109てぇてぇ『バレンタインってぇ、策が必要なんだってぇ』

ぴんぽーん。


チャイムが鳴り、慌てて玄関へ向かう。

ドアを開ける。不用心だと言われそうだが、そんなの関係ない。


そーだ:ふふ、こんばんは。


目の前には、水色の美しく長い髪の女性。

楚々原そーださん。マンションの隣に住んでいる大学院生だ。


そーだ:あの、カレーです。また、作りすぎちゃって。


そう言って彼女は、小さな可愛らしい鍋に入ったカレーを見せてくれる。


そーだ:よければ、また手伝ってください。


ことわる理由がない。勢いよく頷くと彼女は口元に手を当て静かに笑う。

鍋を受け取る時、ほんの少しだけ手が触れる。

温かい。

料理をしていたせいだろうか彼女の手はほんのりと温かくて、それが料理、そして、彼女の温かさのような気がして……。


そーだ:ふふ、じゃあ、おやすみなさい。鍋はまた今度返してくれたらいいので。


そういって、彼女はくるりと横を向いて去っていく。

彼女の華奢な背中を見送っていると、隣のドアを開けようとした彼女と目が合う。

少し照れたように笑うと彼女は、


そーだ:もういっかい出来ますね……おやすみなさい。


少しささやくように声を落としてそう言うと彼女は部屋に入っていく。

そーださんが、作りすぎたごはんを持ってきてくれるのはもう何度目だろうか。

引っ越しのあいさつで来てくれた時から美人さんだとは思っていた。

ある時困っていた彼女を助けてそのご縁でたびたび作りすぎたご飯を頂くようになっていた。

今日のカレーも美味しい。

今日は来てくれる気がして、食べずに置いてよかった。


そーだ:Hello,…………。


隣のそーださんの声が聞こえる。彼女は英語が専門か何かなのか、時折英語の練習? 通話? とにかく英語が得意らしい。流暢すぎて何言ってるかはわからないし、そもそも、盗み聞きは良くない。

だけど、彼女の綺麗な声はずっと聴いていたくなる。そう、ずっと。

頭を振って、カレーに集中する。


美味しい。

料理も出来て、英語も出来て、美人、そして、落ち着いていてすっごく大人だなんて、天は彼女に二物も三物も与えちゃって……ありがとう! 神様!

カレーは少し我慢して残りは寝かせておこう。

夜遅くまで壁越しの彼女の綺麗な声を遠くに聞きながら眠りにつく。


翌日。


ぴんぽーん。


家に帰るなりベッドにダイブした瞬間、今日も我が家のチャイムが鳴る。

楚々原さん以外で珍しいなとインターホンを覗くと、楚々原さんだった。


そーだ:こ、こんばんは。


二日連続なんてないと思っていたから油断していた。

慌てて身だしなみを整え、ドアを開く。


そーだ:あのー、え? まだカレー食べてない? もったいなくて? 今日来ると思ってなくて……お返しも用意できてない。あはは、いいですよ。気にしなくて。


そういう彼女はどこかに出かけていたのだろうか。いつもよりお洒落をした楚々原さんがいる。

ずきりと胸が痛む。

誰と、出かけたんだろう。


そーだ:え? いつもより、お洒落? そうですよ、ふふ……誰と出かけたか? あー……いえ……ひとりです。ずっとひとりでした。


少し陰のある声で楚々原さんがそう言う。

一瞬現れた嬉しい気持ちを思い切り殴りたい。


そーだ:あはは、謝らないでください。あ、そーだ。謝るなら、これ、受け取ってもらえますか?


そう言って彼女が差し出したのは、白と水色の爽やかな包み。


そーだ:チョコレートです。


そうか、今日バレンタインか。作りすぎちゃったのかな。


そーだ:ふふ……そうですね、作りすぎちゃいました。なんでも作りすぎちゃうんですよねー。思いが溢れちゃって……。


楚々原さんはそう言いながらその包みを押し付けるように出してくる。

その手は温かい、というより、ずいぶん熱くて。


そーだ:I,…………


楚々原さんが何かをうつむきながら呟いている。だけど、それは英語で聞き取れなくて……。

それを告げると楚々原さんはまた微笑んで、


そーだ:分かりました。じゃあ、日本語でお伝えしますね。


楚々原さんはそう言って耳元まで口を寄せ、


そーだ:日本語で、『月が綺麗ですね』って言いました。


彼女の吐息は熱っぽくて、


そーだ:じゃ、じゃあ、おやすみなさい。Good night.良い夜を。


そう言って、彼女は隣へと戻っていく。

月は綺麗かもしれない。だけど、それは飽くまで……。

彼女の華奢で美しい後姿を目で追う。

ふと耳が真っ赤なことに気づく。彼女の月明かりに照らされた白い肌だと目立つ。

そう思ってぼーっと見ていると隣のドアを開け中に入ろうとするその瞬間にこちらを見て、


そーだ:カレーのお返しはいいですから、そのチョコレートの、私の気持ちへのお返しは私、ずっとずっと待ってますから。返してくれると嬉しいです。


そう言って、彼女はドアを閉める。

部屋に戻り、貰った包みを開けると、お店で売っているようなチョコレート。

でも、そこには、しっかりと『手作りですよ』の文字。

思わず良くないことだと分かっていても壁越しの声に耳を澄ませてしまう。

何も聞こえない。

そう思っていたら、小さくノックのような音が聞こえ、彼女の声が聞こえる。


そーだ:ハッピーバレンタイン♪




「ふぅー……」


俺は、ヘッドホンを置いて天を仰ぐ。

めっちゃよかった。

そーだのバレンタインストーリー、めっちゃよかった。

そーだの出来る大学院生感が凄かった。なんだろう、丁度いいリアルっぽさだった。

ちなみに、ナレーションは姉さんだった。

二人とも演技がうますぎる……。


あ、姉さんはこういうキャラを演じることが俺に対する浮気なのではと変な事を言っていたので『姉さんのお芝居俺好きだよ』と言って秒でやらせた。

チョロいけど、逆に不安。


ドアがノックされる。


「累児さん」


そーだだ。タイミングが良すぎるな。まあ、姉さんじゃないし盗聴しているわけではないと思うけど。

俺がドアを開けると、にこにこ顔のそーだが立っている。


「ごはん出来ましたよ」


そう言うそーだからはふわりとカレーのにおいがして、さっきのストーリーがフラッシュバックして顔が熱くなる。

ちなみに、今日はそーだが作りたいと言い出し俺はお休み。ちょっとさみしい。


「??? どうしました?」

「あー、いやー……さっきまでそーだのバレンタインボイス聞いてたから」


俺のその言葉に少しだけ目を見開くと、口元を手が隠しくすくす笑うそーだ。


「ふふ、どうでし」

「めっちゃよかった」


素直な感想を食い気味で伝えると、そーだは今度は大きく目を見開き、顔を赤くしはじめる。


「あ、あははは……もう累児さんったら」


そーだがそう言って慌てて振り返りキッチンへと向かう。

キッチンにはまだ誰も来てなくて、俺は先に頂くことにする。


「これが累児さんのカレーですね」


そーだも俺と同じやり方でワルメン一人一人に合わせたカレーを作る。

大体俺は余ったののミックスなんだけど今日は俺専用がある。黒味が強く卵が乗っている。

食べると深いコクがあって、今まで食べた事のない味で……


「今日の隠し味は、カカオたっぷりのチョコレートですよ」


耳元でそーだの声。


「みーんな、累児さんに甘いチョコあげるでしょうから。私は、カレーに溶かしちゃいました。口が甘くなったら、いくらでもありますから、私のカレーに戻ってきてくださいね。あ、月見カレーがおすすめですよ。月が、綺麗ですから」


耳元まで来て気づく。カレーに混じった甘いチョコの香り。

離れていくその香りの主の後姿。耳は真っ赤だった。

そして……


「そーだ、アイツマジで油断ならんわ……!」

「何たる策士……!」

「ぐぬぬ」


壁に隠れて顔を真っ赤にして怒りに震えるほかの面々がいた。

おいそーだ、分かってやってたな。

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