心音
かって華の咲いていた路地に、彼は一人立っていた。少し前まで夏の匂いを纏っていた風は、わずかに冬の気配を帯びた冷たいものへと変わっている
ルディはケープをしっかりと羽織り直すと、地面へ目を向けた。
アイザックと別れてから、一日。彼は様々なやり方で、どうにかルディを止めようと尽力してきた。最後には、「調査には口を出さないから、行動だけでも共にしよう」なんて申し出もあったが、ルディは頑なに、首を縦には振らなかった。
(本当に、彼には申し訳ないことをしてしまったな……)
全てが終わったら、何か彼にお詫びをしよう。そんなことを考えながら、ルディは少女の“言葉”を見つめていた。
掠れてしまっているが、確かに。地面には赤茶色の文字が刻まれていた。
(しかし、何故……?華は消えているのに、この文字だけは残った?)
アイザックが言うには、調査員総出で各地の華を消したと言う。
それはそれは大変な作業だったと、何年ぶりかの酒をあおりながらぼやいていたのを思い出す。
(同じ血で書かれたはずだが……。華と文字、一体何が違う……?)
ルディは睨むように文字を見つめると、それを指でなぞった。
ロベリアと対峙したあの夜のように、血の跡はぱらぱらと崩れることは無かった。まるで、地面に元からあったかのように、その文字はじっとそこに鎮座している。
(華と同じ時に書かれたのなら、文字は消えるはず……)
はっとした。彼はずっと、華と文字が同じタイミングで描かれていたと思い込んでいた。
しかし、これが間違いだとしたら。華よりも先に、文字が書かれていたとしたら。
その場でじっと、考える。しばらくして、ルディは手帳を取りだし、1枚のページを切り取ると、そこに文字を刻んだ。彼女の残したものと同じ言葉を。青みがかったインクは、じわりと紙に滲みながら、ゆっくりと乾いていく。
ルディはそれを何度か指で擦り、完全に乾いたことを確かめる。
紙を地面に置くと、ルディは手にしていたペンの先を取り外した。
ペンに溜まっていたインクが溢れ出す。それを、彼は紙の上に垂らした。黒々とした海が、紙の上に創り出される。
インクの表面が乾いた辺りで、ルディはそれを指で拭った。まだ乾いていない内側の黒が、じわりと掠れる。指が黒く汚れることも気にせず、ルディは何度も、インクを拭った。
と、突然にそれは現れた。
黒い海に隠された底から、文字が。
「……ロベリアは、華を描く前に文字を残していた……」
このインクと同じように、彼女は完全に乾いた文字の上から、華を描いたのだろう。
しかし、標的を殺めてから文字を書き、わざわざ乾くまで待つ、というのは、あまりに不自然ではないだろうか。
ロベリアを目撃したアクシャは、彼女が華を描く所作を、舞うようだと言っていた。もし、文字を乾かす空白の時間があるのならば、アクシャも気がついたはずだ。
(よく考えろ。きっと何かがあるはずだ……)
ひとつ、頭に浮かんだのは、ロベリアが人を殺す前にこの文字を残していると言うこと。
いわば殺害予告のように、現場に文字を残すという仮説だった。
しかし、血はどうするのだろうか。人を殺す前ならば、血は出ないはず。彼女はどうやって、この血の文字を残したのか。その説明がつかなかった。
と、脳裏を黒い予感が過ぎった。
(もしも、彼女が──)
アイザックの声が、ふと蘇る。あの夜。彼女と対峙した夜のことを語る、彼の声。
『あの子は、俺を欺くために自分の腕を切った。自分を傷つけることに、躊躇いがないんだ』
彼女が、自分の血を使っていたら。
全ての辻褄が、合ってしまうのではないか。
ぐらりと視界が揺らいだ。目の前が赤く染るような錯覚。そんな中、ルディは立ち上がった。
(もしも、彼女が自分を使っているなら)
殺人という残忍な行為をするために、彼女は、文字通り自分を殺しているのではないだろうか。
酷く脆い瞳が、蘇る。揺れる赤と、今にも泣き出しそうに歪んだ顔と。
(あの子を、殺す訳にはいかない)
彼は更なる情報を求め、1つ目の現場を後にした。
*+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*
他の事件現場もよく探してみると、全てに彼女の言葉があった。誰が、どこで見つけてもいいように。彼女は全ての場所に、『見つけて』と、言葉を残していたのだ。
(やはり、殺人を無理矢理に……)
そんな事を考えながら、ルディは最後の現場───黒狼が殺された場所へと訪れていた。この路地も、他の場所と同じ、華があったとは思えない沈黙を纏っている。
少し青みがかった様な空気の中で、ルディは調査を始めた。
過去に華が咲いていた場所から、路地の隅まで。彼女の言葉がないか、ルディは僅かな痕跡すらも見逃さぬよう、注意深く地面を見つめた。
しかし───。
どれだけ探しても、言葉が見つかることは無かった。
大きく、息を吐く。呼吸音が狭い路地に響き、溶けるように消えていく。
(何故……?ここにだけ言葉を残さなかった理由はなんだ?)
黒狼の事件は、他と比べて異様だ。1人だけの被害者、国を揺るがす地位を持つ者の殺人。加えてこんな所でも、他とは一線を画しているというのだろうか。
思わず、眉をひそめた。何かを探すように、もう一度ぐるりと辺りを見渡す。
と、あるものが彼の目に止まった。
(これは……?)
彼の胸あたり、ちょうど子供の身長ほどだろうか。路地の壁に、不可解な跡があった。
見慣れた赤茶色。それは確かに、彼女の言葉。
しかし。それは文字を書いた上から手で擦ったような、そんな跡だった。
何度も文字を消そうとしたのか、それは酷く崩れたもので。
(ロベリアは、何らかの理由でこれを消したかった)
何かが、ここに隠されている。彼女がまだ、見せることの出来ない弱さが、ここにある。
彼女の心を読むように、ルディは1文字ずつ、ゆっくりと、彼女の言葉と向き合った。
それは、他の場所と同じ、弱々しい文字で。華の影に隠した、彼女の心。それにそっと、明かりを灯していく。
やがて、それは彼の前に姿を現した。
『
ひどく読みずらい、掠れた文字。けれど、確かに。そこには彼女の、心があった。
息を飲む。そっと文字をなぞり、続きに目をやる。
重点的に消そうとしたのか、文字はさらに掠れてしまっている。それでも。心を閉ざす糸を1本ずつ解くよう、ルディは文字を読みといた。そして。
「“───”」
そっと、その名前を口ずさむ。この、ほんの短い言葉が、彼女の心を溶かす鍵となるということを、彼は確信した。
空を見る。細い三日月が、まだ青い空で白く輝いていた。
月明かりの中、彼女はきっと、獲物を見つけるだろう。
「きっと、私の居場所はもう分かっているだろう?」
ルディは、自分が彼女の獲物になっていることに、気がついていた。たった1人で調査をしていたのも、彼女の刃の矛先を、自分にだけ向ける為だった。
太陽が沈むまでは、あと数刻。
辺りの空気が、突然。夜の暗さを帯びた気がした。
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