐれに。

 そんな熱帯の驟雨ならば、旅愁や詩心をくすぐられるが、ここ最近のバンコクの雨季は日本の梅雨のそれに近く、一日中、しとしと雨が降り続くことも珍しくない。地球温暖化問題は既得権益に腐った環境保護団体や挑発的でややこしいことばかり言ってくるエコロジストの飯の種に過ぎないが、確かに地球が悲鳴を上げていることがよくわかる。

 いや。人間の業に自然が報復を始めたと言ったほうが正しいのか。

 バンコクに来てはや三週間が経つが、俺は、エカマイのグランドハイテックタワーの二階の角部屋でこうやって窓辺に靠れて、膝を抱いて、日がな一日窓を伝い、大地に降り注ぐ雨を聴いているだけだ。

「飽きないのか?」と訊かれても困る。

 あれからずっとヨーコの物言わぬ幻影と夜毎繰り返される悪夢に苛まれ、いつ現れるかもしれない追手の影に怯え、眠ることが苦痛となり、生きた心地などしない。それは胃袋と性欲が満たされ、酒に酔って、カラオケで十八番の一つでも熱唱すれば消えてしまうものならば是非ともそうしたいのだが、この雨が俺を怠惰にさせ、諦めさせ、惰眠を貪らせ、また悪夢を見せる。

 流石、凶方位。吉方位のときはその片鱗さえ見せないくせに、こういう時だけは不正を憎む律義者のような顔をして現れ、嘘をつかない。まさしく、破れて、刺されて、闇に真っ逆さまだ。

 だが、俺は苦痛を感じるのもだんだん放棄しつつある。何といっても俺は人でなしなのだ。「淋しい」だの「ツライ」だの「死にたい」だの「怖い」だの言えるのは、言ってもいいのは、罪なく真っ当に生きている人間だけだ。

 死んでいる女を犯した男……

 雨は罪を洗い流さない。寧ろ声高に俺の罪をひとつひとつ読み上げる。「やめてくれ!」と叫んだところで無駄だ。その罪はとっくに天帝様に密告されているし、南六郷のマンションではとうの昔にヨーコの死体が発見され、遺留品の数々から俺の名が浮上し、指名手配され、俺が海外に逃亡したことも調べがついていて、「大田区南六郷の四十六歳の美魔女銃殺事件は年下のヒモ男との愛情のもつれが原因か」なんて各メディアで面白可笑しく報道されているのだろう。

 俺はあれからネットを見なくなった。一応、スマホにはこっちのシムカードを入れているが、そういった記事を見るのが怖いし、メールボックスなんて身内からの心配を装った疑念と匿名の罵倒メールでパンクしているだろう。SNSは全て閉鎖したし、エゴリサーチや掲示板なんてもってのほかだ。今は世界と繋がらないことで逆に安全でいれる。これはネットいじめで苦しんでる子供たちに教えてあげたいことだ。

 雨脚が強まってきた。

 雷鳴は言葉にはならないヨーコの罵声のように聴こえる。

 結局、逃れても逃れても責められるのだ。だから俺は苦痛を感じるのをやめたし、贖罪を感じようとも思わない。こうやって何世紀でも、何世紀でも、何世紀もが無理ならばせめてこの雨の季節が終わるまでは雨を聴いていたい。


 その夜も悪夢。

 カリフォルニアの紺碧の空の下、幸福のように燦燦と降り注ぐ陽光の下、たわわに実ったルビー色のメルローを収穫している秋の穏やかな週末。葡萄畑は広くはないが、よく手入れされていて、葉の緑と葡萄の紫のコントラストが鮮やかだ。何より吹く風が優しくて気持ちいい。きっと俺たちが持つはずだったワイナリーはこんなところだったのかもしれない。それも死んだ幼児の年齢を数えるようで虚しいが……

 いくつもの籠に一杯に収穫されたメルローは、夏が暑すぎたので甘みと旨味は過剰なくらいだ。今年はいいワインができる。俺は満足げに眉をキュっと動かせる。

 ワインの銘柄は何にしよう?

 育てるのに夢中でそんな細かいことなど何も考えてなかった。こんな時、ヨーコだったらすでに戦略や販路を考え、提案していて、パーセンテージの計算やネット販売の為のホームページの立ち上げや楽天市場やLOHACOといった通販サイトへの営業なんかもすましているはずだ。何より葡萄やワイン造りの管理も最新鋭の技術で合理的にやっているはずだ。そう思うと、一寸、口が悪く、プライドを傷つけられることの多かったヨーコだが、この夢を実現するためには悔しいけれど、絶対的に必要なパートナーだったのだと今になってみればわかる。

 もっとも、夢はとっくの昔に終わったわけだが……

 そういえばヨーコはどこに行ったのだろう?

 答えるまでもない。三秒後には苦笑していた。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう?

 薄情な男の心変わりに嘆く、初めて恋の苦しみと理不尽さを知った夢見る少女じゃあるまいし、それこそヨーコに嗤われそうだ。

 それだけならば、これはセンチメンタルでこそあれ、悪夢でも何でもないのだが、夢には続きがあって、豊かな収穫に心満たされ、葡萄で満たされた籠をカートに乗せ、ワイナリーに続くポプラ並木の小道を鼻歌交じりに進んでいると、背の高いポプラの木に止まったカラスが数羽何か果実のようなものを啄んでいるのが見える。ポプラに実がなるわけがないのに……

 カラスに気味悪く、敵意丸出しに威嚇されながら恐る恐る、近づいてみると、それは果実ではなく、拷問をされた挙句、凌辱され、全裸で枝に吊らされているヨーコが半目開けて俺を睨みつけている。ポタポタと大地に赤黒い血が滴り、風雨と太陽に晒され、人のものとは思えない獣か腐乱死体のような腐臭と肉の焼けた匂いが鼻をつんざく。正直、逃げ出したいが、足が凍ってしまったように動けない。

「裏切者」

 ヨーコの美しいルージュの記憶すら失くしてしまった苦痛に歪んで青紫色に変色した唇がそう動く。

「いや。命令に従わないからって横浜のドヤ街に俺を売ろうとしたのはお前だろ。裏切者はどっちだ!」 

 そんな反論など許されないほどただでさえ目力の強いヨーコの目は恐ろしい。復讐を果たすまでは何万回でも狙い続ける大蛇の感情のない目。もしくは、死んでいるのに、俺を追い詰めようとする執念だけで開いているような目だ。飢えたカラスどもは啄むのをやめないので余計に恐怖を感じる。

「死姦のくせに」

 俺を犬畜生以下に見下したように吐き捨てた。

 カラスはヨーコの眼球を啄み始めた。これであの魔女の目で睨みつけられなくて済むが、夢が醒めてもあの目を忘れることはないだろう。そして、快楽などではなかったあの行為が許されることもないだろう。

 かわいそうなヨーコ。

 かわいそうな果実。

 俺は動けない。

 そして、誰の助けもなく、過去からも逃れられないことを思い知る。

 毎夜、この調子だ。

 この街を人は「クルンテープ」、即ち、「天使の都」と呼ぶが、俺にとってはただ雨と悪夢の降りしきる街に過ぎない。歓楽街で複数の若い女と生まれたままの姿で酒池肉林にでも興じれば、満たされ、疲れ果て、夢も見ずに眠れるだろうか?

 だけど、人を幸福にする夢も不幸にする夢も今は要らない。

 

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