翡翠の青年

蒼空の追懐

「それでは……貴方の息子さんの話を、詳しく開かせてもらえますか?」


 落ちついた色で統一された店内で、依頼人の女性は、ここの主である探偵と向き合っていた。手元には、傷一つない革の手帳。瑠璃色の羽があしらわれたペンは、窓から差し込む光を受けて、艶やかに煌めいている。


 この街でも珍しい月白の髪と、そこから覗く夜の瞳が彼女を射抜く。そのあまりの威圧感に、彼女は小さく息をつくと、ゆっくりと語り始めた。


 彼女がここに来た理由は、「行方不明の息子を見つけてもらうため」だった。つい先日、7歳になったばかりの息子─────カルミアは、彼女が家を開けたわずか一時間の間に、忽然と姿を消した。


「……はじめは、近所の子に誘われて、遊びにでも行ったんだな、と思いました。しかし、今思えばあの時、だったんです」


 その言葉に、探偵はふっと表情を曇らせた。


「貴方以外に、家の鍵を持つ人はいますか?」


 探偵の問いに、彼女は小さく首を振った。


 そう、彼女は家を出る前に、確かに鍵を閉めた。カルミアは、内側から1人で鍵を開けることができる。しかし、彼女の持つ鍵がない限り、閉めることはできないのだ。


 しかし、その時の彼女はこの違和感に気が付けなかった。お腹が空けば、そのうち帰ってくる。彼女は、胸に残る一抹の不安を、そんな考えで覆い隠してしまっていた。


 が、彼女は無情にも、自分の考えがあまりに楽観的だったことを思い知る事となる。


 昼をすぎ、日が沈み出しても、カルミアが戻ることは無かった。夜通し息子を探し続け、ついに次の太陽が登った頃、彼女の前に忽然と探偵が現れたのだ。


「何かお困りでしたら、力になりますよ」


 そうして、彼女は今この探偵事務所にいる。夜明けの名を冠した、Orthrosオルトロスに。


「……状況は分かりました。貴方の依頼、受けましょう。息子さんのため、全力を尽くします」


 探偵の言葉に、小さく安堵の声を漏らす。しかし、探偵の夜の瞳は曇ったままで。


「しかし、一つだけ言わせてください。息子さんの失踪から、一日が過ぎている。……最悪の事態も、覚悟しておいて下さい」


 目の奥で、電撃が走るような衝撃が、彼女を襲う。彼は言葉を濁したが、最悪とは、カルミアがもうこの世には居ないこと。


 ────否、遺体すらも、この世に残っていない状況だろう。

 

 視界がぐらりと歪み、襲う吐き気に彼女は口を手で押さえつけた。 慌てた様子で、探偵が立ち上がる。椅子から崩れ落ち、嗚咽を漏らす彼女を、探偵は静かに支えながら、瞳を不安げに揺らした。


 どれくらいの時間が経っただろうか。


 彼女が小さな声で、「……ごめんなさい」とつぶやくまで、探偵はその傍らで見守っていた。


「……もう、体調の程は大丈夫ですか?何か温かいものでも入れましょう」


 彼女の手を取り、椅子に座らせる。しばらくした後、彼女の前にティーカップがひとつ置かれた。


 深い紅茶色の向こうから香る、柑橘の香り。ほっと息を着く彼女に、探偵はその双眸を細めた。


「緊張が解れますよ。これを飲みながら、もう少しだけお話をさせてください」


 それから探偵は、彼女を気遣うようにゆっくりと話を進めた。


 まず、最優先で彼女の家を見せて欲しいこと。そして、カルミアの写真を渡して欲しいこと。


 それからいくつかの申し出を、彼女は全て受け入れた。この、どこか妖しげな雰囲気を纏う探偵に、彼女

 は全面的に協力すると決めたのだ。


 何故かは分からない。しかし、底の見えぬ彼の瞳に、何か。信用に値する何かを、彼女は見た気がしていた。


「……これから全力で、息子さんの調査にあたります。必ずや、真実を貴方に」


 そう言う彼の瞳を見た瞬間に、彼女は小さく息を飲んだ。 夜の奥で、ぎらり光る黄金の光。


 彼女は探偵───ルディ・エルドラドの瞳の中に、正しく黄金郷の輝きを見た。



 *+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*



 昼下がりの陽射しが、柔らかく降り注ぐ。そんな穏やかさとは不釣り合いな喧騒に、青年は陰鬱な視先を落としていた。


 下衆な笑いと、酒と煙草の匂い。憧れとかけ離れたに、青年は何度目かもわからないため息を、濁った空気に溶かした。


 黒い感情を帯びた翡翠の瞳が、手元に積み重なる資料に落ちる。1人では到底終わらぬ山のような仕事に、青年はまたひとつ、ため息を漏らした。


 そんな青年の目の前に、鈍い音を立てて酒瓶が叩きつけられる。音の主に目を向けると、そこには酷い笑みを浮かべる男の姿があった。だらしなく開いた制服の襟に、紅潮した顔。まだ昼間とは思えないほど泥酔した男は、煙草の煙を吐きつけながら、青年に言った。


「アイザック!お前も飲め。まさか、先輩の酒が飲めないとは言わないよな?」


 下衆な笑いを上げながら、酒瓶を仰ぐ男を、青年────アイザックは睨み付けた。男の胸元で、黄金色の勲章が煌めく。正義を司る天秤と、そこに佇む梟と。アイザックの憧れであった、調査員の証が、男の元にあった。それだけではない。


 その男の背には、何にも変え難い誇り高き純白が、きらりはためいていた。調査員総隊長という、地位を示す外套が。


 酷く荒んだ、しかし酷く眩しい純白が、目を奪う。アイザックは硬く目を閉ざしたまま、つぶやくように言った。


「……まだ、仕事は多く残っています。それに、私達調査員がこの有り様では、街の人々に顔向けできませんよ、


 暫しの沈黙。その後、部屋中からどっと笑い声が上がった。


「アイザック。お前はいつまで、夢見る子供でいるつもりか?調査員はな、お前が憧れたような組織じゃない。国という巨大な盾の後ろで、甘い蜜を啜っていられる組織なんだよ」


 純白を引き連れた男の腕が、アイザックの胸ぐらを掴んだ。急激に絞まる気道に、喉から悲鳴が漏れる。僅かな怯えを含んだ翡翠が、小さく揺れた。


「俺たちに必要なのは、正義でも信頼でも無い。権力だ」


 アイザックの身体が、壁に激しく打ち付けられる。漏れそうになる声を噛み殺し、アイザックは眼前の男を睨みつけた。


「調査員という立場。これさえあれば、俺たちは一生安泰だ。何をしなくても、こうして酒を飲んでいるだけで生きていける。……そんな中で、努力する意味がどこにある?」


 何度も、身体が叩きつけられる。堪えきれずに咳き込むアイザックを、男は床に放った。半ば嘔吐くように、荒い息を繰り返す。男は、彼の髪の毛を掴むと、嘲笑うように言った。


「お前もよく分かっただろ?努力しても何も変わらない。のように、死ぬだけだ」


 その言葉に、アイザックは目の奥で火花が散るような怒りを覚えた。はらわたが煮えたぎるような、全身の血が沸きたつ怒り。追い詰められた獣が牙を剥くように、アイザックは強く歯を食いしばった。


 記憶が瞬く。彼の憧れそのものだった、誇り高き背中と。獅子のような金色の髪と、蒼空を飲み込んだ青玉サファイアの瞳と。はためく純白と、頭を撫でた暖かな手と。


 アイザックは髪を掴む男の手を振り払うと、怒りに任せるように吐き捨てた。


のことを侮辱するのは、誰であろうと許しません。それに……貴方のような人には、その外套は不釣り合いですよ」


 彼はわざとらしい笑みを浮かべると、くるりと身を翻した。艶やかにはためく漆黒の外套が、背後から投げつけられる罵声を払い除けていく。


 躊躇う様子もなく、アイザックは扉に手をかけると、外の空気に身体を溶けこませた。海の香りを連れた潮風が、彼の外套をふわりと攫う。澄んだ空気を目一杯吸い込むと、アイザックはゆっくりと、その歩を進める。どのくらい前からか。皆が放棄したという仕事を、彼はたった1人でこなしていた。

 この街の調査員は、もうほとんど機能していない。あの男が言ったように、国という盾の後ろで権力に溺れ、杜撰な調査を繰り返す。力と金さえあれば、罪を塗り替えるような、そんな。


 黒を白に、白を黒に。調査員の掲げた正義は、もう随分前から、荒んでしまったのだろう。今、真の正義の下で動いているのは、探偵だ。つい最近も、ヴィエトル《ここ》に現れたという、不気味な探偵の噂を聞いた。探偵が浸透してしまった今、この街の人々は調査員を頼る、ということも忘れてしまったのだ。


 この現状を打破するため、正しき光を率いていた者も、


『いいかい?どんなに周りが荒んで、濁って、霞んでも。自分自身の正義だけは、忘れてはいけないよ。いっか、その正義に応えてくれる者が、必ず現れる』


 記憶の奥で、声が鳴る。今でも眩しすぎる光を追いかけるように。

 絶対に、この灯火を失わぬように。


 まだ幼さの残る瞳が、蒼空を映してきらり瞬いた。その奥で、透き通るような誇りが渦を巻いているように見えて。

 

 アイザックは、もう一度外套を羽織り直すと、大通りに向けて歩き始める

 。通りに近づくにつれ、増えていく人の波の中、彼は目を光らせていた。


 海鳥の声が響く、穏やかな昼の通りは、平和そのもので。その穏やかな日常に、彼は優しげな笑みを浮かべると、通りから少し外れた路地へと歩を進めた。

 

 遠くから、さざなみの音が響いている。その音に耳を傾けながら、彼が路地に入った、その時だった。


 肩に何かがぶつかる感覚。目の前の人影が、小さくよろけて、アイザックは慌てて顔をあげた。


「すみません。お怪我は────」


 息を、飲む。自分の目の前が、夜に染まったかのような色彩に、思わず一歩、後ずさる。目の前の男は、一瞬不審そうな顔をしたが、すぐにそれを隠すよう、笑った。

 

「こちらこそ、申し訳ない。こちらの不注意です」


 丁寧に礼をする男を前に、アイザックは未だ動けずにいた。見たこともない白い髪に、夜をはめこんだような瞳。全く読めないその表情に、アイザックは底知れぬ怖恐を感じていた。


 同時に、この男を野放しにしてはいけない、という警笛も。


 アイザックは警戒を一切緩めず、男を見つめた。男も、アイザックの空気が変わったことに気がついたのか、静かに双眸を細める。


 2人の間を流れる空気が凪ぎ、電流のような緊張が走る。先に動いたのは、男の方だった。


「……何か、御用ですか?私も依頼があるので、何も無いようなら、失礼しますが」


 穏やかな、しかし有無を言わせぬような威圧感。その声に、アイザックは神経をを逆撫でされるような恐怖を感じた。


(怯むな……!この男は、がある……!)


 彼は小さく息を吐くと、底の見えない夜と対峙した。


「依頼、と言いましたが……貴方は?」


 アイザックの放った問いに、男は不敵に笑って見せた。月の縁のような髪が、ふわりと揺れる。瞳の奥で、虎視眈々とこちらを見つめる何かが、ぎらりと光ったように見えて。


「私は探偵、ルディ・エルドラド。以後お見知り置きを」


 丁寧に礼をする探偵、ルディの瞳の奥に、青年アイザックはぎらりと光る狂気を見た。



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