第5話 世の中広いようで狭い―予想外のつながり
私と布川との間に友情が生まれていたが、私は布川を恋愛対象としては見ていない。おそらく布川もそうだろう。
ある意味、私は布川にとっては母親的な存在でありたい。
そのときだ。見覚えのある女が布川を見て声をあげた。
「あんた、会いたかったよ。今何してるの?」
あっ、まぎれもなくあの女、忘れもしない昔のバイト先のとんでもない、気ちがいじみた女、女性の不幸道をまっしぐらに堕ちていく典型のような女である。
「あっ、お母さん、おかんこそどこに行ってたの。警察に捜索願を依頼したんだよ」
昔のバイト先の思い出が蘇ってきた。
五年前、私は有名中華料理店のチェーン店「味王」でバイトしていた。
忙しく、そのくせ客筋があまりよくない店なので、辞めていく人が後を絶えない。
最初、面接希望で応対したのがあの女性だった。
当時四十五、六歳だったろうか。生活の苦労のにじみ出た、やつれた感じの中年女である。
私は即決採用になり、初日からホール廻りを担当することになった。
あの女性ー元木信子ーに教えられながら、ホール廻りをしていたが、元木は私に冷たく当るのだった。
そのうち、ホール廻りは二人もいらないということで、私は皿洗いに回されることになったが、すぐホール廻りに復帰した。
その店は一階と地下一階とがあったが、元木は地下一階で朝、食材の仕込みをしていた。
元木の仕事は食材の仕込みとその仕込み材料をリフトで一階に上げることだった。
しかし、いつまでたっても上がってこない。仕方がないから、私は店長の指示で元木を手伝うことになった。
しかし、元木はそのことにはまったく気づいていない。
私に執拗にケンカを売ってくるのだった。
だいたい元木は、最初の挨拶からしておかしかった。
「はい、今日からお世話になる仁志田 結衣です。よろしくお願いします」
すると元木は、プラスチック製の箱を急に振り上げ
「あんた今、はいと言ったな。あんたの「はい」は人の心を傷つけるのよ。
今度私の前で「はい」と言ってみ。ウチがあんたに手をかけないと思ってるのか。
あんた、ケンカしようか」
私は絶句した。ひょっとして元木は精神疾患か、覚せい剤中毒なのだろうか?
このような人物は、私にとっては初めての体験である。
皆、元木の前では平静を装っていたが、実際のところ元木を気味悪がっていた。
だから、新人である私が元木と組むことを選ばれたに違いない。
元木は、ことあるごとにケンカをふっかけてきた。
もしかして、私が元木に手を出して解雇されることを企んでいるのだろうか。
喧嘩両成敗というが、いくら口で失礼なことを言われても、先に手を出した方が負けである。
元木は、私が手を出すとでも思っているのだろうか?
私が低姿勢で「この野菜、このカゴから持って行っていいでしょうか」
元木は「あんた、そんなこともわからないの。あんたはタダのバカではなく、度を越えたバカなんじゃからな」
なんで私がそこまで言われなきゃならないんだ。
しかし、店長やチーフのように立場ある人間じゃあるまいし、こんなことは、パワハラ、セクハラの類にも入らない。
私は知らん顔を決め込むことにしたと同時に、元木が今までどういう世界で生きてきたのかを知りたい好奇心が頭をもたげた。
もしかして元木は、カルト宗教の犠牲者なのだろうか?
そういえばある有名なカルト宗教ー今は影をひそめつつあるがー金取り主義だというのをよく耳にし、一時はそのカルト宗教を専門に取り扱う週刊誌まで存在していたほどである。
しかも、学術会などといういかにも知的な言葉を後ろにつけ、人間の賢くなりたいという願望に付け込み、この宗教に入ればいかにも知的になれるといったムードを醸し出す。
通常の場合、新興宗教というものは金持ちから取り上げるというが、学術会は違う。貧乏人から雑巾の如く、絞り上げるのだという。
学術会は、あまり経済に恵まれない人や病気もちの人の面倒を二週間にわたり、無償で食事を与えたりして入会させた挙句、金集めに利用するという。
家族が入信していた人が学術会の愚痴をこぼす。
ある信者は、自宅のドアの前で違った地区の婦人部長が仁王立ちし、通せんぼのポーズをしているという。
「おい、今日こそ二万円払え」
その婦人部長がが毎日二週間にわたってくるという。
二週間目その信者は「おい、明日来たら、警察に恐喝で訴えるぞ」というと、翌日からピタリと来なくなったという。
なんでもその二万円というのは、会費などの強制ではなく、寄附金である。
ましてや、違う地区の婦人部長がしゃしゃり出るのはおかしなことである。
まったく金取主義としか言いようがない。
しかしそんなことが、十周年続いた後、あまりのひんしゅくの挙句、就職などで差し支えるので、入信しているという事実を秘密にするようなった。
金集めに利用されるのは、女性が多いので精神疾患になる母親も多いという。
もしかして元木は、学術会の会員だったのだろうか。
元木はことある毎にケンカをふっかけてきた。
「あんたは度の越えたバカ」
「そんなこともわからないの。あんたの家ではどうかはわからないが」
私は無視を決め込むことにした。
元木は私を退職に追いやろうとしているのだろうか。
しかしそうなると、元木が私の分まで仕事をしなければならないという悪循環に陥る。
元木はそのことがわかっていない。
元木のことは皆、避けていた。元木の尻ぬぐいである荷物運びをするのは、この私以外には誰も見当たらない。
私は皿洗いからホール廻りに昇格(?)することになった。
元木はそれに危機感を覚えているようである。
私がホール廻りをする間、ずっとカウンターで野次を飛ばしている。
「はやくやれ、もっと、ちゃっちゃとやれ」
「そんなこともわからんのか あほう」
とうとう客席の中年男性から苦情がでた。
すると元木は「はいと返事するの、止めてくれないかな。あんたのはいは叫んでるのよ」
私は思わず失笑したと同時に、元木はカウンターから飛び出してきて私の腕を引っ張ったのだった。
「おばさん、辞めとけ」という客の声
すかさず私は「警察を呼びますよ」と言った。
すると元木はまるで我に帰ったかのように「警察を呼ばれたら困るんだ」と笑いながら、手を離した。
元木は地下一階に回されることになったが、相変わらず私に対するくだらないともいえる嫌味「お前はバカだ」は続くのだった。
ある日、貝原という古株のおばさんが私に言った。
「ここだけの話、これ内緒だよ。元木おばさん、実は昔スナック勤めから汁婆(シルバー、中高年対象の風俗)へと堕ちていったんだって」
やっぱり、私の予想通りである。
私は元木のことを瞬間精神分裂症かもしれないと予想していた。
瞬間的に現実から逃避し、精神が分裂して奇異な行動にでたりするのである。
それが本当だったとすると、元木は世間的弱者であり、いわゆる負け組であろう。
その最後の砦が、この「味王」だったのである。
味王を追い出されると、元木は元の風俗に戻らなければならない。
元木の能力では、事務員や他の業種が勤まる筈がない。
元木は風俗に戻ることが怖くて、私を目の敵にしているのだろうか。
貝原はしんみりと話を続けた。
「元木さんって、山陰地方出身で結婚したんだけどさ、三人の息子を残して離婚させられ、大阪へ出てきたんだって」
たいていの場合、子供は母親が引き取るというが、元木の場合はその反対か。
それとも、嫁ぎ先が裕福だったのかもしれない。
いわゆる元木のような気が強いだけで、教養もいや常識すらない女性は、裕福な嫁ぎ先では勤まらなかったかもしれない。
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