第一章 ➁

 ヨーコが死んでいる。

 いつもならすっかり萎えたそれを咥えられて、生暖かい快楽に引きずられるように目が覚めるのだが、俺を目覚めさせたのは執拗な着信音だった。鳴っているのはヨーコのスマホだ。ヨーコのアメリカのエージェントからだろう。エージェントと言っても怪しいものだ。多分、俺のような間抜けの弱みを握り、篭絡して、現地法人の雑務や訪米時の多岐にわたる世話を焼かせているのだろう。

 しかし、その電話が来るのはいつも現地時間夕方の朝九時ごろだ。高血圧が悩みのヨーコがこんな時間まで寝ていることは今まで一度もなかったし、うっかり携帯を持たずに外出するような可愛らしさなんて持ち合わせていない。卑猥に起こしに来ないことよりも電話に出ないことのほうがおかしい。

 寝不足と酔うためだけに利用されたウオトカの怨念のようなこめかみの痛みで視界は白内障のようにぼやけている。夢の続きのような不思議な感覚もある。昨夜あれだけ絶望と殺意を噛み締めたのと同じ部屋にいるという気がしない。なんというか、現実感が薄い。

 やがて、舌打ちをしたように着信音が収まる。本当はヨーコの声など聴きたくもなかっただろうから、それは空耳か演技とわかる。

「ヨーコさん」

 俺は、こめかみを押さえて起き上がり、雲の上を歩くようにフラフラしながらヨーコのベッドへ這った。

 それは俺が望んだことなのかもしれないし、神々が神をも畏れぬ不遜な女に不敬罪を適用し、鉄槌を下したのかもしれない。

 白いベッドに紅い薔薇が敷き詰められている。そこに白い羽毛が舞っている。

 俺はそれを不覚にも美しいと思った。

 百万本の薔薇はどこの大富豪の悪戯か?それとも女優に恋をした貧乏画家の一世一代の大博打か?

 違う。

 薔薇の陶酔するような芳しさはなく、噎せるような硝煙と錆びた鐵のような血の生臭い匂い。

「現実に血を流せ」と歌うミックジャガーが赤い舌を出す。俺はいつも「満足なんかできないぜ」と大人しい家畜のフリをして奴隷になりかける魂に茨のついた鞭を振るい続けてきた。そう言う俺が一番ロックでないことくらいわかっている。

 しかし、これは俺ではない!

 ヨーコと俺と銃が一本の線で繋がらないし、万が一、繋がったとしても俺に引き金を引く動機はあっても、引き金を引く根性などない。第一、ヨーコを撃った記憶とヨーコが撃たれた記憶すらない。

 額に一発。これが致命傷だろう。銃声さえも聞こえない、確実に仕留めるプロの仕事だ。俺ならば、いや。普通の人間ならば、発砲する前に恐怖に失禁するのが関の山だ。

 意外にも「ひどいことをしやがる」と眉を顰める自分がいるのに驚く。

 だが、それは俺以外の第三者がワイドショーで子供が虐待されて殺された事件の再現ビデオやら、関係者の証言やら、魔に憑かれたような鬼母の顔やら、他人事のレポーターのコメントやらを見て義憤に駆られているようなもので、サウナ上がりのレモンチューハイでも飲めば忘れてしまうくらいのかすり傷さえ残らない軽く、他人事の「ひどいことをしやがる」だ。

 争った形跡はなく、苦しんだ様子もない。眠っているところを「ズドン」だ。  流血がなければ、千人の全裸の美少年を侍らせた淫夢を貪っているようしか見えないほど満たされた死に顔だ。何年も入退院と転移と闘病を繰り返した末に末期がんで亡くなった人から見たら「この幸せ者!」としか思えない死に顔だ。もっとも、俺は間違っても「この幸せ者!」と称賛する気にはなれないが……

 それにしてもいったい誰が?

 こめかみが緊箍児に締め付けられるように痛むので、考えることは何度もシャットダウンさせられる。あの調子で人生に恋に仕事に迷える依頼者に悪い運命をちらつかせ、不安を煽って、多額の鑑定料をふんだくっていれば敵の十人や二十人すぐにできるだろう。況してや、サンフランシスコにプールとテニスコートとリムジン付きの二億の豪邸を持っているほどだ。悪いことをやっていなければそんなものが建つはずがあるまい。そんな「ヨーコ憎しの人名辞典」を調べるなんて気の遠くなるような作業をする気はない。

 それならば、答えは簡単だ。

 俺に内緒で寿の手配師とどういう契約を交わしているか知らないが、ここからさっさとヅラかればいいのである。警察に真面目に通報したところで一番に疑われ、何日も何日も根掘り葉掘りヨーコとの関係を尋問され、容疑を認めるまで眠ることも排泄行為も許されず、限界まで追い詰められたところで、俺はたった五分の眠りやひとかけらのパンの為に「やってもいないこと」を「やった」とサインさせられてしまうのだろう。鋼の意志などない俺のことだ。間違いない。

 死体遺棄?

 違う。

 ヨーコが勝手に殺されたのだ。

 それも俺ではない誰かに。

 しかし、それを証明できるものは何もない。奴隷であり、男娼のような暮らしの俺には信用などというものもない。優秀だが、一度疑ったら捜査は結論ありきの日本の警察が俺を見逃してくれるわけがない。責任を果たすことや正直者になることが一番の悪手になることだってある。どっちみち、夢は終わってしまったのだ。

 逃げよう。この場から。

 一時の逃避では不安だ。できれば日本から。

 一刻を争う。 

 ここは八階だ。景色を楽しむ分にはいいが、逃げるには絶望的だ。訪問者が来たら、まさに問い詰められるか、飛び降りるかだ。

 とりあえずパスポートと現金。

 パスポートはOK。

 二年前にヨーコのサンフランシスコの豪邸に連行された時に作らされたので、少なめに見積もっても七年半は大丈夫だ。

 金……

 キャッシングやカードを切るなんて、わざわざ逃走経路を教えるようなものだし、第一、俺はヨーコのアメリカンエキスプレスのブラックカードの暗証番号を知らない。

 だから現金。

 ヨーコのエルメスの財布には米ドルで二千ドルとあとは福澤翁が十数枚。俺のと合わせても二百五十万から三百万というところ。逃げるなら、物価が安くてビザの要らないマニラやバンコクしかない。香港や台北やシンガポールなら三か月と持つまい。それだと西南か。本命殺に歳破入り。月盤は暗剣殺。

 ヤレヤレ。

「ほら。やっぱり、あなたは何もわかっちゃいないじゃないのよ」と咥えタバコにどや顔のヨーコに嘲笑われそうだ。だからと言って、方角のいい場所や地域を地図やアプリで選んでいる時間的余裕はない。マンションの前セブンイレブン前のバス停から京急の五一番のバスに乗れば、道が混んでなければ三十分で羽田空港へ行ける。

 急げ!

 気ばかりが焦るが、とにかく、ここから離れなきゃ、俺に罪が被せられるだけだ。余計なものは要らない。俺をここから逃れさせてくれるもの以外は……

――ピンポン 

 死人を擁したこの変わり果てた3DKにモニターフォンの人工的な音が鳴り響く。

 俺は、死刑執行人の訪問としか思えず、息を殺し、黙殺を決め込むしかない。恐る恐る、モニターを覗くと、アルフィの坂崎さんに安いパーマをあてたような小柄なおばさんが回覧板を持って立っている。見るからに図々しく、話の長そうな人なので、呼び鈴が何度鳴り続けようとも新聞受けに回覧板が落ちるまでじっと我慢の子だ。その一時は十時間くらいに感じたが、「ゴト」と鈍い音がしたときは狐の夜襲を逃れた鶏の気持ちが理解できた。

 愚図愚図していたら、厄介だ。こんなことが何度も続いたら精神的に持たない。次の訪問者は警察かブンヤかもしれない。この状況下で言い逃れなど一流の詐欺師や外交官でも不可能だろう。

 急げ!

 俺に繋がるものを処分する時間もなければ、センチになって思い出の品を選ぶ時間もない。持ち出せるのものは本当に現金とパスポートだけだ。

 そんな夢も希望もない、ウオトカの呪いで靄がかかっている現実。

 夢というのはなぜ知らない場所で知らない人ばかりが出てくるのかというと、「あれはこの世ではないからよ」といつかヨーコが言っていたが、俺が今朝目覚めた世界もこの世でないような気がする。それならば、現金を盗み、何の責任も取らず、ヨーコをここに遺棄する以外の罪も許されるはずだ。

 俺はヨーコの遺体に乗り、わずかに体温を感じる冷たい軀を震える指で愛撫し、血腥い豊かな乳房に顔を埋め、さして悲しくもないのに母を失った子のようにオロオロと泣き、白い砂丘を下り、濃い密林越しの不自由の象徴のようでもあった不機嫌な色の膣の中に骨か鉄板が入ったように硬くなったものを挿入したら、「ゾク」とするような厭な悪寒が背中を走った。

 俺は地獄に堕ちるだろう。

 その冷たさを説明するのは難しく、愛や快楽とは対極にある救いようのない冷たさであり、俺はもう常識であるとか、思いやりであるとか、そういうものの一切が通用しない人間の体を失った魑魅魍魎の外道やら悪霊やら畜生やらがウヨウヨと跋扈する、阿鼻叫喚の魔界で生きていくしか許されないようなそんな救いようのない冷たさを感じながら、何者かの手によって時間を止められてしまったヨーコを犯した。

 それは、今まで虐げられてきた報復ではなく、ただ、人としての尊厳を失くし、堕ちてゆくために。

 俺は地獄に堕ちるだろう。

 但し、これで俺は正しい逃亡者になれるのだ。


 人として絶対に許されない行為が終わって、俺がいったいどうやってマンションを抜け出したか、まったく記憶にないし、ヨーコにどんな最後の言葉を投げかけたかも覚えていない。

 いや。正確に言うと、行為が終わったことすら覚えていない。

 夢であったのかもしれない。

 気が付いたら俺は羽田空港行きのバスに乗っていた。呼吸が乱れた感じはない。衣服もちゃんとしたものを着てるし、怪我をした様子も誰かを怪我させた様子もない。懐中のパスポートが触るとコルトかトカレフのように冷たく、硬く感じる。当然、それでヨーコを撃ったわけではないが……

 もうウオトカの復讐は終わっていて、こめかみの痛みと現実を靄にかける何かは消えている。ただ夢と現実の境目だけが曖昧で落ち着かない。バスに乗ってまだ五分といったところだ。バスは大田区道主百二号線を真直ぐに走っている。平日の中途半端な時間なので、渋滞もなければ、席も空いている。

 窓越しに通り過ぎて行った「ペンギン食堂」と書かれた飲食店の看板が可笑しくて、俺はクスクス笑った。昨日までの羅刹と閻魔帳に石で刻まれたはずのついさっきの禍事と「ペンギン食堂」との対比がアンバランス過ぎたのが突き抜けた笑いの中にどこか行き場のない悲しみを感じる藤山寛美の喜劇のように思えたからだ。

 それは、罪悪感が俺の中から消えた瞬間だった。

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