一
よくある田舎の光景だった。
都会では考えられない広い庭だ。家を取り囲む青々とした生垣には冬になれば椿が咲くのだろう。木の枝が少し道路に突き出していても近所の住人は気にしないらしい。庭の隅には真新しい納屋が空色の塗装を陽光に照らされて輝いていた。
「孫が帰ってきて塗ってくれたんですよ。この家にはちょっと派手なんじゃないかって言ったんですけどねえ」
家主の老婆がシミが散った手を
「この納屋が例の、ですか」
老婆が
よくある田舎の光景では全くなかった。
写真の中には無惨に押し
問題なのが廃材と化した小屋を敷物がわりに鎮座している巨大な球体だ。おそらく直径は一・五メートルほどある。牛乳寒天のような質感の白い円が撮影当時の朝日を反射して
「目、ですか」
「みたいですねえ」
俺の漠然とした問いに老婆が苦笑を浮かべる。
「去年、おたくの納屋にこれが降ってきたと」
「ええ……」
俺が写真を下ろすと、新調された空色の納屋がスライドするように視界に映った。
「右目か左目かはわからないんですけどねえ……」
「まあ、そこは問題じゃないですから」
俺の言い方が不機嫌に聞こえたのか、老婆は身を縮こめて会釈した。こういう聞き込みに俺は向いていない。
「
老婆の家の敷地から出て、舗装されていない道の脇に残るガードレールにもたれかかりながら、俺は煙草に火をつける。
「その調子だと、また村の方に怖がられたんですね。私は役所で調査でしたし、
「どっちが先輩かわかんねえな」
最近異動してきたばかりなのに大したものだ。真ん丸の目と切りそろえた前髪はいかにも若造だが、前はそれなりの部署にいたらしい。何故こんな
「それで、先輩を置き去りにして行った調査の結果はどうだった?」
宮木は「はいはい」と苦笑しながら
「始まったのは九七年ですね。最初はここから坂を降りたところにある第三小学校のプール。今は廃校です」
「どこもかしこも少子化だな」
それも仕方ない。人口四千人にも満たず、その過半数が老人という典型的な過疎地だ。米作りが主な産業らしく、土地の
俺は宮木が差し出した資料を受け取った。A4用紙にコピーされた新聞記事は画質がひどく粗い。目を凝らすと、白黒写真に写っているのが二十五メートルプールの縁だとわかった。画像の中央に巨大なパイプのようなものが端から端まで渡されている。プールの途中でわずかにくの字に湾曲していた。
「
「税金の無駄遣いはできませんから。ああ、資料に灰を落とさないでくださいよ」
「これがさっきの婆さんが言ってた腕か」
「みたいですね」
宮木はファイルの中の資料を
「九七年から毎年一度、必ずこの村に巨大な人体の一部が落下してくるようになったそうです。現在確認されているのは鼻、腕二本、犬歯と見られる歯、
「両方揃ったってわけだ」
「ビンゴじゃないんですから」
そのとき、軽快なクラクションが二度鳴って、俺と宮木は顔を上げる。木材を積んだトラックの運転席から日焼けした老人が笑みを浮かべて片手を上げた。俺は口角を上げて笑みを返そうと努める。
「都会のひと?」
「はい、自治体の調査で東京から参りました」
俺が口を開く前に宮木が明朗な声で答える。
「そう、もっと若いひとが観光に来てくれるようにさ、上に言っといてくれよ」
人懐こい笑顔とエンジン音を残して、老人を乗せたトラックが去っていった。宮木の言を疑う素振りもなかった。
「よくすらすら噓が言えるな」
俺が半分
俺たちが東京から来ているのだけは本当だ。それでいい。各地で起こる放置できない怪奇現象の調査のために派遣されているなどと言えるはずがない。はなから人間が太刀打ちできる領域じゃない。だから、俺たちの仕事は解決ではなく、調査だ。落としどころを探すため、とにかく調査する。地味で見返りが少ないが仕方ない。民間がやらない仕事をやるのが公務員だ。
それから俺は携帯灰皿に吸殻をねじ込み、ひとまず聞き込みができる住民がいそうな場所へ向かおうと坂道を下り出した。
冬が近づき、葉を落として乾ききった木々の隙間にどこも似たような生垣に囲まれた家々が見える。その先にはひび割れたアスファルトの車道が田畑を焼き払った跡のように広がっているのが見えた。
「この先どうしましょう。資料館や神社を当たりますか。ここの土地神についての調査はまだ始めたばかりなので」
宮木はパンプスに染みる泥を注視しながら歩いている。
「それは俺が調べた」
「先に言ってくださいよ」
宮木は非難がましく俺を見上げる。元々童顔だが、こういうときは本当にまだ女子大生のようだ。
「お互い私用の連絡先知らねえだろ」
「職務に関する内容じゃないですか」
「最近別の案件で飛び回ってて言う暇もなかったんだよ」
俺はまた何か言われる前に、スーツのポケットから折りたたんだコピー用紙を出して広げた。地域の郷土資料館の片隅にあった、土地の民間伝承の本に載っていた筆書きの挿絵だ。奇特な学生しか手に取らないようなマニアックな本だった。
「
宮木が俺の手元を
「味のある絵ですね」
ほとんど空洞のような巨人の目は感情を読み取らせない。筆を寝かせて走らせた線は巨人を見上げる村人たちを表しているようだ。
「詳しい伝承はほとんどない。この神の名前もなかった。山と村の土地全体が御神体で、常に村人を見守っている、とかその程度だったな」
「それだけですか?」
「あとは明治初期に詠まれた短歌みたいなもんが載ってた。よくわからないが、ある年の祭りでもう充分この村が豊かになったから神様は
「あ、それは私も聞きました。その歌に合わせて村のお祭りで踊っていたらしいですね」
足元を見ると、融解しかけた氷のような形の石が半分埋まって土から突き出ていた。
「危ねえな、何だこれ」
「どうかしましたか」
宮木の問いに俺は「何でもない」と首を振る。
気づけば坂道は終わり、周囲に白銀のススキの穂が広がっていた。視界の隅に、木陰に埋もれるようにひっそりと建つガソリンスタンドがある。赤と
「本当に田舎だな」
「これでも少し前に開発が進んで道路をたくさん通したらしいですよ。山も開拓してトンネルが開通したとか」
「それ、いつ頃の話だ」
「九七年頃……ですね」
俺と宮木は顔を見合わせた。
「最初に腕だか何だかが降ってきたのと同時期だな」
「重点的に情報を洗い出す必要がありそうですね」
宮木は深刻な顔で
視線を上げると、密集した枯れ木で墨を塗ったように黒く見える山がある。山肌を凝視すると、細く引っ
「宮木、そういえば、村の祭りの日っていつだ」
俺の声がわずかに上ずったことに宮木は気づかずメモ帳を捲った。
「最近はもうやっていないらしいですけれど……ちょうど今日に当たる日ですね」
そのとき、宮木の声を搔き消すほどの、雷鳴のような音が
赤と橙のガソリンスタンドの屋根が折り紙のようにV字に折れ、中央を穴が貫通していた。真下のガソリンポンプが傾き、今にも折れそうだ。中のガソリンに引火して爆発したらまずいと思ったが、それどころじゃない。屋根を突き破って落下した奇妙な物が
「何だよ、あれは……」
厚みのある半楕円の薄橙色のシートのような柔らかい物体が、もうひとつのガソリンポンプにかぶさっていた。複雑なしわを描いた
それは巨大な耳だった。
善とも悪とも言いようがない、人智を超えた人間の手には負えない超常現象又はそれを引き起こすものを、俺たちは〝領怪神犯〟と呼んでいる。
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