枯死

 広がった赤い海の中、少女は立っていた。足元には、悲鳴をあげることすら無く死んだ骸がふたつ。


 少女はそれに目もくれず、ナイフに付いた血を振り払うと、食卓に並んだ料理を口にした。まだ温かい。ちょうどこれから夕食だったのだろう。

 腹の奥がじわりと温まるのを感じながら、少女はひとつ、息をついた。


 指名手配犯となってから、まともに食べていなかった。殺人鬼であり、加えて忌み子でもある少女は、陽の当たる場所はおろか、影ですら歩くことは許されなかった。食べることも、寝ることも───生きることがままならなくなった。


 白蛇が、主が、自分をどれだけ強い守護で守っていたのかを、ひしひしと感じる。それが無くなった今、自分はか弱い子供に過ぎないのだ。


 そして、ついに一線を超えた。誰かの指示ではなく、自分の意思で、命を奪った。初めは、自分を捕まえようとした奴隷商らしき男。その男から、身を隠せる、フードが着いた服を奪った。次は、買い物帰りの女。その女は、食べ物を沢山持っていた。

 そして、今。食卓を囲む夫婦を、少女は殺した。


 ですら、主の指示があったのに。自分の意思では、人を殺めなかったはずなのに。いや、いちばん大切な人を手折ったから、何かが狂ってしまったのだ。


 血が、華々しい赤を宿すのは一瞬だ。その一瞬を切り取った赤が人々の記憶に焼きついたおかげで、少女は恐ろしくも美しい殺人鬼、悪意の華ロベリアとなったのだから。


 足元に広がった海は、今や禍々しい黒へと姿を変えていた。その色はさながら枯れ落ちた華。


 それを見て、はたと気づく。


 悪意の華ロベリアは、とうに枯れていたのだと。華が美しいのは、ほんの一瞬。どんなに賞賛されようと、枯れてしまえば醜くいと蔑まれる。


 枯れて、死んだ華が生き返ることは二度とない。ただゆっくりと、朽ち果てるのを待つだけだ。

 それはきっと、自分もそうで。必死に命を紡いでいるようで、ゆっくりと死んでいるのだ。色を失い、散って、消える。ただ、それだけ。


 少女は虚な瞳のまま、血溜まりへ足を踏み入れた。飛び散った液体が、足を黒く染める。足の先から、だんだんと消えていくような錯覚の中、少女は血の海の真ん中で座り込んだ。


 足を、服を、身体を、血が染めていく。冷たく暗い液体に体を預けていると、何故かひどく安心した。


 ゆっくりと、目を閉じて思い出す。殺した人の血を掬い、華を描くあの瞬間を。鮮烈な命の色が、暗い夜に咲く。あの瞬間、少女は皮肉にも、自分が生きているという事を感じるのだ。


 目を開ける。広がるのは、延々と広がる黒い海。


 どうやっても、行き着く先は変わらない。ならば。


 どん底まで、堕ちてしまえばいい。どの道、もう戻れないのだ。これからどんな道を歩もうと、いくら自らの罪を悔いようと、少女はロベリアで、『───』では無い。


 じんわりと暖かな血溜まりの中で、少女はふっと瞳を閉じた。様々な記憶が、激しく瞼の裏を駆け巡る。

 はっきりと思い出すのは、男の言葉。


『今なら、まだ戻れる』


 確かに、あの男は彼女に向かってそう言った。

 なんて無責任で、なんて美しい言葉だろうか。全て投げ出して、差し伸べられた手を取りたくなる。


 あそこで、どちらかを殺せていたら。言葉に惑わされて、逃げ出していなければ。思い出しただけで、手が震えた。


 怒りか、恨みか、それとも後悔か。その感情に付ける名前を、少女は知らなかった。


 しかし、ひとつ分かるのは、男を殺さなければならないと言うこと。


 もう、迷うことはない。何もかも、失ったのだから。

 男の言った、『戻る』とは真逆、底へ底へと『進む』自分に、乾いた笑いが漏れる。


(ねぇ、私が本当に、まだ戻れるなら)


 ゆっくりと、手を伸ばす。握った手のひらが空を切る。


「あなたも、一緒に来てくれる?」


 ただひとりで、堕ちていくつもりはない。全員、道連れだ。枯れた華は、隣の美しい命に伝播する。色を奪い、生気を奪い、最期には共に朽ち果てる。


「……もう、終わらせるわ」


 誰に言うでもなく、少女は呟いた。ひどく色褪せた宝石の瞳を、窓の外へ向ける。濃紺の空に浮かぶのは、煌々と光る満月で。


(よかった。月が、出てる)


 も、月が好きだった。月の光に吸い寄せられるように、ふらりと立ち上がる。服や肌から滴る水音も、今は気にならなかった。


 柔らかな月光が、頭を埋め尽くす。記憶の中に、溺れていく。


 髪の毛をそっと梳く、の白い指。優しい笑み。あたたかさ。月光を浴びた横顔と、ゆっくりと唄を口ずさむ声と。


 の記憶全てが、幸せだった。そう、幸せ


 窓に手をかける。硝子と、木の窓枠がかすかに震え、景色を歪めた。 そのまま、窓を開ける。静寂を連れた夜の風が、優しく少女の頭を撫でた。優しく、名前を呼ぶように。


 縋るように、窓から外へ飛び出した。月に手を伸ばし、ぎゅっと、手のひらを握りしめる。夜に舞い降りた少女の瞳は、再び光を得ていた。


 ナイフを、右手でしっかりと握りしめる。歩く足取りは軽かった。


(あなたはきっと、私を待っているのね?)


 口元に小さく笑みが溢れる。今夜、全てのだ。

 月の光に、あの探偵の影を見ながら、少女は小さく唄を口ずさんだ。


 記憶の底で、が歌った優しい唄を。月下に溶けゆく夜の唄。その裏で、運命の歯車は、確かに回り始めていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る