第4話 布川との想像上の恋物語
原口は緊張したような面持ちで、玲奈の隣に座った。
「申し訳ございません。個人情報が洩れるなんてことは、あり得ないと思いますが、きっと相手の対応に問題があったと思われます」
玲奈はすかさず「私もその通りだと思います」
客は興奮が冷めたようであるが、それでも腑に落ちないような表情を浮かべている。相手側に悪気がないことが判明したが、それでもグレーゾーンの疑問点が残るという事実は隠せないようである。
原口は客の表情をうまく読み取り「こちらからも、相手に電話をかけて確認してみます」と畳みかけ「大変申し訳ございませんでした」と頭を下げた。
客は原口を信用したのか、軽く一礼をして背中を向けた。
原口は背中越しに「申し訳ありませんでした」と言った。
客は納得したように帰っていった。
玲奈は原口を見上げ「さーすがですね、店長ってやっぱり人心掌握術を心得てらっしゃるんですね」と御世辞を言い、男性スタッフー原口の部下にあたるがーを振り返り腰をかがめた。
その途端、胸がチラリと見えたが、恥ずかしがるようすもなく
「見せてあげようか。私のバスト拝みたい」と言い出す始末である。
男性はハンターのように追いかけるのが好きなので、女性からエッチまがいのことを言われると、ドン引きしてしまうという。
逆にいえば男性からのねちっこい執拗なY談を避けるためには、女性の方からY談を仕掛けるに限るという。
男性は、女性の恥ずかしがる様子が見たいので、Y談を仕掛けるのであるが、玲奈のように、自分からバストを見せてしまうとかえって飽きられるということが、わかっていないのだろうか?
もちろん、原口も部下の男性も興ざめしたように知らんぷりを決め込んでいる。
マットすべりの件といい、逆セクハラまがいの件といい、玲奈は困った人物になりつつある。
私は一日一度は、原口を見なければ気がすまない。
ガラス越の恋とはまさにこのことなのだろうか。
触れること以前に、言葉を交わすことすら許されない。
それでもなぜか原口から離れることができない。
原口を見ているだけで、私は幸せだった。
私はまるで母親が我が子から離れられないように、原口から離れることができない。
育児放棄というのは、母親自身が生きていく自信がなくなったときに起こるものなのだろう。
昔、母子心中という話を聞いたことがある。
自分の子供の首を絞め息を引き取るのを見届けて、自分自身も命を断とうとした母親がいた。
しかし、子供の首に手をかけようとすると、なんともいえない無邪気な人懐っこい笑顔で、ニッコリと笑ったのを見て、手を離したという。
それからは、母子家庭ではあったが子供はすくすくと成長し、真面目なサラリーマンとして社会で活躍している。
そういえば、ハックンも母子家庭で生活保護を受けていたという。
ハックンの母親は常にハックンに勉強を要求したが、ハックンはそれに答え、ハーバード大学を卒業した。
学生時代のオモチャは、ハックンのお手製のフレスビーだったという。
ハーバード大学は一番の人ばかり集まる大学なので、シナリオコンクールに入賞したハックンのレポートは目立たなかったという。
原口の部下で入社してきた若い男性は、店頭で客に声掛けをしている。
携帯ショップも過当競争であり、客から必要とされなかったら姿を消してしまう。
たいていは、駅前にあるのであるが、それだけ家賃も高い。
私はいつまで原口を見つめていられるだろうか?
そんなとき、原口の部下に当る男性が軽く会釈をしてきた。
二十五歳くらいのジャニーズ系を和風にしたような、優男である。
私は、つい昨日の出来事を彼にぶつけた。
「昨日、そちらの系列の電気会社と一年間契約をしていたが、契約を打ち切りの電話をかけたらその翌日、早速電話がかかってきて、個人情報を聞かれたんですよ」
彼、布川は真剣な表情で、話に乗って来た。
「個人情報といいますと、名前、住所、生年月日、電話番号ですね」
私はそれに答えた。
「そうです。そして最後に私の電話番号を教えると、十秒も立たないうちに、折り返し電話があったんですよ。なんと「この電話番号を知りません」
知りませんとはどういう意味でしょうか」
布川は絶句したように、目を伏せた。私は自分なりの解釈を述べた。
「それとも、私が契約時に間違った電話番号を知らせたということなのでしょうか? まあこんなこと、いくらあなたに言っても拉致があかないけどね。
ごめんなさいね」
布川は畳みかけた。
「多分、手が遅かったんでしょうね」
布川の申し訳なさそうな顔が、私の同情心をあおったと同時に、彼はただの優男ではなく、信用できる正直な人間にもうつった。
私は布川に対する想像を巡らした。
年齢は二十五、六歳くらい。大学は卒業していないかもしれない。
母子家庭で、母親を庇って生きてきたのだろうか?
私の今までの人生経験から培った想像を巡らしてみた。
多分、多少の挫折はあったが、汚れなき人生をおくってきたに違いない。
女性と付き合った体験など、ほとんどないのだろう。
まあ、現在の二十代の男性の四割が女性とデート体験がないというが、布川もそのうちの一人なのかもしれない。
しかし逆にいえば、類は友を呼ぶ式でそういった男性は、女性に対しても純潔を求めるという。いわゆる女性に対して理想が高く、潔癖だともいえる。
だから余計に、不倫男の如く女性を遊びの対象として見ることができない。
年はあけ、正月を迎えることになった。
布川は、この頃はよく中高年の客と接している。
「わからないところがあれば、また聞きにきてください」
客はジョーク半分で「わからないところだらけだよ」と笑いながら去って行った。
初詣でにぎわう有名神社に多くの人が、携帯ショップを通り過ぎて行く。
向かいの焼き肉屋では、焼いたばかりのホルモン焼きをパック入りで販売していて、ニンニクの匂いが漂っている。
そんな中で、布川だけが携帯ショップの前で宣伝マンの如く立っていた。
私は思わず「あなたにはいつも、無理難題言ってごめんなさいね」と声をかけた。
布川はいつものように、私とは目を合わせようとはせず
「いいえ、大丈夫ですよ」とマスク越しの目を細めながら答えた。
見かけよりも案外、骨のあるタフな男性なのかもしれない。
「携帯にときどき鳴るベルのような音、もう少し低くすることはできませんか」と尋ねると「それは無理ですね。電源を切って頂かない限りは」
「ありがとうございました」と言って、私は立ち去った。
私はふと、布川の恋物語を想像していた。
あなたと初めての秘密のデート
客として訪れた私に あなたは優しく丁寧に説明してくれた
私を見ると 挨拶してくれるあなた
人影まばらの早朝の公園の並木道を
二人手をつないで歩く 三十分だけの許されたデート時間
あなたはさりげなく 私の肩にマフラーをかけてくれた
こんな体験初めて 思わず私は感動しちゃった
営業が始まったばかりの ファーストフード店の机の下で
指を絡ませながら 私はあなたが笑ってくれそうな
一人漫才を披露する
今日だけは私はあなた専属のお笑い芸人
あなたの笑顔が私のエネルギー源
私、高校時代バイトしてたとき
私の方を 下から上へとなめるように見回すバーテン男がいたの
布川はすかさず「まあ、世の中にはいろんな奴がいますからね」
バイトして二日目、そのバーテン男が
「ちょっと話がある。四時半に駅で待っている」というから仕事上の打ち合せかと思って言ったら、そのバーテン男が私の腕を組み、駅前の公園に誘い出したの。
「そないに怖がることないがな」と言いながら、公園の真中に進んでいこうとして、私の尻を触ろうとしたの。
私が「何をするんですか」と責めるように言うと、バーテン男はあきらめたように
交通費を私に渡そうとして「このこと誰にも言わないでくれ。すみません」と言って去っていったわ。
布川は驚いたように「危機一髪じゃないですか。でもまあ、何事もなくてよかったですね」
私はすかさず「この話には後日談があるの。他のバイトの男の子から聞いたんだけどね、「あのバーテンには近づかない方がいいよ。バーテンが部長と話をしているのを見たんだ。バーテンの後ろにはチンピラがズラーッ並び、部長は恐ろしがっていた」」
布川は思わず絶句したように「それは怖いですね。でも何事もなくて本当によかった」と安堵の表情を浮かべた。
布川は私の身の上を案じてくれているのだろうか。
もし布川が悪党だったら、それこそ私を風俗に売ることを考えてるかもしれない。
私は、いつものように私からさよならしようと伝票をもって、珈琲代を伝票の上に置いた。これは私からの別れの合図である。
昔「恋のルール」というアメリカ発の恋愛指南本がベストセラーになった。
男性はハンターであり、逃げる女性を追いかけたいと思う生き物。
決して女性の方から覆いかぶさるように迫ってはいけない。
「私、あなたの彼女になってあげようか」と恩着せがましく言ったり、胸をはだけて
「私の胸、見せてあげようか。本当は見たいんでしょう」なんて論外。
それをされると、男は興ざめするという。
水商売の如く、男性というのは誉め言葉に弱い。
「そのネクタイ素敵ですね」の通り、褒め殺しというほど褒められると、男性は目尻を下げるという。
そして、デートは女性の方からお開きにする。電話も女性の方から切るようにして、男性に物足りなさを味わわせる。
距離感を持たせ、男性に追いかけていきたいと思わせるのが恋を成就するコツだという。
まあ、女性でもそれは言えるのではないか。
私が十九歳のとき、津氏という浪人生がいた。
沢木という友人を通じて知り合ったのだった。
ジョーク交じりだとわかっていても「好きになりました。つきあって下さい。友達なんかじゃなくて、彼女として。あなたは今日から僕の彼女。さもないと恥を忍んで電話番号なんか聞くわけないじゃない」と言われるとたいていの女性は喜ぶという。
それに加えて「あなたって、芯が強いように見えてはかないところもある。
僕はあなたを守ってあげたくなったんですよ」というのがキラートークである。
しかし、こういった口先だけのチャラい系というのは、嘘が上手く結局男女共に信用を失くしていき、その腹いせに悪口をいいまくる傾向がある。
「僕とあんたの共通の友人である沢木さん、僕は今、沢木さんにつきまとわれて困っている。僕は沢木さんからつきあってと言われたが、断った。
その腹いせに沢木さんは僕のあることないこと悪口を、他の人にいいふらしてるんだ」
えっ、嘘、私は沢木さんから逆に、津氏君から付き合ってと言われたが断ったという話を聞いている。
なぜなら沢木さんの同じ高校の同級生が、津氏から付き合っていたが、災難にあったというのだ。
ある日、津氏の母親から電話があり「お宅のお嬢さんのおかげで、成績が下がりました」と責められたという。
おそらく、津氏がでたらめの中傷を言いふらしてまわったのだろう。
沢木さんが津氏をつきまとっているというのも、嘘に違いない。
後日、私は沢木さんから私のことを聞くと「津氏君は(私を)好きになったとか、付き合ってとかって言った覚えはないよ。僕はあの人のこと、好きじゃないんだ」
私は軽いショックを受けた。津氏はいつもサングラスをかけていた。
なぜ外そうとはしないのと聞くと「サングラスって、自分から相手のことは見えても、相手からは自分のことは見えないだろう」という嘘つきの片鱗が伺えた。
やはりどんなに甘言で相手を騙しても、いずれは嘘はバレルときが訪れる。
相手がショックを受けた途端に、信用を失くし去っていかれる結果となる。
しかし盗み同様、一度嘘の味を覚えた人は、そこから逃れることができない。
その人の頭脳と心の中に、嘘つきという引き出しが住み着いたからであろう。
普段は眠っていても、なにかことがあると、まるで用意していたかのように、眠っていた引き出しから嘘がにじみ出てきて、気がつくと自分がその嘘に酔ってしまい、相手を納得させる嘘をつくようになる。
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