深淵

 警戒心を隠しもせず、自分を睨みつけている青年を、ルディはその瞳でじっと見つめていた。彼よりも一回りほど小さい青年は、見た目とは裏腹に、威厳と野心を宿している。


 そして何より彼の雰囲気を引き締めているのが、その体を覆う黒い外套。金色の装飾が施されたそれは、認められた調査員のみが身につけることができる代物だ。


(調査員など、もう地に落ちたと思っていたが────)


 まだ、捨てたものでは無い。そう感じさせる何かが、青年にはあった。


 しかし、幼さの残る青年の顔立ちと、調査員と言う役職はあまりに不釣り合いで。ルディは青年を見つめると、ふっと笑いを溢した。


 そんなルディの様子に、青年は不思議そうに顔を引き攣らせ、翡翠の瞳を揺らす。

 冷静を装う為か、青年は外套の端をぎゅっと握りしめている。


 しばらくの視線のぶつかり合い。その時、ルディはため息と共に目を閉じると、呆れたように言った。


「私の、何をそんなに疑っているのです?まさか、調査員ともあろう貴方が、訳もなく一般人を疑うなんて真似はしないでしょう?」


 軽い挑発を含んだ言葉を投げれば、青年は分かりやすく顔を歪める。それがなんだか可笑しくて、ルディはくつくつと笑って見せた。


「……疑いなんて、そんな。ただ、貴方のような探偵に、依頼がこなせるか、少し気になりましてね」


 負けじと、青年もぎこちなく笑ってみせる。それを見て、ルディは満足そうに微笑み、依頼人の手をそっと取った。


 焦りで震える彼女を宥めるように、ふっと目を細めて見せる。彼女は小さく息を着くと、ルディの手を強く握り返した。


「こちらの女性が依頼人です。彼女を、随分と待たせてしまった」


 穏やかに、しかし相手を牽制する、明らかな敵意を向けて、ルディは青年を睨んだ。びくりと、青年の肩が跳ねる。やはり、まだ幼い瞳はひどく脆いように見えて。


 そんな青年に、彼はもう一度丁寧に礼をすると、先程とはうって変わり、落ち着いた視線を向けた。


「どうやら、もう御用は無いようですので、失礼致します」


 女性の手は取ったまま、彼は青年に背を向けた。


「お待たせしてしまって、申し訳ありませんでした」


 ルディは軽く会釈をしながら、女性に言う。こんな場所で、たった1人の青年のため、足を止めていられる時間は無いのだ。


「……待て!」


 そんなルディの背に、鋭い言葉が飛んだ。思わず立ち止まる。それと同時に、走り出した青年は、ルディの前に立ち塞がった。


 駄々をこねる子供のような青年の瞳に、ルディは大袈裟にため息をつく。


「……いい加減にしてください。私たちは時間が無い。この依頼は、貴方が思っているほど簡単なものではないのです」


 苛立ちを隠さず、言い放つ。そんなルディの言葉に、青年はひとつ、乾いた笑いをこぼした。


「……そんなに大変な依頼なら、貴方だけでは大変でしょう?力を貸しますよ、調査員である私が」


 その言葉に、ルディは思わず顔を覆った。指の隙間から除く瞳に映るのは、溢れんばかりの苛立ちで。どうやら、この青年はルディをただで行かせることはしないらしい。このまま軽く躱すだけでは、何時までたっても意味が無いだろう。


 諦めたようなため息をつくと、ルディは青年の方に歩み寄り、肩を叩いた。


「……着いてきてください」


 満足気に頷く青年に、舌打ちをひとつ零す。依頼人と、ルディの後ろを歩く青年に、彼は問うた。


「……そうだ。小さな調査員。名前は?」


 小さな、という言葉に軽く眉を顰ながら、青年は言う。


「アイザック。アイザック・ルードハイトです」


「先程も言ったが、私はルディ。それとアイザック、ここから敬語は無しだ。……一緒に調査をすることになるからね」


 そんなやり取りを何度か繰り返した時、依頼人が振り返り、1軒の家を指さした。


「あ、あの…。ここが私と息子の家です」


 ルディは丁寧に礼をすると、その家をじっと見つめ始めた。彼女の言う通り、ドアが歪んでいたり窓が割れていたりなど、何者かが侵入した形跡は一つもなかった。


 隠された真実を見破るため、ルディの瞳が怪しい光を湛える。その様子を、アイザックは静かに見つめていた。


 と、ルディの視線がある一点に注がれる。 そこは、ドアに取り付けられた鍵穴だった。ルディは鍵穴の少し下を指さして、言う。


「見てください。ここ───鍵穴の少し下です。わずかですが塗装が剥がれている。この形の鍵穴なら、鍵の出し入れでは傷がつくはずがない場所なんです」


「つまり…何者かが鍵に細工をした?」


 アイザックの言葉に、ルディは大きく頷いた。


「事件が起きた時、この辺りは明るかった。そんな中、子供を攫い、鍵に細工まで……。犯人は相当の手練でしょうね」


 そう呟きながら、ルディはドアを開ける。陽の光を目一杯浴びるリビングが、彼らを迎える。ルディは、その光の中にゆっくりと入っていった。軽い足音が、静かな部屋に響く。


 彼らの前に広がった部屋は、あまりにも。あまりにもだった。ここで、子供が攫われたなどとは思えないほどに。しっかりと整えられた家具と、グラスに半分ほど残ったオレンジジュース。花瓶の中で揺れる花と、床に転がる玩具の数々。


 まるで、日常を切りとって貼り付けたような。不自然なほどな光景に、アイザックが小さく呟く。


「……まるで神隠しだな」


 その呟きに、ルディの瞳が僅かに曇った。


 注意深く部屋を見渡しながら、ルディはある場所でしゃがみ込んだ。彼の視線の先にあるのは、床板が削れたような、不自然な傷。いくつも残されたそれを目で追っていたルディが、突然はっと顔を上げた。


「この傷がわかりますか?何か……金属のような硬い物で擦ったような、不自然な傷です。ひとつだけではなく、いくつも。それに────」


 ルディの指が、ゆっくりとその傷をなぞっていく。形の見えなかった物の、輪郭を縁取っていくように。それを見つめていたアイザックは、何かに気がついたか目を見開いた。


「足跡……?」


 ひとつ、頷く。そう、その傷は、靴の爪先と踵のような、そんな痕だった。


「……不思儀なことに、この痕は。片方だけ、傷がつきやすい、なんてことはありえないだろう?」


 夜の瞳が細められる。小さな痕に、強大な真実が眠っている様な気がして、ルディはそれを凝視した。


 と、視線の端を掠める、不自然な傷のある一点。そこには、周りの傷とは違う何かが、確かにあった。


 微かな、しかし鮮明な。夜空に佇む鳥のような、そんな何か。ルディはじっと、目を凝らす。


 刹那、ルディはそれと、



 記憶が、脳裏を駆け巡る。あの夜に出会った、灰色の男を。彼から受けた、を。 残る足跡の意味と、佇む烏と。不自然な日常と、神隠しの様に消えたカルミアと。


 全てが、頭の中で繋がっていく。


『烏は、深淵の使者だ。烏の訪れた場所からは、忽然と人が消える。まるで、


 頭の中を、記憶の声が反響する。視界が揺らぐような衝撃に、ルディはひとつ、大きく息を吐いた。跳ねる心臓を押さえつけ、アイザックの方へと視線を向ける。突然、動揺の色を見せたルディを見、アイザックが小さく息を呑んだのがわかった。


「……アイザック。君はの事をどこまで知っている?」


 翡翠の瞳が、大きく見開かれる。ぽかんとした顔で立ち尽くしていたアイザックだったが、何度か目を瞬かせると、静かに言った。


「何故、お前がの存在を知っている」


 場の空気が、一瞬にして凍りつく。アイザックの視線は、殺意に近いものへと変わっていた。解け始めたはずの警戒で、瞳が染まっていく様に、ルディは顔を強ばらせた。


 それもそのはず。は、ルディのような一端の探偵が知れるような情報では無かった。


 闇市。それはヴィエトルの裏に眠る深淵で、一言で言えば無法地帯。人の命が、地面の砂粒のように扱われるそこでは、数々のが繰り替えされていて。


 闇市の危険さと、そこに住む者たちの狡猾さに、国すらも匙を投げた。敵意を持って侵入したら最後。骨の髄まで、住人たちに食い殺される。闇市は、そんなところだった。


「……あの場所は、お前が知って良い場所じゃない」


 低く、威圧的な声。心臓を穿つようなアイザックの視線と、ルディの瞳がぶつかった。


「質問に答えろ。説明は後だ」


 翡翠と、夜の奥で光る狂気が対峙した。突き刺さるような沈黙を破ったのは、アイザックのため息だった。両手を顔のあたりまであげ、「降参だ」と彼は呟いた。


「……あそこの事は、詳しくは知らない。だが、調査員の持つ全ての情報は把握している」


 その答えを聞き、ルディはふっとぎこちない笑みを浮かべて見せた。細められた瞳に、いつものような冷静さや余裕は無い。焦りと、同様と、恐怖と。感情に溢れた表情で、ルディは言った。


「“義足の売人”は、その情報の中にあったか?」


「義足……?」


 ルディの問いに、アイザックは眉根を寄せた。翡翠が記憶を探るように、幾度かしばたく。


「……あぁ。確か、1人。そいつは────」


 刹那、アイザックが言葉を飲みこんだ。突然首を絞められたかのような、悲鳴に近いアイザックの声に、ルディは瞳を揺らがせる。


「おい、どうした?なにが……」


 ルディの問いに、彼はゆっくりと首を横に振る。大きく見開かれた翡翠は、驚愕と、すこしの安堵を湛えていて。


「……そいつは、子供のをする売人だ」


 電撃が走るような衝撃。彼の言葉に、ルディは苦しげに息を吐いた。全てが、繋がってしまった。


 カルミアは、売人によって攫われた。彼等の、として。買われて仕舞えば、もう、助ける術はない。誰かが、彼を買う前に。


 ────時間制限タイムリミットは、刻一刻と迫ってきていた。


 揺れる瞳で、依頼人の方を見る。彼女は、両手を口にあて、声を殺して泣いていた。恐怖と、絶望と、そして諦めと。その全てを込めたように、彼女は泣いていた。


 誰もが、闇市の恐ろしさを知っている。勿論、そこに連れ込まれたものが、たどる末路も。彼女は、息子の行く末を悟ってしまったのだ。それを見たアイザックも、苦しげに目を伏せる。皆、目の前の敵の強大さに、背を向けてしまった。


 ただ1人、ルディを除いて。


 空に溶ける、ひとつの吐息。それを合図に、ルディは駆け出した。その目に映るのは、諦めることなど知らぬような、眩い光。 ふわりと靡く月白と、僅かな夏の香りを引き連れ、ルディはひたすらに、駆けた。


「おい……!待て!!」


 アイザックの腕が、彼を捉えるため伸ばされる。しかし、夜空に溶ける月光の如く、彼はするりとその手の向こうへと消えてしまって。


「貴方は、絶対にここから離れないでください。……何があっても、早まらないように」


 アイザックは依頼人にそう言い聞かせると、慌てて彼の後を追った。


(……闇市あそこにだけは、行かせられない)


彼の、黄金の狂気を辿るよう、アイザックもまた、蒼空の中へと駆け出した。

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