最後の旅

野田詠月

第一章 ①


 ヨーコを殺そうと思っていた。

 このままでは魔女に嬲り殺され、生き血を吸われ、筋張った肉を齧られ、骨髄を吸われ、余った骨は赤だしか、薄塩振って素揚げにされ、跡形もなくなるほど喰い散らかされると思っていたからだ。

 魔女と言っても、箒で空を飛び、杖をちょちょいと振るだけで、食器を片づけたり、ぬいぐるみを躍らせたり、南瓜を馬車にしたり、人を若返らせたり、あらゆる悩みや諸問題を解決してくれる魔女ならば、高給、各種保険完備、オートロック駅チカのタワマン、和洋中選択可の三食付を以って三顧の礼で迎え入れたいくらいなのだが、ヨーコはそんなファンタジーとは対極にある女だ。現実、それも、自己嫌悪する間も与えてくれないほど忙しく、激しすぎる現実だ。

 鵜飼いの鵜。

 それも、昼間の従属だけでは飽き足らず、毎晩のように檸檬か菜種油のように果汁を搾り取られる。タバコの残り香のする苦い唇で何度も口と舌を吸われ、「いい」と言うまで蒸れたゴルゴンゾーラチーズ臭い毛深い中洲に顔を埋めて蜂蜜を舐めさせられた後で、背骨をミシミシと軋ませながら、腰を蠕動させる。快楽を感じることもやめてしまった軀でも情けなく精を放つ。種の保存ではなく、ただただ魔女の命じるがままにだ。

 愚かにも、魔女に自由と尊厳を忌々しい虱のように潰された現在でも俺は占いを信じている。

 田舎の祖母が佑星会なる会員三十名ほどのこじんまりとした神道系の宗教団体の教祖をしていた関係で、ガキの頃から姓名判断と九星気学には親しんできたし、フロイトやユングを熱心に読み込まなくても、物心のついた頃から夢解析ができた。そういった霊的なものと占術を味方にしたうえで、教養と自分を高めるための勉強は欠かさなかったので、失敗の少ない人生だった。

 そう。十年前にヨーコに出会う前までの俺は……

 まさか、ヨーコが俺よりも精密で理路整然とした占術を駆使して、依頼者の悩みや相談に完璧に対処し、導いているプロなどとは夢にも思っておらず、俺に対しては、占術をはじめとした今まで覚えてきたことや経験や解釈を全否定し、「あなたのお遊びの占術では何も解決できずに、あなたは今に全てを失い、年収百万未満の底辺に身を落とし、ステージ四の癌になって狂死する」と脅され、すっかり鼻っ柱を折られ、恐怖心を植え付けられた俺は、見事にマインドコントロールされ、恫喝されなくても、川が海に流れ着くくらいに当たり前のようにヨーコに尽くし、絶対服従を是とし、自ら進んで全てを差し出すようになっていた。

「交通事故」と自嘲できるのは、麻雀で巡目の浅い、解読材料が何もないリーチに振り込んだ時だけであって、それ以外の場合は、血を流し、傷を負い、平凡でゆるやかな日常を失うことになる。最悪の場合、軀を失くす。あの女は運命などではない。仕組まれた「交通事故」だ。現に俺は、魔女のひと睨みの呪術によって、羅針盤は狂い、帆は折れ、望まぬ逆張りに賽子は寒い目しか出ず、全てが裏目裏目に回り始め、やがて俺は暖かな港を追われた。然るべき才覚を持っていたことさえ忘れてしまったほど世界は変わってしまった。

 鉈を振り回して暴れる屈強な暴漢にペーパーナイフで応戦したらどうなるか?

 ふり絞った勇気は嘲りとともに簡単に握り潰され、明白が明白でなくなり、日常が非日常になり、自分はどうしてここにいるのかすらわからなくなり、自衛していたことさえ忘れて、躊躇なく頼りないペーパーナイフを手放し、鉈で一刀両断されてしまうことを望むようになる。理解してもらえないかもしれないが、それがヨーコの魔女たるゆえんである。

 悪い奴ほどよく眠る。

 まさにそうだ。

 この糞女ときたら、俺のたった一度のささやかな拒絶が気に喰わず、こんな搾取の毎日の中での唯一の希望だったカリフォルニアのナパバレーのワイナリーでワインを作りながら二人で暮らそうという話を全くなかったことにして、明日から俺を横浜の寿のタコ部屋に放逐するというのに、なんとも思わない。何も感じないを通り越して、人の運命を弄び、闇に葬り去ることに快楽を感じているのではないだろうか。人の痛みを解さないドSな女だということはとっくの昔に思い知ってはいるが、俺が許せないのは、協力者のフリをしておきながら、その実、分捕れるものは非情に分捕り、美味しい部位は喰らい、美しき誤解は嗤い、用済みになったら、悪い未来を刃物のように喉元に突き付け、恐怖を煽り、恫喝し、人格を否定し、屑箱へポイだ。

 たった一度のささやかな拒絶とは?

 そこまでは明らかにできない。それはヨーコの闇を暴くと同時に、俺自身をも貶め、ヨーコの引力圏内で厭な暗雲の立ち込める永遠の冬のような闇に引きずり込まれることになるからだ。

 諸刃の剣。

 寝息がヤニ臭い。そのヤニがへばりついていて、アメリカ生活が長かったくせに歯が汚い。こんな唇に塞がれ、しかも、反応し、精まで放っていたのかと思うと情けなくなる。

 ただ、愛と平和を歌う偉大なロックスターを四十歳という若さで早死にさせてしまった同名の過激でふてぶてしいブサイクな日本人のオバサンと違って、俺のほうのヨーコは、所謂、美魔女というやつで、名前は失念したが、平成の中頃に那覇の国際通りの「金城」で琉球三線を弾きながら琉球民謡を歌っていたエキゾチックな南洋美人の女に瓜二つなので、俺はそのロックスターのようにメガネをかけ、襤褸を着て、髭と髪を伸ばして自分を老けて、醜く見せる必要はないのだ。何より、死ぬ必要もない。

 俺は何度も寝返りを打っても眠れず、アイポッドに落としたビリーホリデイの盛りのついた猫のような歌声にしがみつき、キャビアをキンキンに冷えたウオトカで一気に流し込んでも、こめかみが痛み、口の中が苦くなるばかり。

 いったい誰のおかげで女王然としていられると思っているんだ?

 そして、いったい誰のせいで俺はこんなにすっからかんになってしまったと思っているんだ?

 期待するような返事などあるはずもなく、多摩川の向こう岸の川崎の鈴木町あたりの空から銀色の冷ややかな月明かりが窓をすり抜け、ヨーコの端正な顔立ちをモノクロームに照らしているだけだ。

 朝になれば、一瞬だけあったかもしれない甘い夢の残り香を思い出す暇もないほどの過酷な毎日が俺を待っている。ダニと南京虫の這うタコ部屋でただその日を生き延びるだけの赤ら顔の人生の落伍者どもと安焼酎を囲んで傷を舐めあえとでも言うのか?そんな残酷な仕打ちが許されてもいいのか?これだけ俺はヨーコに尽くしてきたのに!跪き、妄信し、隷属してきたのに!

 裏切られたということは要するに俺が甘かったということだ。

 そう割り切って恨みも後悔もせずにいるには俺はあまりにも多くのものをヨーコに捧げ過ぎてしまった。それが罪だとするなら、それを裁くのは神であり、それも死まで判決を待つのがスジなのかもしれないが、頭では理解できても到底、運命を受け入れる気にはなれない。

 だからヨーコを殺す?

 バカな!

 直情的な南洋女のヒステリーじゃあるまいし。

 だからと言って、今日まで十年と四か月、肉体的にも精神的にも時間的にも金銭的にも追い詰められ、恐怖と救われたい一心から全てを差し出した俺をドヤ街で無期懲役を科したこの魔女を許せるのか?

 こんなことになるのならば、占いの知識など持つべきではなかった。魔女にマウントを取られ、虐げられる占術使いなんて、女を「ネギと鍋と芳醇な秋田か会津あたりの日本酒を背負った鴨」としか思っていないホストが結婚詐欺に遭ったようなものだ。多分、ヨーコが俺を愛したことなど一度もないだろうし、いったいいくつの嘘と暴言を吐かれたのかも忘れてしまったが、出逢ったことはもとより、生まれてきたことすら悔やんでしまいそうだ。

 どちらにせよ、訪れる朝は別離であることだけは確かだ。

 俺は別にヨーコと別れるのが厭なのではない。

 あまりにも惨めで、あまりにも情けなくて、ほんの一寸だけでいいから、報われたいだけなのだ。幾杯ものウオトカではその役目は果たせない。だからと言って、最後にヨーコに優しくされたいわけでもない。心はとても鬱屈としている。

 さよならと書いた手紙でもテーブルの上に置いて、「悪いのは君じゃないさ僕のほう」なんて女々しく、甲斐甲斐しい台詞を言えるほど殊勝な気持ちにはなれないし、あの歌だって本当は、しつこくて束縛のきついメンヘラーみたいな女から逃れる歌なんだろう。似たような境遇の俺には行間が面白いように理解できる。

 静寂は続く。

 まるで俺を嘲笑うかのように。

――魔女を殺してしまえ。

 何者かが俺の耳元で教唆する。

 それが悪霊なのか、俺の心の声なのかは知らない。

 抗いを理詰めと鋭い眼光に威圧され、屈服させられるくらいならば、そうしてしまうのもまた人生だろうし、コールドゲームを惜敗くらいにできるのかもしれない。ただ、やらなければやられるわけでもない。掃き溜めの寿で俺が腐らず、何かを掴み、形にすれば、また利用価値を見出して、ここに呼び戻してくれるのかもしれない。

 甘いなぁ。

 わかっている。

 だから、そういうところをヨーコに付け込まれ、占術という刃物を喉元に当てられ、いいように利用されてきたんだろう。今までの不実と蹂躙を責めたてたところでヨーコに軽蔑の念を込めて同じことを言われるだろう。

「あんたが甘ちゃんだからよ」

 それなのに、俺は道化師のように目は笑っていないのに、ヘラヘラと口角と声だけで笑いながら終焉を迎えようとしている。

「甘いなぁ」と思いながら。

 ウオトカの酔いが頭の中を大きさがバラバラのガラスの破片で敷き詰め、不快にさせる。酔うためだけに飲む酒はまるで忘れたいがために抱く行きずりの女と同じだ。徒労しか残らない。いや。それでいい。忘れたい過去が残るくらいなら徒労が残ってくれるほうがいい。残ったところで数日の話だ。それも眠れば忘れられる類の徒労だ。

 窓の外の鈴木町あたりの空が濃い闇から、藍色、そして薄紫色へと変わってゆくのを見ている。陽はもっと向こうの穴守稲荷の産業道路あたりの方角から昇ってくる。

 眠らなければ耐えられまい。

 過酷な明日にも、魔女の弁舌にも。

 こめかみが痛む。

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