第6話 風俗出身の元木に対する憐憫の情のゆくえ 

 貝原の話によると、元木夫婦は性格の不一致ということで離婚したという。

 子供は元木の元夫と両親が引き取ったー要するに元木は、自腹を痛めて産んだ三人の息子からも引き離されたという事実が元木を狂わせたのかもしれない。

 

 大した学歴もなんのスキルももたない女性が、地方から都会に出てきても活躍場所はそう与えられない。

 喫茶店から始まり、スナックから風俗へと流れていくというパターンはあまりにも多い。闇金の借金を除き、最初から好きで風俗に行く女性など皆無であろう。

 もし私が元木の立場だったとしても、元木同様になっていたのかもしれない。

 私はふと、元木に同情と憐れみと感じた。

 そして元木が、正常な精神を取り戻し、三人の息子と再会できるときを願った。

 私は元木に対する憎しみが、小さな慈愛に変わっていこうとする自分の心に一条の光がさし込むのを感じた。

 憎しみという暗闇の向こうの隙間から、同情心の一条の細く淡い光が差し込み、その光が、慈愛という強い光へと変わっていくのを予感していた。

 もしそうなれば、この光は神様からのプレゼントに違いない。

 

 元木の異常性は、日を追うごとに増していった。

 日陰にいて世間の闇まっしぐらに堕落していく最中の女性が、のほほんと日向ぼっこをしている女性に向かって悪態をついていくようである。

 いや、悪態をつくことが元木に残された最後のエネルギー源なのかもしれない。

 元木は憎しみという悪霊にとりつかれた、狂人なのかもしれない。

 残念ながら風俗出身の女性は、風邪をひきやすく、力仕事は皆目ダメだという。

 2キロ程度のものも持ち上げられない。

 だから私は、元木の尻拭いに選ばれたのであるが。


 ある日、元木はチーフから残業を命じられ、二十二時まで働かされたという。

 それを私のせいー私が男性チーフをそそのかしたと妙な勘違いをし、意味不明の怒鳴り声をあげた。

「こんなことは店長かチーフが決めることだ。お前が言うのは十年早いわ」

 店中がシーンとなった。

 この頃は、店長やチーフも元木を気味悪がっている。

 しかし私は元木の最後の砦(とりで)になろうと思った。

 このことが、元木とともすれば元木の二代目になっていたかもしれない私を救うことになるからである。


 一瞬先は闇というが、元木の人生がまさにその通りかもしれない。

 本来、結婚というのは男性の助け手になる女性が嫁であるという。

 だから、妻になる女性は夫を手助けすべきである。

 結婚に羅針盤はないというが、妻は夫に従っていくしかない。

「あなたは主に従うように、夫に従いなさい」(聖書)

 主に従うというのは、盲目的に従うという意味である。

 どんな理不尽なことでも、夫にさえ従っていけば夫婦関係はうまくいくだろう。

 

 女性は結婚前は両目を開けてしっかりと、相手の男性を選ぶ必要があるが、結婚後は片目をつぶって男性を許す必要がある。

 しかし、同棲も含め結婚前のセックスは女性の目を曇らせ、つい男性のいいなりになってしまう傾向がある。

「あなたは姦淫してはならない」(聖書)

の通り女性は、姦淫などしない方が目が曇ることなく、聡明でいられるのである。

 しかし姦淫を恋と勘違いする女性はあまりにも多い。

「君から僕に離れることがあっても、僕から君を離すことはない」などという甘言に絡めとられ、腐れ縁だとわかっていても男性にすがってしまう。

 不倫がその典型だろう。

 しかし、言い替えれば「僕は君がいてもいなくても困りはしない。しかし、君には利用価値があるので、僕は君を離しはしない」という意味が隠された、相手のご機嫌取りが目的の美辞麗句でしかない。

 女性はそれを愛と勘違いし、そこから間違った道が始まる。


 ある日、無理がたたったのか、元木は風邪をこじらせた。

 勘違い元木は、私に文句をつけにきた。

「あんたはいつも私の言ったとおりにしないじゃないの。荷物の置き場所も違う」

 私は今まで隠していた真実を暴露(?)するときが訪れた。

「なにか勘違いしてません? 荷物運びはみな、元木さんの仕事なんですよ。

 いつまでたっても元木さんが上ってこないから、私が元木さんの犠牲になって行かされてたんですよ」

 元木はポカンとした表情で「私が今まで一分でも、手を休めたことがあったか?」

 私はこらえきれなくなり「それこそ店長が決めたことなんですよ。私にはもう私の仕事があったんですよ。今までは、元木さんの尻拭いをしてあげてたんですよ」

 元木は、最後のあがきのように私に噛みついてきた。

「なによ。あんたなんて、私よりちょっと体が大きいだけじゃないか。このくそバカ女め」

 無理がたたったのだろう。元木はホール廻りができなくなった。

 店長から「言うこと聞けなかったら、辞めてもいいよ」と言われ、店を去って行った。


 それから一週間後、休憩時間に店の近くのカフェで珈琲を飲んでいると、店の隅に非常に濃い白塗りの化粧に大きなイヤリングをつけた女性が、タバコをふかしていた。

 あっ、あれは元木だ。

 噂によると、元木は以前風俗の世界にいたらしい。ということはデリヘルの待ち合わせか。

 やはり元木は、どんなにあがいて這い上がろうとしても、結局は元の世界へと帰るしかなかったのか。

 堕ちるつもりか 同じ世界へとー私が元木とケンカするということは、元木と同じ世界に堕ちることになってしまう

 戻るしかない 元の世界へとー結局元木は、私にケンカを売った挙句の果て、元の世界へと戻るしかなかった

 一寸先は闇ならず、三寸先は元木ー世の中を落とし穴を垣間見た、複雑な気分だった。そう思うとなぜか、元木を憎む気になれなかった。


 そういえば、アメリカで少年院の教官が、少年院生を見て

「こいつらは、どうしようもない悪党である。更生の余地などある筈がない。

 税金が無駄使いである」と思い続けていた。

 しかし、少年院生の想像もできないほどの劣悪で邪悪な環境ー特に家庭環境を聞いて、もし自分が少年院生の立場だったら、もっと知恵を働かせた頭脳犯罪を行うに違いないと痛感し、今までの自分の恵まれた人生に感謝したそうである。

 世間から困った人と評価される人は、現在困った環境に置かれている真っ最中の人である。


 カフェで珈琲を飲んだあと、サンドイッチを注文した。

 すると、なんとサンドイッチの具は、パプリカと魚肉ソーセージをケチャップで煮たものである。

 大昔、小学校時代、私が元暴走族の相田翔太にプレゼントしたロールパンの具と同じである。

 ふとカウンターの中をみると、相田翔太がコックとして働いていた。

「やあ、結衣じゃないか。久しぶり」

 翔太はすっかり更生していた。

「今から休憩なんだ。向かいに座っていいかな? 積もる話もありそうだしさ」

 噂によると翔太は、少年院を二回出所したあと反社になっていると聞いたが、私はうなづいた。

「俺の刺激的な話、ご披露します。結衣って、昔から本が好きだったじゃない。

 小説のネタにしてもらっていいですよ」

 そういえば、私は翔太に勉強を教えるばかりではなくて、本も貸し出したことがある。タイトルは忘れてしまったが。

「俺、少年院のなかでよく本を読んでたんだ。なかには結衣から貸してくれた本もあったよ。あっ、そういえばあのとき、水をこぼしてしまってページが破れかけたな。今、謝ります」

 えっ、そんなことがあったっけ。私には記憶がなかった。

「俺は、小学校の時、ミニバスケットボールの試合で相手チームとケンカし、それが原因が試合に出られなくなってしまったということは有名だよな」

 ああ、そんなこともあったっけ。

 しかし、それから翔太は偏見の目でみられ、いわゆる不良のレッテルを貼られるようになり、中学三年のときは勉強嫌いも相まって週に三回くらいしか登校しなくなってしまった。

 私と翔太とは、別世界の人間になり接点はなくなった。


 




 






 


 

 


 

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