旧友

白みはじめた月が、暁の空で輝いている。まだ寝息をたてている街は、澄みきった空気で満たされていて。


ルディはそんな空気の中にひとつ息を吐き、ぐっと伸びをした。夜につけておいた蝋燭はすっかり溶け、歪な形の蝋だけが残っている。夜通しの調査で痛む目をそっと押さえながら、ルディは手もとのランタンに火をつけた。

 

淡い炎で照らされた机の上には、大量の新聞や写真で溢れ返っている。無造作に散らばる資料を整えながら、ルディはそれらに視線を落とした。至る所に、細かな文字がびっしりと書かれている。薄い蒼色のインクで書かれたそれは、ランタンに照らされて淡く光って見えた。


彼の視先が、文字の上を滑るように動く。その様は、真実を求め、広大な情報の海を彷徨っているようで。


散らばっていたもの全てに目を通し、最後の1枚に目を通すと、ルディは大きくため息をついた。どの情報も噂の域を出ず、ロベリアの正体に繋がるものは無かった。


(分かってはいたが……。やはり公にされている情報から得られるものは少ないか……)


新聞と写真の山の中、ルディはまたひとつ、ため息を溢した。


これまでに、ロベリアが起こした事件は5件。被害者は既に10を超えている。それだけ大胆に動いているのにも関わらず、国の調査員たちですら、ロベリアの尻尾を掴むことができていないのだ。

 

「……これはお手上げだ」


その呟きは、空気に溶けるように消えていった。 朝焼けの空の明るさが、彼の睫毛に影を落とす。夜明けを迎えた彼の瞳が、小さく揺れた。


夜を惜しむように、月の輪郭はだんだんとぼやけていく。夜明けの、薄いい灰の空は、彼にある光景を思い起こさせた。


記憶に身を任せるように、目を閉じる。瞼の裏にひろがる暗闇は、あの人物と出会った夜のようで。深淵に住む、灰の目を持つあの人物を。


(……今はまだ、を頼る時では無い)


記憶の海から這い上がるように、彼は目を開けた。朝の透明な風に、月白がふわり、舞い上がる。心地よさげに揺れる木々の葉が、光を受け瞬く。窓の淵に映る影は、美しい翡翠色で─────。


その翡翠が、彼の瞳の奥で瞬いたようで、ルディははっと目を開いた。衝動のような感情に任せ、 ゆっくりと立ち上がる。すらりと伸びる指が、部屋の隅に置かれた受話器を捉えた。


受話器を耳にあてながら、もう片方で、ダイアル盤に触れる。心地のいい音と共に、いくつかの数字を針に合わせていった。


最後の数字を針へ導いた直後。耳に伝わる僅かなノイズの後に、ベルの音が響いた。何度目かのベルの後、くぐもった声がそこから流れはじめる。 


『こちらヴィエトル調査員、アイザック・ルードハイト。ご用件は?』


物腰の柔らかいその声に、ルディは小さく笑い声を漏らした。


「やあザック。こちらルディ。久しぶりだね」


ルディの声をきいた声の主─── 古くからの友人であるアイザックは、驚いたように声をあげた。


『ルディ……!本当に久しぶりだな。元気にしてたか?探偵さん』


「変わらずにやってるよ。君こそ、元気そうで安心した」


ルディの笑い声と、アイザックの笑い声が重なった。普段の仕事ぶりなど少しも感じさせない朗らかな声に、ルディはふっと目を細めた。


仕事をする時の彼は、ひどく冷静で、恐ろしい男へと姿を変える。どこまでも冷静に、真っ直ぐに、犯人だけを見つめる姿は、虎視眈々と獲物を狙う狼のようで。


獣の一面と、誰にでも手を差し伸べる優しさを兼ね備えている彼だからこそ、調査員総隊長という地位があるのだろう。調査員でありながら、国の貴族と同等の権力を持ってなお、アイザックはその優しさと誇りを失わなかったのだから。

 

「……ところでザック、本題だ。少し時間はあるかい?」


2人の和やかな雰囲気がくうに溶けた頃、ルディは口を開いた。彼の纏う空気が変わったことに気がついたのか、アイザックの声が少しだけ強ばった。


『……ああ。お前のことだ。大変な依頼でも回って来たんだろう?』


「そんなところだよ」と小さく笑い、ルディは問いかけた。


「聞きたいことがある。……ロベリアについてだ」


瞬間、アイザックが息を呑んだことをルディは見逃さなかった。2人の間を流れる空気に緊張が走る。数秒の沈黙の後、アイザックは口を開いた。


『…お前、ロベリアの依頼を受けたのか』


 それは、長年彼と親しくしてきたルディでさえ聞いたことのない、低く威圧的な声だった。


今、自分はへ、足を踏み入れようとしている。アイザックの声には、本能的にそれを感じさせる何かがあった。


「ああ。でも私にはお手上げだ。ロベリアについて、全くと言っていいほど情報が足りていないんだよ」


自虐的に笑うルディを他所に、アイザックは沈黙を貫いたままだ。


『……ロベリアあの殺人鬼は別格だ。下手に首を突っ込むくらいなら、大人しく身を引いたほうがいい』


 ルディが探偵になる前から調査員として、犯罪者と1番近い場所で働いてきたアイザック。そんな彼すらも、この事件は異常だと感じている。ルディはここで再び、自分が直面している壁の大きさを実感した。


「依頼はロベリアの確保ではない。あくまで素性を明かすことだ。事件の最前線に入るような真似はしないさ」


 そういうと、アイザックは安堵したように息を吐いた。


『なるほど。つまりお前は、俺の持つ情報が欲しい…。そうだろ?』


「……話が早くて助かるよ」


 過去にも、ルディは調査のため事件に深く介入したことがあった。犯人を見つけるため、自らが標的ターゲットとなるような、そんな方法を。そのあまりに向こう見ずな方法を、アイザックはひどく嫌っていたのだ。


 しかし、今回彼が求めているのは情報だ。それも、事件の最前線で動くアイザックの情報を。


しばらくの沈黙。その後、アイザックは呆れたように深くため息をついた。


『…あまり多くは話せないぞ。こっちだって仕事だからな』


「……話してくれるのかい?ありがとう。てっきり、断られるかと思っていたよ」


冗談っぽく笑うルディに、アイザックは言った。


『こうなったお前は、俺が言っても止まらないことくらいよく分かっているからな。断ったら、お前はどんな方法で調査をするか……。考えただけで恐ろしいね』


その言葉に、ルディは笑みを浮かべる。瞳の奥に眠る黄金は、優しげな光を湛えていて。


『……それなら、で』


「ああ。で会おう、ザック」


 ノイズと共に、電話の音声が途切れる。ルディはジャケットを羽織ると、事務所の扉を潜った。朝の柔らかい風が彼の頬を撫で、月白の髪をふわりと舞いあげる。


 青空を映した瞳が、孔雀青に染まった。

 歩き慣れたへの道を歩いていると、彼の脳裏にアイザックとの思い出が過ぎる。


 それは、今日と同じ透き通るような晴れの日。


 若い調査員と、孤独な探偵が出会った、とある日の話だ───。


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