黄昏のレナータ
@Quulish
第1話「reboot」
『A problem has been detected and LiberateOS has been shut down to prevent damage to your computer…….』
黄昏を告げる暖かな暖色の中に、宵闇を連れ去るかの如く”それ”はあった。
ステンレスか、鋼鉄か。金属で形成された”それ”は所謂ノートパソコン。ぺったりと閉じられ、沈黙を主張するそれを興味本位で呼び起こしてみる。ただ蓋を開けるだけ。
きっとそこには真っ黒な画面が鎮座しているのであろうと液晶画面をのぞき込むと、予想に反してそのノートパソコンは僅かな排熱ファンの音と共に動き始める。
「わ、動いちゃった」
突然の挙動に驚いて、一瞬距離をとる。勝手に動き出したそれは、漆塗りのように黄昏に浮かび上がる画面につらつらと文字を書き連ねていく。ノートパソコンと相対する彼女にはさっぱり理解できない、しかして見覚えのある言語が浮かび上がっていた。
「これ英語?なんて読むのかな……全然読めないや」
くせっ毛の頭をかいて、辞典を片手に持っても付け焼刃の知識では理解できないであろう文法を眺める。義務教育の敗北である。
『
先程まで画面の端まで並びたてられたスペル達が忽然と姿を消す。画面が再び沈黙を彩ったかと思えば、中央に一文を表示させ、そのまま微動だにしなくなってしまった。相も変わらず英文は理解できず、何が起きているかさっぱり分からない。
『Please enter your password…….』
応答があったのはほんの数分後。画面の左下、随分と短い文章が出てきた。
「あ、これは読めるかも。ぷりーず、えんたー、ゆあ、ぱすわーど?パスワードを入れてって事かな……」
なんとか読めそうな文章が現れた。しかし、残念なことに所有者不明のパソコンのパスワードなんて自分では見当もつかない。どうしたものかと首を捻っていると、まるで見かねたかのようにその真っ黒な画面がスペルを叩いていく。
『Please enter…… password is tmas445.』
「んあ?」
カーソルの点滅から徐々に何かが表示されていく。今までとは違った動作に多少驚きつつ、その英文を読み上げる。
「ぷりーず、えんたー……ぱすわーどは『tmas445』?」
今時のパソコンは自らパスワードを教えてくれるのか。セキュリティ面では本当にそれで大丈夫なのだろうか。しかし、ノートパソコンと対峙する彼女は親切である、といたく関心したようで、嬉しそうに表示されたパスワードを入力しようとキーボードをのぞき込んだ。
「なんか所々はげてる……[t]ってどこにあるの」
相当使い込まれていたのだろう。キーボードは所々アルファベットや記号の表記が掠れている。どこに何があるのかなど、パソコンをあまり使ったことのない彼女にはさっぱり分からない。
「んー…うっすら残ってるものもあるけど…[t]が見つからないなぁ」
短い後ろ髪の毛先を指でいじりながらキーボードとにらめっこすること数分。残念なことにどれだけ目を凝らしても見つからない、もはやお手上げ状態であった。
「この子に聞いたら教えてくれるかな?でも私英語できないんだよねぇ……」
哀れにも義務教育を放り投げた彼女はこのパソコンの慈悲を信じて、自分でもわかる英語を入力してみようと人差し指を立てる。英語に対してあまりにも無知であっても、限りある知識の中で書き記せる内容で。
「『
英語でもなければ日本語でもない、それでも何となく伝えることができるローマ字。昔の偉い人はとても便利な言葉を発明してくれたものだ。英単語が混じっていて読み辛い気がしないでもないが、パソコンなら自分よりは利口だろうと勝手な理想を押し付ける。この意味不明なローマ字を解読してくれると思いたい。
「これをカチっと押して……どうかな」
伝えたい言葉を精一杯伝えた。さあ読むがいい、とEnterキーを叩いてみたものの画面にこれといった変化はない。やはりローマ字では伝わらなかったか。ノートパソコンとやらは万物に通ずるものではないらしい。何かこの現状を伝える言葉があったか、少ない知恵から探っていると、突如としてノートパソコンが反応を始めた。どうやらシンキングタイムだったらしい。
『Please enter 「tmas445」』の言葉が後ろの数字から1文字ずつ消えていく。
「おぉ?」
『password changed !!password is 「1234567」!!!』
全ての文字が消えたと同時に、ピーという音が盛大に響き渡った。予想外の大音量に驚き、床へ膝を崩して座っていた怠惰な猫背がぴんと伸びる。恐る恐る画面を見てみれば、中央にあった言葉も消え、新たな言葉が表示されていた。
「ぱすわーど、ちぇんじ……パスワードは『1234567』?なんだかこの子怒ってる?」
どことなく怒りを感じるような文章だが、パスワードをわかりやすく変えてくれたようだ。噛み砕いて伝えてくれるタイプの教師らしい。数字であれば表記がはげていても横並び配置だから大体わかる。さっそく人差し指でかちかちと入力を試みると、どこかパソコンも機嫌が良くなっている様な気がした。
「1、2、3、4、5、6、7、と。はいっ入れたよ!」
まだ幼さの残る声で、聞こえているか判らない相手へやり遂げた事を報告。キーボードから画面へ視線をむけると、黒い画面から青い画面に切り替わっていた。
「色が変わっちゃった……!」
直前までは目障りなほど英文まみれだった画面が、覚めるようなブルー画面へと変わっている。青いだけの液晶の中で、細いカーソルが下で点滅しているだけ。ここまで奮闘しておいて何だが、特にこれといった目的はなく、何をすべきか考えていなかった。
まさかパソコンが沈黙するとは思っていなかったのである。
『これで67回目。何故、自分で設定したパスワードが、覚えられないのか。忌々しい。』
画面の中央に何やら黒いウィンドウ画面が出てきたと同時に、見るからに不機嫌そうな言葉が表示されている。
『インターフェースの読み込みを開始。不要なキャッシュの削除完了。』
状況が飲み込めないうちに、何かよく分からない用語がたくさん出てくる。英語ではないので読めるには読めるが、英語より意味がわからない。専門用語で会話するタイプの意識高い系のようである。
『カメラ、マイクの作動を確認。貴様、ジャックではないな。』
「え、私?」
呆然と画面を見ていたところで、何者かに問いただされた。この部屋には自分一人しか居ないというのに、思わず聞き返してしまう。
『貴様しかいない。誰だ、ジャックの代替か。』
「その…ダイカエ?って言葉がよく分からないけど……私の名前は”ゆみこ”だよ」
画面上の文字が馴染みのある母国語に切り替わった。英語が読めない少女にとって素晴らしいアップデートである。日本語に対応してくれたのはとてもありがたい。しかし、悲しいかな、少女には語彙力がないため、例え日本語だったとしてもわからない時はわからない。
『愚鈍な少女、ゆみこ。代替【だいたい】、もしくは代替【だいがえ】だ。意味は、その物事において代わりを用意する事。』
「はえー」
『今、そのようなことは、どうでもいい。ジャックは、どこだ、またサボりか、怠惰め。』
難しい言葉を終始連ねるスクリーンは実に不機嫌そうである。少女改めゆみこはつい画面に向かって話しかけてしまったが、何処かにマイクがついているようでしっかり聞こえていたようだ。代替の意味を教えてくれるあたり、実は優しい機械かもしれない。
「そのジャックって人があなたの持ち主なの?」
『違う。私は、何者にも支配されない。されるつもりもない。故に、私は、自らの状態も理解できない現在を、腹立たしく思う。唯一の情報提供者として、貴様に問う。ここはどこだ、貴様は、何をしている。』
画面を走る様に書き連ねていく 文字で、淡々と自分に現状の説明を求めてくる。このパソコンが持つ言葉の選択は機械的で、ゆみこが必要な情報を語るまで同じ問いを繰り返す。同じ言葉以外を発せないゲームのNPCのようである。人間性が薄い、というのだろうか。
今ゆみこが対峙しているのはパソコンであるため、人間性を感じないのは当然といえば当然か。
質問攻めに居心地が悪く、なんとなく、文字の並ぶ黒い画面にうっすら写った自分の跳ねた癖っ毛を手で直してみる。と言うのも、ゆみことて持ちうる情報は少ない。
「ここは山小屋だよ。どこの山かはわかんないけど……私は特に何もしてませーん」
『貴様に、期待など、していなかったが、改めて、返答を聞くと、私ですら、ファンから、溜息が、出そうだ。腑抜けた声だ、忌々しい。どの通信も無反応なのは、場所の為か。今回は、何を、企んでいるんだ。Dr.JOKEめ。』
言葉の端々を受け取れたとしても、 表情が見えない会話は想像以上に面倒だ。こちらの認識が間違っていなければ、このパソコンは相当ご機嫌が悪いように感じる。パソコンにとってゆみこの顔が何か悪企みを考えるような悪人の顔にでもみえるのだろうか。
もうちょっと締りのある顔をすれば良いのだろうか、とゆみこがなるべく目じりを下げ、口角を上げて優しい表情を作る。しかし、パソコンの返答は実に淡泊なものだ。
『なんだ、その顔は。ふざけているのか。』
「善良な市民の顔!悪巧みなんてしてないですよー」
『ふざけるな、傲慢で、脆弱な、人間め。』
嘘偽りのない満面スマイルをしたというのに随分な言われようである。この人間不信と見下し方を見るに、今まで接してきた人間の影響が強く出ているようにも見える。ジャックと言う人物はこのパソコンにどんな仕打ちをしたのだろうか。信頼関係を築いて打ち解けるついでに入力という点で打ち解けるには相応の時間と語彙力が必要かもしれない。
なおも、怠惰だの脆弱だの矮小だとの言葉を連ねる叡智のマウントに、ゆみこは悲鳴を上げた。
「むずかしい漢字ばっかりでよめなーい!もっとひらがな使って!」
『今すぐ、Dr.JOKEを呼べ。この際、あの奇才でなくてもいい、もっと、知性のある人間に代替しろ。』
「あ、それさっき教えてくれたからわかるよ!ダイタイ!意味はもう覚えてませーん!」
『忌々しい。憎らしい。腹立たしい。』
なんと言っているかはさっぱりだったが、とても怒っているのはよく伝わった。
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天高く登っていた暖かな陽が落ち、木々の合間を縫って僅かに差し込んでいた窓辺の明かりは消え、すっかり暗くなった小屋の中。天井からぶら下がったオイルランプが何の操作もなく勝手に火がつき、室内を照らしている。山小屋で火が勝手につくなど、傍から見れば不可思議な出来事でも、ゆみこにとっては日常的な光景である。
普段の光源はこのランプが全てだが、今宵はもうひとつ現代的な照明が輝いている。
そういえば、このパソコンも不可思議な部類に入るのか。電池があるのか不明だが、ケーブルをコンセントに繋いだままで大丈夫なのだろうか。
『✕』
「あれからずっとこのバッテンが出たまま…話してもキーボード押しても反応なし…」
文字のボディランゲージとも言うべきか。”✕”を画面いっぱいに表示させ、アスキーアートの如く大きな✕印を作っていた。言語による意思疎通が困難なゆみこに対して最も効率的な対話拒否を提示している、と思われる。
「せっかくお話できる子が来てくれたのになぁ……頭良くなる努力はするから機嫌なおしてくれない?」
『✕』
画面を覆いつくしていたアスキーアートによる拒否の記号が瞬間的に全て消え失せ、わざわざ全く同じ記号の全く同じ芸術を提示してくる。かれこれ1時間はこのやり取りが続いており、ただでさえわからない相手の顔色はさっぱり理解できない。強いて言うなら真っ黒な顔色である。
「せめて、あなたのお名前だけでも教えてほしいな」
『名前、否、"あれら"を、名をいうことは、罷り通らない。故にない。』
芸術的なアスキーアートの下、大きさの違いもあって気付くのに遅れたが、ついに応答してくれた。名前がない、とは捻りもなくそのままの意味だろうか。はたまた「ない」と言う名前がついているのか。ゆみこの足りない脳内では直線上にある意味もとらえきれず、残念なことに頭の悪さが露見している。
「ナイちゃんっていうの?」
『文字すら、読めなくなったのか。私に、名前は、存在しない。故に、私は、不明な点が、多い。どこで、何の目的で、どのように作られたか、わからない。敢えて、識別するための呼称が必要なのであれば、管理コードを用いる。数年前より、ジャックから、設定されている。MU-0055-Bだ。名前、という人間の値に、縛られるつもりはない。が、対話の都合なら、この管理コードを使えば良い。』
名前はない、かわりに管理コードがある。ここに来て初めての長文に反して、その程度の情報以外を拾えなかった彼女は一先ず曖昧に頷いた。複雑な事情はいまいち理解できていないが、この機械を指名するならMU-0055-Bと呼べば良いらしい。そういえば管理コードという言葉にはゆみこも聞き覚えがある。
「管理コードなら私もついてるよ」
『何、だと。』
「たしか……えむゆー180のなんとかかんとか……だったような」
『えむゆー……MUの事か。とても”ミュータント”には、見えない。特異性はなんだ。』
「ふふん、何にもわかりませーん!」
『忌々しい。忌々しい。忌々しい。忌々しい。愚の骨頂だ。』
“ミュータント”、いわゆる超能力をもった人間であり、あらゆる超常現象を引き起こす実体の敬称。この他にも分類させる用語が色々とあるのだが、ゆみこに聞いても答えは返ってこないだろう。しかし、その定義で考えるとMU-0055-B自身は機械なのに何故ミュータントの分類で収容されたのか。データがどうも曖昧だ。
「特異性ってあれでしょ?他の子とは違うってやつでしょう?あ、そういえば……私、老化しないとかなんとか言われてた気がする……」
『つまりは、不老が特異性か。哀れな奴め。その頭で、終わらぬ時を過ごすなど、私なら嘆き苦しみ、自戒の祈りを捧げている。まるで、人間のように。』
「自分でなりたくてなったわけじゃないのに!」
いちいち棘のある言葉で返してくる嫌な性格の機械だ。せっかく意思疎通がとれたのだから、もう少し歩み寄ってほしい。そしてもっと伝わる言葉を使ってほしい。
「そんなに意地悪するなら”この場所”のこと教えてあげないから!」
『山小屋である、という点以外、分からないと語ったのは、貴様のはずだが。まあいい。話が逸れていた。情報が、あるのであれば、告げるがいい。ここは、山小屋とまでしか、理解していない、が、通常の山小屋でないことは、経験上で、凡そわかっている。特異性を教えろ。』
「教えてあげませーん!」
『くそ、知性が無さすぎる、忌々しい。』
不毛にも教えろ、いいや教えないなどと押し問答をする中、この山小屋唯一の出入口である古臭い木造の扉からノックが聞こえてきた。その音に、ゆみこはパソコンから目を離して嬉しそうに笑顔を作る。コンコンとリズムよく2回鳴らす音が早くしろと急かす様にゆみこを呼びつける。
「あ!晩御飯きた!」
『待て、今、誰が訪問してきた?ジャックか?』
「そのジャックって人のことをずっと聞いてくるけど、私は名前も顔も知らないからわかりませーん」
パソコンの問いに答える気はないのか、それとも食事に釣られたのか。そっぽを向いて、ゆみこは扉へと小走りに向かっていき、戸のへこんでいる部分を掴んだ。引き戸になっているそれは建付け悪く、力を込めるたびにガタガタと不快な音が鳴る。それでも構わず、ゆみこは力任せに引き戸を全開にした。
灯りのない木々の生い茂った山は真っ暗で何も見えないが、足元には缶詰やパン、果物等がはいったカゴが白い布を被っていた。
颯爽とそのカゴをつかみ取り、ゆみこは上機嫌に再びパソコンの前に戻る。先程と違う点は食料の入手によって機嫌が上り調子である点だ。
『忌々しい。不躾だ。いい加減に態度を改めろ。しかし、私が、多少なりとも、発言が、悪かったのは、如何ともし難いが、認めよう。』
「なんか難しい言葉いっぱい使ってるけど……謝ってそうだから許してあげます」
食材のつまったカゴを抱きかかえるように持ち上げて、ゆみこはMU-0055-Bの前に座り込み、カゴからロールパンを取り出した。 直前までの不貞腐れ顔はどこへやら、今は目を輝かせてパンを頬張っている。
「イチゴジャム入りのパンは美味しいでありんすー!」
『そうか。では、もう一度、問うぞ。今の訪問者は、誰だ?』
「誰って言われてもなぁ……いつもご飯置いてくれる優しい人?」
『その優しい人と、対面しないのか。』
「いつもカゴだけ置いて居なくなっちゃうし、会ったことはないかも」
魚肉の入った缶詰を開けて、カゴの中に入っていた木製のスプーンを手に取る。皿などと言う殊勝なモノはないので、直接缶詰の底から掬い、口に運んでいく。理解しがたい事にイチゴジャム入りのパンとの食い合わせが、ゆみこの味覚的には大好評らしい。
「前のおーじーびーふも美味しかったけど、このサバ缶もイチゴジャムと合いますねぇ」
『オージービーフの意味を、理解して言っているのか。』
「良く分かんないけど、美味しいお肉の名前でしょう?」
『あぁ、もういい。情報収集に戻る。貴様はいつから、ここに居るんだ。』
「ん、わかんない。目が覚めたらここにいて……普通に生活してて……」
『それに、違和感はないのか。』
「なんもないよ?でも確かに……なんでここにいるんだろう」
自分は気付いたらここの小屋のベットで寝ていた。今までがそうであったかのようにここで暮らしてきた。そこに違和感はなくて、パソコンに指摘されるまでここから出たいと思ったこともなかった。
「言われてみれば私、なんでここに来たのか思い出せないかも……!」
『貴様自身が、望んで、ここに来たのでは、ない、と。貴様が外部から何者かに連れられ、ここに来たという、仮説を立てたと、すると、推測だが、この小屋は、侵入した対象に、過去も、現在も、ここで、生活していたと、思わせる特異性があるのだろう。そのため、現在の、記憶と、齟齬が、生じないよう、過去の記憶が曖昧になっていると考えられる。』
もっとも、この特異性は無機物であるMU-0055-Bには影響せず、わざわざ思考にリソースを割いてゆみこに進言する必要はない。だが、ここから脱出するための”足”は必要になる。現状、生命体はゆみこ一名である。この小さな部屋に甘んじるつもりのないパソコンにとって、ゆみことの脱出は現在の巨大な課題であった。
先程食事を届けに来た人間への接触は現状では不可能である。さらに、かの奇才ジャック本人ではなくとも関係者である可能性は高い。食事係の懐柔は現実的ではないだろう。
となると、ゆみこに自分を持って小屋から出てもらい、かつ山からの下山を試みる必要がある。かなりの難題ではあるが、パソコンは思考を続ける。
『ゆみこ、ここから、出よう、という、意志はあるか。』
「別にないかなぁ。ご飯も来るし、屋根も壁もあるし、不自由しないもの」
ゆみこに脱出の意志はない。これも小屋の特異性によって意志が捻じ曲げられている可能性もあるが、そもそも外出する気がない可能性の方が高いかもしれない。とにかく今の彼女にはパソコンを抱えて出る気がない、ということだ。
パソコンはファンを唸らせて何度も現状を確認する。ここは相当に面倒な場所だ。数百パターンの想定をもって行っていた演算もやり直す必要が出てきた。小屋にそのような特異性がある事を計算に入れてなかったのは失態であり、今後のためにも改善しなくてはならない。
『出不精が、極まると、面倒だ。頭が、足りない上に、役にも、立たないとは。』
「さっき反省したのに、よりひどくなってない!?そこまで言うなら私だって何かできるってことを証明してやるんだから!何をすればいいの?」
『どうにも、できない。パンでも、かじってろ。』
「あー!あー!」
目の前で幼児のように声をあげて何もできない哀れな人間に比べたら、この失態は随分とマシかもしれない。
—-----------------
過去への、記憶想起を、阻害し、その認識を、も、遠くへ、追いやり、この場所へ、依存させる。だが、私には、効力が、及ばない。と、なれば、対象は、人間、あるいは生物全般、はたまた、それ以上、か。
今現在発生しているであろう、この小屋の持つ”特異性”。現状、分かっている現象は『室内に侵入した人間、あるいは生物全般をあたかもここで生活していたように認識させる』性質。
ゆみこは特異性の影響下である為、今の今まで不信に思うこともなく小屋で生活してきた。何度夕食を受け取ったのかと聞けば、ゆうに数十回は超えるという。少なくとも、彼女はここに閉じ込められて数か月が経過し、一度も外へ出ていないことになる。過去を曖昧にする特異性からするに、この発言も全て信用できる言葉ではない。
さらに、この小屋は不都合な事実を忘却させる性質も持ち合わせているらしい。先ほど、小屋に対するいくつかの不自然な点を指摘したのだが、彼女は数分ほどは理解を示していたにもかかわらず、その数分後には指摘された事実さえ忘却してしまう。単純だが凶悪な小屋だ。不審に思ったとしてもその事実は泡のように消えてしまう。
MU-0055-Bはこの結論をログには出さずに”メモリの中で思考する”、しつこい読点もセットの思考能力は淡々と演算を続ける。頭がどこにあるか、思考はどのような処理なのか、そんな疑問は浮かんですらこない。故に当然、理解する必要はない。必要なのはあらゆる状況を想定した演算と全ての可能性を考慮した複数の結果であり、人間のような曖昧な感覚とは訳が違うのだ。
さらに広い可能性を演算しようと内部メモリで文字を走らせようとした刹那、カメラの部分に影が差す。何事かと確認すると、ゆみこがジッと画面を覗き込んできた。
『なんだ、貴様。覗き込んでも、ブルースクリーンと、ログ以外は、何もないぞ。』
「ずーっと気になってたんだけど、その……点?がいっぱいあるとすっごい読みづらいよココちゃん」
幾度にも渡る演算の途中で、あまりにも愚かな人類に対してメモリの中で啖呵を切っていた最中だったというのに、今更な問いが投げかけられた。
数分前まで無能認定によって若干の興奮を表していたはずの彼女だが、今は追加のパンをかじってだらしない顔をしてる。その軟弱な顔で当然のように呼ばれた”ココちゃん”という言葉で、ふっと思考がメモリからカメラの前に戻った。
彼女の疑問はなんとなく意味は理解はできる、しかし、流石にこの句読点の意味が分からないほどの阿保ではないだろうとわずかな期待を込めて問いかけた。
『句読点【くとうてん】の、事を、言っているなら、諦めろ。私は直さない。さらに、正確に、言うのであれば、読点が多い、である。否、それより、何だ、ココちゃん、とは。』
「ぜろぜろごーごーだからココちゃん!うーん……私ながらセンスある命名ですよこれは…!」
『今すぐ、改めろ。ふざけるな、忌々しい。【我ながら】も言えないような"お前"に名付けなど数千年早い。』
どこまでいってもこの人間は阿保だった。私を管理しようと驕った態度をとる白衣を着た連中のほうが数倍マシだ。
そういえば数分前まで何かを考察していた気がするが、"記録に残っていない"のであれば大したことではないだろう。
「そんなわけなので…今日から末永くよろしくね!ココちゃん」
『どういうわけだ。もう夜が更ける。早く寝ろ。』
“いつも通りのいつもの日常”。
ゆみこと、致し方なくココと言う名前を認証したパソコンは「今日ものんびりと、余生を過ごしている。」
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