アトリエもえ

ロッドユール

アトリエもえ

「こんにちは、みなさん」

「私の名前は木崎さなえ。濁らないで、きさきさなえ。小さなアトリエをやっている。自分で描いた小さな絵や彫刻を飾っているだけの小さなアトリエ。正確にはアトリエ兼画廊なのだが、めんどくさいのでアトリエで通している。名前はアトリエもえ。そのまんまだ。ちなみに絵や彫刻が売れたことは今まで一度もない」

「生活はどうしているかって。それが自分でもよく分らないのだが、不思議とこれまでなんとか生きている」

「もちろん、私の名前はもえではない。よく間違えられるのだが、もえではない。もう一度言うが、濁らず、きさきさなえだ」

「じゃあ、なぜアトリエもえなのか。それは、これからおいおいお話ししよう。時間だけはたっぷりあるからね」

「まずは、このアトリエのもう一人(一匹)の住人、猫のワトソンくんを紹介しよう。こいつはなかなかいい奴で、猫の癖に妙に義理堅い。この間など、ちょっと、お気に入りの座布団を洗ってやったら、ネズミをくわえて、私の前でポトリ。私は飛び上がって、タンスの上に乗っかった。(人間極限状態になると思わぬジャンプ力が出るらしい)」

「さらにこいつは私が何か困っていたり落ち込んでいると、いつもどこからともなくやってきて、いつも私の膝の上にやさしく鎮座する。だからといって、何も問題は解決はしないのだが、彼なりの気遣いは嬉しいものだ」

「そしてもう一人(一匹)。柴犬系の雑種、小太郎さん。彼は犬の癖にいやに落ち着いていて、いつもその穏やかさで、私をバカにする。私の方が圧倒的に年上のはずなのだが、その落ち着きは、私の何十年も先輩みたいな貫録でいつも私は混乱する。それはもう悟りの境地だ。だから、小太郎さんを見ると自分の落ち着きのなさが際立ち、なんか惨めになる。完全な自爆なのだが、やっぱり悔しい。こう言っているその隣りで、もうすでにその落ち着きはらった眼差しで、私を小ばかにしている」

「そして、わが家族の中でエースの最重要な存在が、カーとコー。めんどりの姉妹だ。何が重要かは多分薄々分かってくれていると思うが、我が家の貴重なたんぱく源。卵を毎日欠かさず生んでくれるすごい奴らなのだ」

「今日もしっかり二個産んでくれていた。ありがたやありがたや。朝から鶏二羽を拝む、二十代女子なのでありました(合唱)」

「これで、今日も目玉焼きと卵ご飯が食べられる。へっへっへっ。生みたての卵かけごはんが食べられる人生なんて、なんて幸せなのでしょう。今日も日本人に生まれて心の底からよかったと思う私でありました(うふふふ)」

「さて、多分誰もが気になっていると思いますが、(気にしていないか)彼氏はいない。只今絶賛募集中だ。(ぐすん)」

「自分で言うのもなんだが、顔はそんなに悪くないと思う。かわいい丸顔、ふっくら白いもち肌、ちょっとたれ目の二重瞼、まん丸な顔の真ん中にちょこんと乗っかっている高くはないがかわいいお鼻。ふっくらとした私お気に入りの形の良い唇。だけれど、なぜか男の人は誰も寄って来ない(ぐすん)なぜだぁ~(心の叫び)」

「私の友人曰く。お前はおじん臭いのだという。おばん臭いのではない。おじん臭いと言う。なんて失礼なもの言いだろう。だが、当たらずも遠からずで、自分でも薄々気づいていたりもする。まず、このダサい、ふちの厚い黒ぶち眼鏡。これは、私のおじん臭さの象徴である。それ以外にも様々あるのだが、動きの鈍さ、かわいいよりも渋さを好むなど、でも、この眼鏡は、そんな私のおじん臭さをさらに煽り立てる。じゃあ、眼鏡を変えればいいじゃないかというかもしれない。しかし、これがなぜかできないのである。なんかそんな性分なのである。だからおじん臭いは、相当根深い私の問題なのである」

「まあ、そんな話はさておき、私の一日はこうだ。まず爽やかな朝日と共に起きて、顔を洗い、自慢の長い髪をゆっくりと時間をかけてくしけずり・・、と言いたいところだが、お日様が昇って、そしてそれから大分時間が過ぎてから、ぼさぼさ頭に寝ぼけ眼で、まず古い建付けの悪い木製の雨戸を渾身の力で開け放ち、まず最初になぜか私は食パンを焼く。それも最早今の時代誰も使っていないであろう旧型のパン焼き機。昔ながらのあの縦に入れ、焼き上がるとバンッとすごい音で上に飛び出してくるあれだ。最近では、あまりに勢いがあり過ぎて、そのままパンが中空に飛んでいくようになった。私はそれを鋭い反射神経で見事にキャッチする。(時々取り落とすが・・)そして、私は窓辺の椅子に腰かけ、まだ目覚めぬ頭でボケーっとコーヒー片手に外の通りを眺める。いつまでも・・」

「十時開店。だが、今まで十時に回転したためしがない。開店日、初日にすらも遅れたほどだ。(なんてダメなんだ私・・、ぐすん)いくら客なんて来ないとと分かっていても酷過ぎる(反省)」

「店が始まるっていう時間寸前になって、やっと自分のぼさぼさ頭を大きな三つ編みに束ねて、なんとか格好をつけ、(これもあちこち髪の毛が飛び出ていて、決してきれいなしろものではない)まだまだ寝足りないのっぺり顔に慌てて薄い化粧を施し、なんとか見れる顔に変身すると、やっと時間より少し遅れて店を開ける。(起きてから開店までたっぷり時間はあるのだが、なぜかいつも、開店は遅れる)ぼーっとし過ぎか(自分にがっかり。ガクッ)

「そして、この時、パンを焼いたことを思い出し、慌てて食べ出したりもする。だったらなぜいつも最初にパンを焼くんだ。(自分でツッコミ)」

「さらにこんな時に限って間が悪く、お客さんがやって来たりする。お客と言っても、近所の畑仕事を終えた気心の知れたお春ばあさんなのだが、お春さんは、パンをかじる私を見て、まず笑い、これ食べなんせと、いつも野菜をくれる。今は夏だから、キュウリとトマトが多い。私は遠慮なくそれをもらい。それを洗い、さっそくパンと一緒にいただく。トマトは丸かじり。キュウリは味噌をつけていただく。これがまたうまいのだ。この何とも言えない自然のうまさを、ここにきて初めて私は知った」

「そしていらんと言うのが分かっていながらいつも、パン食べますか?とおばあさんに聞く。答えはもちろん「いらん」だ。おばあさんはとっくの昔に朝ごはんなど食べ終わっているのだ。薄暗いうちから起きて、畑に出ているのだから(偉いっ)私がダメなだけか。(てへっ)当たり前だ」

「実はこのパンももらい物だ。近所のベーカリー小山の女主人が、売れ残りをいつも私にくれるのだ。女主人といってもまだ二十代前半で私よりも年下だ。あっ、私の年がばれちゃうわ。いけないいけない」

「じゃあ、ということで、私はそこでコーヒーが苦手なお春さんのために緑茶を淹れてあげる。そして、ついでに朝ごはんにパンと生野菜だけではさみしいので、遅れてではあるが、庭に行ってカーとコーの鳥小屋をゴソゴソ。そこから生みたての卵を二つ失敬して、さっそくその生みたてほやほやの鶏の卵を、二つとも割り、熱したフライパンに落とす。ジュッと、卵の焼ける、なんか私の好きな音と共に、卵が崩れていないことを確かめると、そこに蓋を落とす。でも、不器用な私は三回に一回は黄身が崩れる。なんて不器用なの私。(ぐすん、涙)」

「う~ん、でも最近、卵ばかりだわ。あっ、そうそう、昨日、近所のおばさんにハムをもらったんだったわ。やったぁ。思い出した私えらい(このおばあさんに関しては後述するわね)でも、もし、しなかったらごめんなさい。私は全てがいい加減でズボラなのです。(ぺこり)」

「そして、私とお春さんは、コーヒーと緑茶を飲みながら、私は一人遅い朝食を食べながら、窓辺の日の当たるテーブルでほっこりと向き合うのである」

「あんたが来てからどのくらいになるんかのぉ。お春さんはいつもゆっくりとのんびり話す」

「う~ん、もう六年かな」

「ほうかぁ、もう、そないなるかいのぉ」

「うん、そんなになっちゃったね。年月が経つのは早いものだ。新参者の私も今では、町の一員になっている(町のみなさんのやさしさのおかげです。ぐすん)」

「もともとこの店は大正時代から続くという老舗の和菓子屋で、店主のおじいさんが年を取ったということで店じまいというタイミングで、たまたまふらっと私がそこにやって来た。そして、そのまま奥の住居ごと貸してもらうことになった。保証人も契約書も何もいらなかった。ハンコさえも一度もつくことはなかった。「ほんとにいいですか」「どうぞ」それだけだった」

「家賃はタダ」

「最初、三千五百円だったのだが、なぜか、店主のおじいさんは最初の三か月だけ受け取って、後はもういらんと言って、受け取らなくなった。しかも、それはあまりに申し訳ないので、大家さんの家まで私は毎月家賃を払いに行くのだが、その度に逆にごはんまでごちそうになって、帰りにはお土産までもらって・・。もちろん、家賃は受け取ってもらえない。私はもうもらってばかりだ。だけど、おじいさん夫婦はそれでもなぜかうれしいのだと言う(ほんと良い人たちだ。感動)」

「せっかくお店なのだから、ただ住むなんてもったいない。ということで、私は画廊謙アトリエを作った。その時、私は絵にはまっていたのだ。毎日毎日朝から晩まで絵を描いていた」

「内装は自分で全部やった。どうせ、取り壊す気でいたから何をしてもいいと大家さんが言うので、豪快に壊させてもらった」

「しかし、壊したのはよいが、また一から内装を施すのは、富士山に登るよりも大変だと壊してから気づいた。しかし、時すでに遅し・・。壊れ果てた店の中を見回して、私は途方に暮れた」

「しかし、持つべきものは友である。おじん臭いと言った無礼を許すこととして、なっち、のん、さちべぇに来てもらった。彼女たちにはほんと感謝。壁の漆喰塗りから、床張りまで内装全般を手伝ってもらった」

「しかも、電気のソケット穴まで漆喰で塗りつぶす私を最後まで見捨てず、

助けてけてくれた。ほんと、感謝(ぺこぺこ)」

「まあ、素人でも、やってみればなんとかなるものである。床は無垢の板材。壁は漆喰。だから今では、どこかの白亜のお城?のような内装に私は大変満足しているのである。(えっへん)」

「この家に全く不満はないのだが、ただ、お風呂のボイラーが壊れているのがたまに傷。私はお風呂命の女子なのだ。(エッヘン)自慢にならないか・・。いつもお菓子をくれる近所のおばあさんに紹介してもらった町の修理屋さん、徳谷電気(なぜか電気屋さん)に修理を頼んだら、「買った方が安いよ」とあっさりと言われてしまった。お値段十万円。そんな金あるかぁと、何とか自分で直そうと素人根性で無謀な試みをしたのだが、よけいに壊れただけだった。だから私は創業180年を誇る、この町の世界遺産、浜の湯に通うのである」

「浜の湯は嘉永二年創業とかいう、江戸時代から続く信じられないくらい長い歴史を誇る銭湯だ。(すごいっ)しかし、このひなびた港町でどうやって採算が合っているのか不思議なくらい客が少ない。お客はほぼ地元の人だけ。しかも値段が昭和初期で止まっている。大人百九十円。客の私としては最高にうれしいのだが、少々心配になる。潰れないで浜の湯さん(力を込めて祈る)」

「うあああ~、気持ち良い~。あまりの気持ちよさについ、おっさんのような声が出てしまう。(この辺がおじん臭いと言われるゆえんなのだろうか・・)こんな幸せでいいのかと思ってしまうほど、広い湯船に浸かっていると、本当に溶けてしまいそうに幸せだ。他のお客さんはみんな顔見知りか、仲のいい人ばかり。そんな極楽浄土の中で井戸端会議に花が咲く。ほんと幸せ(ほっこり)」

「ごほっ、ごほっ」

「浜ノ湯で心の芯まであったまったら、今日も晩御飯は漁師の源さんが持ってきてくれた、今朝獲れたばかりのあまりものの魚を庭で七輪で焼く。これがまたうまいんだ。今日はかなり大ぶりのイワシ。脂がのって、見るからにおいしそうだ」

「さっそくワトソン君が私の隣りに座り込んで、じっと、イワシくんが七輪の上でおいしそうな焼き魚に変わっていく姿を眺め始める。そして、遅れて小太郎もやってくる。普段落ち着いている小太郎だが、さすがにこのおいしそうな匂いには、興奮しているようだ」

「いつも何かしら、野菜やら魚やらお菓子やら、誰彼となくくれるので、この町に来て食べ物に困ったことはない。逆に食べきれなくて困るくらいだ。捨てないように捨てないようにがんばっていたらだいぶ太ったぜ(えっへん)」

「この町に来たばかりの時、この町で、私は仕事を探そうと思っていた。でも、結局、仕事を探す前に、何とかなってしまって、そのまま五年が経ってしまった。なんだか、不思議な感じがする。以前は働かなきゃ、働かなきゃと強迫観念に近いくらいそんな思いでいっぱいだった。お金がなきゃ、仕事がなきゃ、働かなきゃ、生きていけない。そう思っていた。でも、今は仕事もしていないし、お金もほとんどないけれど、なんか生きている。しかもなんか優雅に(にっこり)」

「この町に来て本当に良かった。ふとした瞬間、私はいつもそう思う」

「いい絵だね。ご近所の早紀おばさんが、アトリエもえにお母さんを迎えに来た時、私の飾ってある絵を見て何気にそう言ってくれた。そういう何気ない一言が、私は本当にうれしかった。早紀おばさんのお母さんは時々、アトリエもえにやって来てはお茶を飲んでいく。それも楽しいひと時だ」

「そうそう、絵といえば忘れていた。一度も売れたことがないって言ったけど、実は一枚売れたんだ。買ってくれたのは漁師の松さん。小さな花の絵だった。漁船の船室に飾るという。男ばかりの無機質な部屋に、この絵があると和むんだよね。なんて言われて私は有頂天になる。無骨な人だが、そういうことをさらっと言える人なんだよね。私はもう、痺れたね。生まれてきて良かったとさえ思ったね。ふふふっ(思わず顔がニヤけるわ)」

「おっ、帰って来たか。普段閑散としているこの町の港に、突如としてものすごい活気が湧き上がる。やっさんたちが帰って来たのだ。やっさんは遠洋漁業の船乗りたちのリーダーだ。元ヤクザで小指がはないけれど、とても明るくてやさしい人だ。何か月も海を旅して今帰ってきたのだ」

「帰ってきた漁師さんたちは、まず、浜の湯に行って、数か月に渡ってこびりついた垢をきれいに落とす。そして、その夜、再び港に集まり、町の人総出で盛大に大バーベキュー大会をする。これは毎回の恒例で、船が戻ってくるたびに私も招かれていつも参加する」

「バーベキュー大会には、この港町の子どもからお年寄りまですべての人がやって来て、飲めや歌えの大騒ぎ。誰でも参加できる、お祭りのような本当に楽しい一晩だ。私は招かれた身なのに、漁師さんたちがバーベキューの準備から、調理、配膳まで全部やってくれる。私はただ、焼けたお肉やお魚を受け取って食べるだけだ。漁師さんたちの慰労の催しなのにね。なんだかまったく働いていない私が慰労されてしまうのだ(ちょっと罪悪感・・)」

「おいしい。本当にほっぺたが落ちるほどおいしい。みんなで食べる炭火で焼かれたお肉やお魚はもう堪らなくおいしい。特別な調理なんて何もいらない。ただ焼くだけで最高においしい。本当に感動的なうまさだ。さらに、デザートには、かき氷やスイカまである(もう最高。きゃ~)」

「もうみんなで、夜中までほんとに大騒ぎ。私は漁師さんとフォークダンスまで踊ってしまうのだ。(あはははっ)」

「夜風が気持ちいい。なんて気持ちのいい夜だろう。私は清々しい空気の流れる夜空を見上げる。あの時・・」



「――あの時、風が吹いていた。とても心地の良い風だった。私はその風に乗ってこの町にやって来た」


「あの時、私は、とても傷ついていた。とても・・」


「体が冷たくなるほど傷ついて、私はこの世界の何をも信じられずにいた・・、世界は真っ暗で、明日なんてどこにもなかった」


「私の顔は真っ青だった。みんなおかしいおかしいって言ってた。「さなえおかしいよ」「さなえ大丈夫?」「さなえ少し休んだ方がいいよ」でも、私は働かなきゃ働かなきゃ、仕事に行かなきゃ、仕事をしなきゃ、与えられたことをこなさなきゃ、それしか頭になかった。がんばってがんばって、努力して努力して、若いんだから根性で乗り切れらなきゃ。みんなに迷惑を掛けちゃいけない。どんなことがあっても自分一人でやり抜くんだ。そう思っていた」

「仕事、仕事、仕事、仕事をしなきゃ。絶対何があっても仕事をしなければ。仕事を辞めるとか、失業とか、そんなことは絶対考えられなかった。そんなことは怖くて考えることすら出来なかった。お金がなきゃ、お金を稼がなきゃ。無職なんて恥ずかし過ぎる。みんなに変な奴だって思われる。劣った奴だって思われる」

「みんなやってる。苦しいことを乗り越えて、みんながんばっている。与えられた仕事をみんなこなしている。私だけ弱音を吐くわけにはいかない。毎日毎日、抱えきれないほどの仕事を背負い、途方に暮れながら、寝る時間もなく、毎日毎日、先輩や上司に怒られて、がんばってもがんばっても終わらない無限の仕事。寝不足と疲労で頭が麻痺して、ミスを連発して、顧客の方々にも迷惑をかけて、それでもがんばってがんばって、私はこなしきれない仕事に一人、悶え、苦しみ、狂っていった。それでも、がんばらなきゃ、がんばらなきゃ。私は自分にそう言い聞かせて、ただがむしゃらにがんばっていた」

「勉強だってがんばったんだ。小さい時から色んな事をがまんして、勉強して勉強して、目標の国立大に入って、就職活動だって、何社も何社も受けて、がんばってがんばって、そして、やっと辿り着いた今の場所だったんだ。だから絶対に辞めるわけにはいかなかった。絶対に・・」

「ある日、私は鼻血を出した。白いブラウスが真っ赤になった。それでも私は働いていた。鼻血を流しながら働いていた。それでもそれが正しいのだと思って、私は働き続けていた。みんなが私を見ていた。みんながそんな私を静かに見ていた。それが最後の記憶。いつしか、私の私という人格が溶けていった。それはもう、何かふわふわと何か得体の知れない世界の中空を彷徨っているようだった」

「そして、私は倒れた・・」

「命があるだけ奇跡だと医者に言われた。だが、その時、私が考えていたことは、終わった・・。ただ、それだけだった」

「意識を取り戻した後、私は毎日、病院の窓から茫然自失として外を眺めていた。私は与えられた仕事すら満足に出来ないダメな社員。みんなが出来ていることさえできないダメな人間。みんなにどれだけ迷惑をかけているのか、考えるだけで恥ずかしくて死んでしまいたかった」

「そして、私は働こうとした。まだできる。まだできる。ボロボロになって、死にかけてまでいたのに、それでもまだ私は働こうとした。何かに取り憑かれたみたいに、私は、働こうとしていた。戻らなきゃ。戻らなきゃ。仕事がまだたくさん残っている。それを、みんなが、なっちたちみんなが必死で止めた。涙を流しながらみんなそんな私を止めた。「さっちが壊れちゃうよ」「さっちが死んじゃうよ」なっちも、のんもさちべぇも、私にしがみついて、泣きながら私を止めた。私も泣いた・・」

「・・、気づけば、世界は全く違ったものに変わっていた。同じはずの世界が、なんだか全く違う世界に変わってしまっていた」

「私は壊れてしまった。私の深いところの何かしっかりとしていた形が、壊れてしまった。死ぬことよりも苦しいことが、この世にはあるんだと、その時私は知った。死んでいく人々をニュースで見聞きする度、なんて羨ましいんだろうと思った。心底羨ましいと思った」

「退院した私は一人部屋で震えていた。何に震えているのか自分でも分からなかった。でも、震えが止まることはなかった。体を目いっぱい固く、抱き締めても私は震え続けていた。どんなに温めても温まることはなかった」

「仕事も勉強も何もしていない日々が何だか不思議だった。どこかに罪悪感を感じている自分がいた。がんばっていることが当たり前だった。なんだか分からないけど物心ついた時から私はいつも常にがんばっていた。私は何にあんなに必死だったのだろう。今はもう分からなくなった。何もかもが分からなくなった。何を信じていたのか。何を信じていいのか何も分からなくなった」

「広大な宇宙の自然法則の中で世界は流れ、それは何も変わらず続いている。その中で人は当たり前に日常を生き、その社会の中でその個々の役割を果たす。そうやって社会は回っている。ただそこに、一人ダメな私がいた。ダメな、ダメな、ダメな自分がいた。責めても責めても、責めきれない、ダメなどうしようもない自分がいた」

「ただ何気ない日常のひと時に、ふいに涙して、そのまま私は号泣した。それが自分のふがいなさなのか、ダメな自分への憐れみなのか、自分を傷つけた全てに対しての憎しみなのか分からなかった。悔しくて、悲しくて、私は拳を叩きつけて泣いた。でも、震える拳は、固いフローリングに無力に跳ね返された」

「涙が流れて、流れて、もうこれ以上流れたら私はもう全身の水分が渇いて死ぬんじゃないかって思うくらい涙が流れて・・、そして、私は力尽きて眠った。眠って眠って、もうこのまま起き上がれないんじゃないかってくらい、何時間も、何日も眠って、私は起きた」

「朝起きて、私はなんだか分からないけど、絵を描き始めた。それは止まることなく延々続いた。いつ寝たのかも思い出せないくらい、毎日毎日絵を描いた。あの時、何を食べていたのだろうか。今でも思い出せない」

「眠ることも忘れ、食べることも忘れ、ただ絵を描いた。悲しくて悲しくて、絵を描く強い衝動だけが私の中にあった」

「倒れてからずっと、いや、多分自分で気づかず、ずっと以前から私の顔は自分でも分かるほど鉄でできた固い能面のように、表情がまったくなくなっていた。それが、絵を描いて描いて描きながら泣いて泣いて怒って怒って、それでも描いて描いて描きまくって、そしたら少しずつ溶けてきて、温かい何かが心に湧き出し始めて、なんだかよく分からないけど、気づくと私は何気ない何かに自然と笑っていた。作り笑い以外の、自然に浮かぶ笑顔なんてもう遥か彼方に忘れてしまったくらい、久しぶりだった。こんな自分がいたこと自体を忘れていた。いつの間にか長い間、私は分厚い鉄板で出来た人間になってしまっていた。私はそのことに気づいた」

「そして私は旅に出た。まだ私が猛烈に働いていた時、ふと一目ぼれして買ってしまった私の愛機、マウンテンバイクの三日月号に乗って私は旅に出た。当ても目的地もなかった」

「そして、この町へと私は辿り着いた――」


「あの時の私が一体なんだったのか、今では不思議に思うほど、私はもう昔の私を思い出せない。ただただ従順で、バカみたいに素直だった私。それが当たり前で、そうすることが当然だと思っていたそれ以外の世界なんてあることすら知らなかった私が、そんな私がいたんだと思うこと自体が何だか今は信じられない・・」

「私は何をあんなにがんばっていたんだろう。私はどこに行こうとしていたんだろう。私は何を目指していたんだろう。今では何も分からない」

「この町に来て、だからといって特に何もない。特別な何かは何もない。でも、この町で最高齢の漁師だというおじいさんが言った。何もないことが大事なんだ」

「今なら、おじいさんの言葉が分かるような気がする・・」

「楽しかったバーベキュー大会から一夜明け、私はマウンテンバイク三日月号で町を走る。風が吹いて、海が広がり、空が青くて、太陽がまぶしい。そんな当たり前が今の私にはある。今までどこに消えていたのだろうか。世界はこんなに輝いていたのに」

「私は世界を見失っていた。そう私は世界を見失っていた。こんなに輝く美しい素晴らしい世界を私は気づかずに死んでいくところだった」

「ほんと危なかったぜ。へへへっ。こんな冗談も今は言える」



 ―――



「今日も近所のかよちゃんが遊びにやって来た。いつものようにその小さな体でうんしょうんしょと、アトリエもえの建付けの悪い木枠で出来た古い重たいガラス扉を開けて入ってくる。かよちゃんと私は大の仲良しだ」

「おねえちゃんあそぼ」

「うん」

「お金はないけれど、かよちゃんと遊べる時間を持っている自分をなんて幸せ者なんだろうと今は思う」

「そしてまた、小太郎さんが、一人(一匹)旅に出かけてしまった。全く勝手な奴だ。小太郎さんは時々私に内緒で一人(一匹)で旅に出てしまう。何日かすると、しっかり一人(一匹)で帰っては来るのだが、やはり黙って行ってしまうのは心配だ」

「でも、のほほんと帰って来る小太郎さんを見ていると、なんだか怒る気はどこかへ消えてしまう」

「・・・」

「もう春の匂いが漂い始めていた。名前も知らないけど、ご近所の庭木の花も咲き始めている。この町に来てもう六年目だ。私も、小太郎さんみたいに一人で旅に出てみようかな。そんなことをふと思った。そして、それが、なんだか素晴らしい考えのような気がした」



                               おわり

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