第四話 昇格の消極

 あしたは昇格式があるのできょうは睡眠を試みることにした。自室のソファのクッションをあたまの位置にずらしてふとんをそえる。ぼくは寝る事に恐怖心があった。それは八年前からの古傷とでも言うのだろうか。

 目を瞑ってみるがやはり頭がまわる感覚がする。それから暫くは蹲って次々と加えられる症状に耐え忍んだ。やはり不本意や無関心と思いつつも多くの他人に暴力を振るい死に追いやったという事実は国からの命令であれ堪える。残酷で暴虐で極悪で無常で非道で惨たらしい。人の顔から窺えたのは恐怖、嫌悪、焦燥、絶望、怒り。命の叫びを聞かない日は無かった。何時からか軍人の嘲笑以外で笑みを見る事が無くなっていた。何処からも暖かさを感じられず十七歳にして食肉を受付無くなった代わりに血液の臭いに慣れて。遂には人を想う心を目の前で死に行く赤の他人に託していた。

 体調を崩さないために朝食は肉を抜いての軽食にする。顔を洗い念入りに身だしなみを確認した。清掃もいつも以上にきれいを目指した。靴を丁寧に磨き上げる。軍旗が柱をつたい空に、はためいていて風が肌に温度という刺激をあたえた。

 シィン三等陸士さんは十七歳にして大佐に上り詰めた。昇格式で名があがった時はなぜだかこころがびくついた。きっとかのじょの努力のたまものだろう。この調子でいくとともに仕事をすることもあるかもしれない。かのじょから教わることはおおそうだ。

 赤色の国旗がほのかにゆれている。左肘のあたりの袖を小さくつままれるようなかんかくに目線を少し下げた。タオズー中佐さんは物言いたげな顔で壇上のシィン大佐さんを見ている。中佐さんは少将を目指して勉強をしていたが試験で落ちてしまったと風の便りで聞いていた。

「悔しいですね、惜しかったと聞いています。」

「そうなんです、あと一点だったんですよ。」

ほんとうに寸前で落ちてしまったとわかる。五歳年下の後輩に自分よりも高い地位に立たれる心情とはどういったものなのだろう。少将を含めても階級で最も年齢が近いのはシャディン中将で二十七歳だ。かれは見た目や言動こそおちゃらけていて女性好きではあるがやはり優秀なお方だ。己を信用させる能力を持っていると言える。

 午前の業務を終えて昼食を取っていると後ろから中佐さんがついてくる。いつもの元気さが感じとれず心做しか覇気をかんじられない。ぼくが席につくとそれにつられたように左側に座った。

「タオズーさん、お話を聞かせていだだけますか。」

「……フェイツさん……フレキシブルタイムを借りても良いですか。」

「はい、もちろんですよ。」

食べながらそれまでタオズー中佐さんはこの朧気なままで仕事を行うのだろうかと考える。今日はもう休んでいてくださいと伝えて食べ終えた自分のお盆を持ってかのじょの元を去った。

 午後の業務の際にも、ときおり中佐さんの悩んでいるような悲しげな表情が思考を占領した。ぼくの過去の友人のことをあまり宜しく思っていなかったけれど関係があるのだろうか。あれから九年もの年月が過ぎているというのに未だにかれの顔を見ると敵意を拳に込めているのを見掛ける。ぼくは気にしていないのだけれど、かのじょはずっと気にしている様に見えるのだ。

 遂にフレキシブルタイムを迎えた。何時もであれば書類仕事を延長させるのだけれど今日は約束が有る。そう言えば今頃の時間帯と教えて頂いたけれど何処で集合するのかまでは聞き忘れてしまった。休んでと言ってはみたがきちんと休んで下さっただろうか。かのじょにはよく休んでくださいと注意を受けていたけれど休まない事を当然としてしまってついつい休む事を忘れてしまっていたな。かのじょもこんな気持で居たのだろうか。

 休んでくださっていることと信じて扉を開けるとタオズー中佐さんが立っていた。危なげな脚取りで一歩踏み込んでくる。反射的に此方は一歩下がって様子を窺った。俯いていて顔色が分からないまま一歩をまた踏み込んでくる。一歩下がって声を掛けて声色を窺えないかと案じた。

「中佐さん、気分は如何ですか。」

返事は残念ながら返って来ず何一つとして窺いしれない。ただ分かるのは異常であるということだけで身体の具合が悪いのか精神の調子が悪いのか分からない。人を目の前にすれば愛嬌の有る曲線を描く唇は小さく歪んでいる。

「ぼくが言えたことでは無いのですが、休めましたか。」

ぼくの声は耳に届いていないのでは無いかとすら思えてしまう。無意識的な行動から心情が探れないかと視線を落とせば固く握られている拳。また一歩進められる足。応じる様に下がったところで左の前腕を掴まれそうになった。反射的に左手でかのじょの右手首を手に取ってしまった。するとかのじょの唇の形が怒りを示した。

「何で逃げるんですか……。何で拒むんですかぁ。わたしはあんたを自分の物にしたいのにィ。何で好きになってくれないんですかッ。わたしの気持ちに向き合ってくれないんですか、歩み寄ってくれないんですか。何なんですか!」

かのじょから逃げていたつもりも拒んでいたつもりも無い。まさか、かのじょが己の私物にしたいという欲求をぼくに持っていたとは思わなかった。確かにかのじょの子供っぽい所は過去にも沢山見た事があった。けれども自分の意見を相手に反感を持たせずに伝える能力を持っているように思う。そうであるというのにかのじょはここまで好意というものを捻じ曲げてしまったのか。ぼくはそれに全く気付いていなかったというのか。何が「どこかで支えていたい」だ。九年もの年月の間に小さくも交流をしていたというのに。明るい笑顔の裏側にこれ程濃密な独占欲が隠されていたと思うと温度差に恐怖すら抱く。人の気持ちだなんてものに真面に向き合ってしまえば生きていけなかった。きっとそんなものは言い訳にしかならないのだろう。歩み寄ってはお国の命令に背いてしまうのだ。恐らくこんなことは戯れ言にすらならないのだろう。誰もが憧れるほどに純粋であったであろう好意を身が震えるほどの怒りに変えてしまった。

「申し訳御座いません。」

「謝って欲しいんじゃないですよ……!」

「……ぼくには……それしか出来ません。」

つり上がった眉に血走った眼、歯を食いしばる口に赤く燃え盛る様に赤い全身。捕まっていた右手首を力強く振り降ろす。自然とぼくの手が空となったところで左の頬を殴られた。これ以上の言葉も行動も無意味だと理解したのか音を立てながら事務室を出ていた。叩かれるように閉められた扉を暫く見られなかった。

 薄暗く肌寒い外に何処と無く安心感を覚えて萎んだ国旗をただひたすらに見詰めている。背後から革靴から発せられる独特の足音が聞こえて振り返る。襟元の二つの星がきらりと光り鮮やかな緑色のつなぎのような服装に見覚えがあった。

「演習の際はお世話に成りました、お変わりありませんか。」

「あぁ、君の方はどうだい。」

「此方も変わりありませんよ。」

「嘘を言うんじゃないよ、顔を触っていては誰の信用も得られないよ。」

流石はベトナム軍で中将を務めるだけあって人を観察する事に長けている。あまり言いたくは無いのだけれど仕方がない。先程の出来事を話してみたら、かのじょとの出会いも話してくれと頼まれたので話し始める。

 かのじょとは十八歳の時に陸軍幼年学校で出会った。ぼくは幼年学校には通っていなかったが一年生のクラスの副担任を務めることになった。本来十八歳だなんて若さでは誰かに物事を教えるに足らないと言われる。けれどその年は過去の友人から仕事をよく任されるようになる年だった。かれは七歳の頃からの友人だった。九歳になった年にかれが村の子どもたちから陰惨な虐めをされるようになった。四年に渡り加害者達からの信用を得て新たな楽しみとして毽子を教える事に成功した。話し合いで解決したかったからだ。そうしている間も友人との交友を欠かしたことは無かった。が、やはりかれらと共に居るという光景は友人にとっては衝撃的だったのだろう。ぼくが苛めの主格か何かと疑われても仕方が無い。友人は翌年、陸軍幼年学校へ入学していた。十五歳で入軍してから更に四年後、かれなりの復讐として仕事を任されていたのでは無いかと考えている。乱暴な言葉使いも惨い暴力もされた事があったが受け入れる事にして居た。そうさせたのは間違いなくぼくなのだから受け入れて当然のこと。話は戻るがかのじょは入学式の時からぼくについて回っていたように思う。教員の誰よりも若かった事が気になっていたようだ。ホームルーム写真の撮影の際には真ん中の段の一番左側に立つように指示をされて少し拗ねていた。社員写真をくれないかと提案されたこともあった。随分破天荒な生徒が居るなと思っていた。面談では指名を受けることもあったが丁重にお断り申し上げた。ホームルーム役員に立候補して見事当選した後にかのじょはぼくに関わりが増えますねとにんまりとした笑顔を向けていた。それに対してぼくはそうですね、よろしくお願い致しますとさっぱりとした返答を返していた。検尿の日には必ず朝は学校に来るなと命令を受けた。業務だからと学校に行けば怒られた。後ろを向いておくから早く置いてきて下さいと言って対処した。生徒会の補助も行なっていたためかかのじょは生徒会選挙に立候補した。しかし一年生での当選はやはり難しく落ちてしまった。太極拳の経験者として副顧問も任されていたのでかのじょも太極拳部に入部した。内科検診の際は覗いても良いんですよという謎のお誘いをお断りした。体力テストでは沢山応援してくださいと言われた。無理をしない様に頑張って下さいねと申し上げた。遠足の際はかのじょも他の生徒達と同様にかのじょの友人とテーマパークを回っていた。しかしぼくを見掛けると必ず友人を置いて駆けてくるのだ。その度にかのじょの友人の所まで送り届けていた。校内では比較的安全に生活していたと思う。しかし学校なので休日と言うものが有る。そういった日には苛虐で酷悪で惨忍な行いをするのだ。文化大革命が終わったのはそれから三年後。ぼくが少将に成り過去の友人が一切関わりを持とうとしなくなった。同時に生徒達が学校を卒業して正式に軍人となった年だ。それを機にぼくも教員を退職した。それからかのじょとは廊下をすれ違った時に一言二言交わす程度の関係だった。時々向こうが隣に来て作業をしたり食事を取ったりするくらいだった。

 話し終えると中将は質問を幾つか投げかけて来た。一つ目は頼られた事はあるかという質問だった。放課後に勉強を教えて欲しいと言われたり手合わせして欲しいと言われたりしたことがあったと答えた。二つ目は甘えられた事は有るかと問われて上手に出来たら頭を撫でて欲しいと頼まれた事があったと伝えた。三つ目はサポートをかってでることはあったか。かのじょは卒業の日に少将になってぼくの仕事を軽くすると国旗に誓っていたと呟く。

「女は好きな人に頼って距離を縮めようとするんだよ、きっと君は仕事に熱心過ぎたんだ。」

「確かに……仕事上の付き合いだと思っていました。」

「それは彼女が気の毒だね、気は有るのかい。」

「……わかりません、明日は無いと頭を過ぎるので。」

そうかと呟いてかれは生垣から立ち上がって言った。明日は結婚式をあげるんだよ、演習の時は世話になったし書類も素晴らしかった。一目で君が仕事を一番としていることが分かったよ。だから招待状は出さなかった。けれど今は後悔しているよ、君に僕なりの幸せを一例として見せられない事が悔しい。そうかれは告げて敬礼をして軍基地を去っていった。

 夕食はサラダだけにして席に座って食べ始める。右側に誰かが座ったかと思えば見知った声がぼくの名を呼んだ。インス大将がぼくのサラダに肉を一切れ乗せた。量が少ないと仰りたいのか顔色が優れないと仰りたいのか。答えは両者であったが本題は別に有るらしい。

「何時も伝え忘れてしまうからな、今伝えておく。」

「不備でも御座いましたか。」

「否、感謝状の事だ。」

毎年欠かさずに書いてくれる人間も少しずつ減っていて悲しく思っている。けれど御前だけはわざわざ巻物に直筆で書いてくれているのだ。有難いことだ。故に自由にやりたい事をやって欲しいと考える。

「いい加減休んでも誰も文句は言いまい、御両親に会いに行け。」

「……いきていると思いますか、家族は。」

「解らぬ、だからこそ会いに行け。」

休んでも誰も文句を言わずに見逃してくれる。死を覚悟して果たされるか分からない約束だけを残して置いていった息子を許してくれるんだろうか。約束が守られなければ今すぐにでも死んでしまう自分達と自分を殺すかもしれない軍人について行った息子。親としてはどんな心境になるのだろうか。

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華国の玉 坂俣 織香 @shachi0130

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