ロベリア
夜を舞う
痛い。
ずきりと痛む首の痛みで、アイザックは泥のような眠りから覚めた。 窓から差し込む日差しが、目覚めたばかりの翡翠を穿つ。
そのあまりの眩しさと、重い身体に彼は小さく呻き声を漏らした。
「……先輩?」
頭上から降る、優しげな声。こちらを心配そうに覗き込む紫苑の瞳に、アイザックは小さく笑って見せた。
「……ノエル……」
ひとつに結われた
「具合はどうですか?……やはり、まだ痛みますか?」
「そんな顔をするな。俺なら大丈夫────」
体を起こし、無理矢理に立ちあがろうとする。その瞬間、全身に鋭い痛みが走り、アイザックはその場に崩れ落ちた。
「先輩!!」
慌てて駆け寄ったノエルの手が、上下する彼の背中をゆっくりとさする。その動きに集中するうちに、痛みはゆっくりと消えていき、アイザックは大きく息を吐いた。
「無理はしないでください。しばらくの仕事は、僕達で片付けますから」
「そうさせてもらうよ」とはにかみ、彼は寝台に再び体を沈み込ませた。ノエルの話によると、彼は丸一日、眠っていたらしい。その間、彼の代わりに仕事を片付け、加えて看病までしてくれたノエルには、頭が上がらなかった。
わずかな痛みの中、アイザックは記憶の中で徴睡む。
(確か、あの時、少女が────)
ゆっくりと、瞼の裏に、記憶が蘇る。はためく黒髪と、銀に煌めく刀身と。そして何より、視界を染める、赤、赤、赤─────。
(そうだ。俺はあの時、ロベリアと……!)
はっとして、アイザックは再び体を起こし、ノエルの方を仰ぎ見た。
「……ロベリアは?ロベリアは、どうなった……?」
彼の勢いに、ノエルは瞳を揺らしながら、おずおずと答えた。
「今は、各地で指名手配になっています。国も、四大貴族の皆様も、ロベリアの確保に尽力してくださるようで」
その言葉に、アイザックは唇を噛んだ。ノエルの言葉を聞くに、ロベリアはまだ、捕まっていない。あの時、自分はロベリアと対峙したにも関わらず、取り逃がしてしまったのだ。
「俺が、もっと気を引き締めていれば……」
苦しげな、絞り出すかのような呟きが、口から溢れる。それは聞き、ノエルは焦ったように両手を左右に揺らした。
「そんな……!先輩が悔やむことではないですよ!それに、ロベリアの手から二人も逃れた。それ以上のことはありません」
『二人も』。その言葉に、わずかな引っ掛かりがあり、アイザックは考え込んだ。そして────。
「そうだ……!ルディは!あいつは無事なのか?」
確かに、あの夜彼はルディに救われた。自分が倒れた後、ルディはどうなったのだろうか。
不安が、悪い予感が、胸の中で増幅する。
そんな彼の想いに応えるように、事務所の扉が、ゆっくりと開いた。
「おや、目を覚ましたようだね、ザック」
聞きなれた声に、はっと顔を向ける。そこには、安堵の表情で瞳を細める、ルディの姿があった。
「ルディ……!お前も、無事だったか……!」
再び立ち上がろうとするアイザックを、軽くてで窘めながら、ルディは彼の横に座った。
「彼を見てくれていてありがとう。君には本当に、迷惑をかけてしまったね」
ルディはノエルの方を見、丁寧に礼をした。
「いえ……!お礼をしなければならないのは、こちらの方です。先輩が無事なのは、間違いなく貴方のおかげなんですから」
2人の話によると、あの後ルディは、気を失ったアイザックを背負い、調査員事務所に訪れた。治療器具が整ったそこで、応急処置をするためだ。空は、僅かに白み始めた頃。まだ、誰もいないはずの時間だった。
が、ルディが扉をくぐった時、確かに、気配がした。
そこに居たのは、必死に見回りから帰って来た記録がないアイザックの手がかりを探す、ノエルだった。
彼は手負いのアイザックを見て、血相を変えた。そして、彼が目覚める今の今まで、ずっと看病を続けていたのだ。
「本当に、良い後輩を持ったね、ザック。彼は今後、もっと良い調査員になる」
ルディの言葉に、ノエルは少し照れくさそうに笑った。アイザックも、それに応えるよう、「ああ。俺の自慢の後輩だよ」と微笑んだ。
そんな話を、しばらく続けた頃、ルディは「さて────」と、小さくつぶやいた。それと同時に、夜の瞳が彼の翡翠を覗き込む。その視線は、いつものものとは違う捕食者の目で、アイザックは思わず息を呑んだ。
「目覚めたばかりで申し訳ないが、少し話がしたい。ロベリアの事だ」
ロベリア。その言葉に、場の空気がしん、と張り詰める。ルディはアイザックとノエルを交互に見つめ、静かに告げた。
「ノエル……と言ったかな?君は、ロベリアの調査にどこまで関わっている?」
「まだ、本格的な調査はしていません。現場を見に行ったことが、一度だけ」
ノエルの言葉に、ルディは一瞬だけ、瞳を揺らした。そして、彼の紫苑を見、
「それなら、君はこれ以上深入りしない方がいい。一度、席を外してもらってもいいかな?」
と告げた。ルディのことばに、ノエルは怪訝そうに眉を顰める。
「何故です?確かに、俺はまだ新人です。しかし、事件の情報を聞く資格は、十分にあると思いますが」
二人の間を流れる空気は、一気に電気を帯びたようで。
たまらず助け舟を出したのは、アイザックだった。
「今は、ルディの言うとおりだ、ノエル。お前が思っているより、この事件は危険だ。お前にはまだ早い」
「でも……!」と食い下がるノエルに、アイザックは静かに言った。
「俺はこの後、ロベリアから手が離せなくなる。もしお前が、ロベリアの調査に加わったら、その間、この街は誰に任せればいい?」
悔しげな顔で、ノエルは押し黙る。彼は賢い。アイザックが、彼を信用しているからこそ、この事件から遠ざけようとしていることには、察しがついているだろう。
頭では、きっと分かっている。しかし、自分の中の何かが、諦めたくないと叫ぶのだ。
(嗚呼、分かるよ。心の叫びは、酷くうるさい……)
過去の───青年だったアイザックも、そうだった。形容し難い孤独感と、疎外感。胸のざわつきと、譲れないプライドと。そういうものが、『諦める』という選択を取らせてくれない。
(それでも……)
アイザックは、彼の先輩として、総隊長として、折れる訳にはいかなかった。
「ノエル、
アイザックの鋭い言葉に、ノエルは唇をかみながら、「……はい」と呟いた。そして、ゆっくりと、隣の部屋へと消えた。
「すまない。彼には、酷いことをした」
ノエルの消えていった方を見、ルディが言う。そんな彼に、アイザックはふっと笑って見せた。
「大丈夫だ。挫折は時に、 人を強くする。あいつも、この経験が新たな一歩になるさ」
そう言うと、アイザックはルディの方を見た。その視線に気がついたのか、ルディは手帳をとりだし、語り始めた。
「君を運ぶ時、事件現場の地面に、何か妙な痕跡があった」
「痕跡……?」
ルディは彼の言葉に小さく頷き、続ける。
「ああ。赤黒い───恐らく、血痕がね。ロベリアと私達が対峙した、あの場所にあった」
そう言って、ルディはいくつかの写真を手渡した。
「君が眠っている間に、少し調べてきた。見てくれ」
ルディは、写真の一点を指さす。そこには確かに、血痕のような何かが残されていた。ほんの僅かな、不規則な跡。
「初めは、ロベリアとの戦闘で落ちた血だろうと思った。だが───」
ゆっくりと、彼の指が写真をなぞる。まるで、不明瞭な物の輪郭を浮かび上がらせるように。
不規則に見えていた跡は、ゆっくりと、その形を露わにしていく。ルディは指を写真から離した時、アイザックは小さく息を飲んだ。
「これは……文字……?」
ほんのわずか。目を凝らさなければ見えないような。 かつて、血の華が咲き誇っていた地面には、文字が。血で描かれた文字が、こちらを見つめていて。
「『
その、たった一言の言葉は、確かに。
息が詰まる。小さく息を吸って、ルディの方を見る。
彼は、笑っていた。夜の瞳は、ぎらりと、何時ぞやの狂気を湛えていて。
夜と翡翠が、混ざり合う。互いの瞳に映る色は、まるで夜明け前の空。
月明かりの月白が、黎明の紺色が、呼吸をするように、はらりと揺れた。
「これで確信した。ロベリアは───」
ルディの言葉が紡がれる前に、アイザックは呟いた。
「何かを伝えるために、人を……」
記憶の中で。夜を舞う、恐ろしい少女の赤い瞳が、ひどく、ひどく脆く見えた。
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