覚悟
「待て……!!」
一心不乱に走るルディの背中を、アイザックは必死に追いかけていた。冷静さを欠いているのか、ルディは疲れも知らぬ様子で、ひたすらに駆けていく。いくら声をかけても、振り返るそぶりすら見せないルディに、アイザックは小さく舌打ちをした。
そして、ひとつ息をつくと、アイザックはぐっと手を伸ばし、ルディの腕を無理矢理に掴んだ。
途端、ルディの身体は勢い良くがくんと傾いた。無理矢理立ち止まらされ、目が覚めたのか、ルディは小さな咳を皮切りに、背中を激しく上下させている。
そんなルディの肩に手を置くと、アイザックはしっかりと、夜の瞳を見つめた。底の見えぬ瞳の中を、感情が渦巻いている。美しく、しかしひどく禍々しいそれを見つめながら、アイザックは言った。
「探偵。あそこだけは……。闇市にだけは、関わるな」
「……何故?お前が何を知ってると言うんだ」
怒りと疑念で歪んだ瞳の中に、闇市の片鱗を見た気がして、アイザックはびくりと肩を震わせた。牙を剥いた獣のような荒々しい視線が、アイザックを穿つ。
(……絶対に、行かせるものか)
きつく、目を閉じる。それが再び開かれたとき、アイザックの瞳に宿るのは、誇り高き翡翠の色であった。ルディが、小さく息を呑んだのを、はっきりと感じた。
翡翠を煌めかせ、アイザックはゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「前に、闇市と戦い続けた調査員がいた。俺の憧れで、誰よりも平和と秩序を愛した人がな」
瞼の裏に、記憶が蘇る。太陽のような笑みと、彼の頭を撫でた大きな手。若草色の髪を靡かせ、人々の為に力を尽くす彼の姿は、正しくアイザックの憧れた調査員そのもので。
「国が匙を投げた後も、あの人は闇市と向き合っていた。闇市で行われる取引全てを明るみに出す。そう言って、たった1人の調査員と、あの人は闇市に入った」
嗚呼、記憶が爆ぜる。精神を飲み込むような空気と、殺気立つ人々と。震える手足、叫び、慟哭─────。
記憶の波から這い上がるように、アイザックは息を吐いた。ルディは、そんな彼の追憶を静かに見つめている。
「……だが、あそこは入り込んできた刺客を、安安と許すような場所ではなかったんだ。闇市の住人は、彼等の外套を見た瞬間に、武器を持った。そして────」
アイザックが、制服のポケットからある物を取り出し、ルディの方へと差し出した。それを見た途端、ルディは激しく狼狽し、声にならない悲鳴を漏らした。
「残ったのは、たったこれだけ。あとは、何も」
彼の手にあるのは、小さな、しかし、鮮やかな輝きを持つ純白の布切れだった。金の装飾が施されたそれには、深淵で起きたことを想起させるような、血飛沫が飛び散っていて。
「先代、調査員総隊長。彼は、闇市で命を落とした」
暫しの沈黙。アイザックの瞳に映ったのは、ひどく脆い、探偵の瞳であった。
「もう1人は……?もう1人も、そこで殺されたのか?」
ルディの問いに、アイザックはくしゃりと笑って見せた。ひどくぎこちない、今にも泣き出しそうな笑みを浮かべ、彼はつぶやく。
「……いま、ここにいる」
瞳を大きく見開いたまま、ルディは何も言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。
その沈黙が、アイザックをさらに深い記憶の海へと誘っていく。
『撃て……!撃つんだ、ザック……!!』
何度も、彼は自分に助けを求めていた。悔しげな色を浮かべた瞳で、アイザックは掌をぎゅっと握りしめる。
「……銃を構えたよ。でも、撃てなかった。大切な人が痛めつけられる様を、俺は見ていることしか出来なかった」
ルディは、まだ口を開かない。アイザックも、俯いたまま、言った。
「もう、あの場所で誰かが死ぬところを見たくないんだ」
アイザックは、ルディの瞳をしっかりと見つめた。静かな、静かな叫びを受け止めた夜の瞳が、ゆらりと揺れる。
二人の間を通り抜けた風が、しん、と凪いだ空気をそっと撫でた。そんな沈黙を破ったのは、静かな探偵の声だった。
「……真実を知るためには、それなりの対価が必要だ」
、,
まるで、物語を
「真実を追い求めるなら、自然に覚悟を決めるものだ。自分の全て─────命さえも、
ルディは、抜けるような蒼空を見つめながら言った。空を埋め尽くすのは、透き通るような青。しかし、ルディの目に映るそれは、ひどく濁ったものに見えて。
「私はとっくに、その覚悟ができているよ。この事件を解決に導けるのならば、私は文字通り、全てを失っても構わない」
再び視線がこちらに向けられた時、アイザックは彼の目を見て、戦慄した。底の見えない夜の瞳は、正しく飢えた獣のそれで。
彼は真実の代償として、常に自らの命を天秤にかけているのだ。金でも、賞賛でも、地位でもない。彼を満たすことができるのは、真実のみなのだ。
眼前の獣が、静かに問う。
「君に、その覚悟はあるか?」
はっとした。胸を突かれるような問いだった。
今まで、アイザックを突き動かしてきたのは憧れだった。それに、闇市でのことがあるまで、彼はこの仕事と死というものが結び付かなかった。しかし、目の前で死を実感したあの時以来、彼の胸に残るのは、言葉にできぬような空虚なものばかり。
恐れや諦めといった感情が、彼の憧れも、誇りも、何もかもを覆い隠してしまった。そんな自分に、誰かのために命を捨てる覚悟など、あるとは思えなかった。
押し黙るアイザックを見て、その問いの答えを察したのか、ルディは失望したような目を、一瞬だけ彼に向けた。
「覚悟が無いのなら、今すぐに身を引け。この事件からも、調査員からも。そんな状態では、君はそこらにいる腐った調査員たちと何ら変わりない」
「お前……!!」
頭の中で燻る、激しい怒りに身を任せ、アイザックはルディに掴み掛かった。自分と比べればひどく華奢なルディの身体が、ぐらりと揺れる。それでも、余裕そうな顔を崩さない彼に、アイザックの怒りは増長するばかりだった。
酒と煙草に溺れ、調査員という地位にのさばる奴等と、自分が同じなど、到底許される発言では無かった。怒りを露わにし、肩を掴む手に力を込める。それでも、ルディは表情一つ変えることなく、アイザックの手を振り払った。
「やはり、君は同じだ」
「やめろ!あんな連中と、どこが同じだというんだ!」
手が震える。目の前が赤く染まるような衝動を抑えながら、アイザックは強く、拳を握りしめた。
「同じさ。苦しみから助け出せる人が手の届く場所にいるのに、君は自分が死にたくないから、という理由で背を向けた。人を救う立場でありながら、自分可愛さに見て見ぬ振りをする」
何か、言わなければ。いくらそう思っても、首を締め上げられたかのような感覚で、アイザックの口から言葉が紡がれることは無かった。
ルディの言う通り、死にたく無かった。あの惨劇を目の当たりにし、彼の中で、憎しみや怒りよりも、死への恐怖が真っ先に芽生えたのだ。
『誰も死んでほしくない』。そんな表面だけの美しい言葉で、『死にたくない』という思いを欺いてきた────つもりだった。
ルディは、静かに背を向ける。咄嗟にその背中へと伸ばされた手は、虚しく空を切った。
ルディの瞳は、真っ直ぐに、深淵へと向けられている。手招きをするような恐ろしい闇の中。彼は、一切躊躇うことなくその身を溶かした。
探偵の輪郭が、闇に消える寸前。深淵よりも深い黒が、アイザックを射抜いた。
「……最後に一つ、言わせてくれ」
翡翠を捉えたまま、探偵は静かに告げる。
「この先で散った、君の憧れの人には、その覚悟があった」
口から、悲鳴に近い何かが零れ落ちた。
記憶が、瞼の奥で煌めく。そう、探偵の言う通り。彼の憧れは、あまりに真っ直ぐで、あまりに輝かしい人だった。自分のことは二の次で、手を差し伸べることを決して躊躇わない。
誰かのために、自分の全てを捨てられる人だった。
(そうだ。俺は────)
アイザックの頬を、涙が伝い落ちた。その様子を見、ルディはふっと微笑み、深淵へと消えていく。
1人残された静寂の中、彼は蒼空に向けて、呟いた。
「貴方のような人に、なりたかった」
刹那、爽やかな夏を引き連れた風が、彼をふわりと撫でた。手中にあった純白が、空へと巻き上がる。慌てて手を伸ばす彼を揶揄うように、それは右へ左へ、ふわふわと空を舞い踊る。
やっとの思いで、それを再び手中に戻したとき、彼の背中を、何かがぐっと押した気がした。
『お前なら、俺を超える調査員になれるさ、アイザック』
過去の記憶が、そっと、彼の背を押す。アイザックは大きく息を吸い、こちらを見つめる深淵と対峙した。
過去に背中を押されながら、しかし、過去とは訣別するように、彼は深淵へと、再び体を溶かした。
そんな彼の纏う黒い外套は、誇り高き純白を宿したように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます