華影
あたたかい。柔らかな何かに包まれて、
深い深い水中に、ゆっくりと沈んでいく。目を開けても真っ黒で。でも、あたたかさだけははっきりと感じられて。 身体を囲む水が、自分を抱きしめている様だ。少女はあたたかな抱擁の中、ひたすらに漂っていた。
『────。良い子ね。貴方は────』
春に吹く風のような声が耳をくすぐり、頭の中をふわり
、覆っていく。真っ黒だった視界が、徐々に色彩を取り戻していくようだ。
日差しをたっぷりと吸い込んだ、透明に瞬く水面が視界に飛び込んでくる。静かに揺れる水音と共に、あたたかい声は耳元で囁く。
(もっと……)
その声が、開きたい。少女に深く根付いた記憶の声は、ゆっくりと
記憶の声を、開きたくて。もっと、あたたかさに触れていたくて。 少女はそれに、手を伸ばした。傷ものに触れるように、そっと。
『─────。』
名前を呼ばれる。あの悍ましい、
心が満たされる感覚と、どうしてか、ちくりと刺すような痛みが走る。少女はそのまま、何かに縋るように思い切り手を伸ばした。
刹那、少女をつつんでいたものは泡となり、跡形もなく消え去った。それを繋ぎ止めるため、めちゃくちゃに手を動かすも、少女が触れた泡はたちまち弾け、さらに小さくなり消えた。
気がつけば、少女は暗く冷たい水底にいた。しん、と凪いだ水底で、少女は声を上げることも、指先を動かすこともできぬまま。 不安気な瞳が、小さく揺れる。
光を失った視界の
肌に触れる柔らかな絨毯の感覚が、記憶の海に沈んだ何かを思い起こさせる。それが何かわからぬまま、少女を現実へと引き戻したのは、再び走った鈍痛だった。
髪を、強く掴まれている。そのままぐっと上へ引っ張られると同時に、しゃらんと銀の細工が音を立てた。
ぼんやりとした頭は、状況を上手く理解してくれない。しかし、髪は掴んだまま、顔を覗き込んできたその瞳に、少女は文字通り戦慄した。
見るもの全てを穿つような、
あの路地から逃げた後、少女はもつれる足を無理矢理動かし、屋敷へと戻った。
自分が、失敗を犯したという事実が、ひどく怖かった。屋敷へ戻れば、主から罰を受ける。それは理解していたし、少女に逃げるという選択肢が残されていることも、わかっていた。
しかし、無意識のうちにつけられた首輪が、主に背くことを許すはずも無く。
少女はこうして、その小さな身体には重すぎる程の罰を、主から与えられているのだ。
「……自分が、何をしでかしたのか分かっているのかしら?」
静かな問い。微かに震える声からは、収まりきらない怒りが伝わってくる。髪をもう一度強く引っ張られ、少女は小さく呻き声をあげた。
喉の奥が、恐怖でぐっと締まる。声を出そうにも出せぬまま、少女は主の目を見つめることしかできなかった。
主の口から溢れる、失望したようなため息。それと同時に、少女は激しく壁に叩きつけられていた。視界が暗転する。体全身が軋むようだ。
ひどく咳き込みながらも、少女はゆっくりと主の方へと寄り、服従を示すよう跪いた。
忠犬のような自身の姿に、乾いた笑いが漏れる。ずっと、自由になりたかったはずなのに。主の手中から解放されるために、こんな非道に手を染めてきたのに。
今は、主から見捨てられることが─────自由になることが、怖かった。少女は、主に拾われてから人生のほとんどを殺人に費やしてきた。
少女にとって、人を殺すというのは、自分の存在を作り上げるものの一つになっていたのだ。
2回も、誰かに見捨てられる事より、殺人を犯すことより、何よりも。
自分の存在意義を失うのが、怖かった。
「……あと」
掠れた声を、絞り出す。怒りを身に纏いながらも、主は少女の声に、耳を傾けている様で。
「あと、誰を殺せば良い?何度だってやる。だから────」
『見捨てないで』。その言葉を紡ぐ前に、主人はくつくつと笑い、言葉を遮った。 小さな笑いは少しずつ大きくなり、最後には少女を突き刺すような嘲笑へと変わっていた。
「嗚呼、貴方は本当に……愚かなのね」
何故。そう呟いた少女の首を、主人の手が絞めあげた。
無理矢理上を向かされる苦しさと、呼吸がままならない苦しさで、少女は顔を歪める。激しく揺れる赤を射抜いた金色が、ふっと笑った。
「もう、何もかも崩れてしまったのよ。調査員……寄りによって総隊長に正体を見破られ、目撃者を2人も生かしてしまった。明日の朝には、貴方は指名手配犯よ」
歌うように、主は続ける。
「私が、貴方の主でいるのは、夜明けまで。夜が開けたら、私は貴方を切り札とは見ない。世間の目と同じ、
事実上の死刑宣告に、少女は呆然と、主を見つめ返すことしかできなかった。あと数刻。夜が明けた瞬間に、少女は全てを失う。居場所も、安寧も、存在意義さえも。
体の動かし方を忘れてしまったようで、少女は息も絶え絶えに、ただ立っていた。
ぞんな少女の頭上から、ふっと乾いた笑いが降る。主の顔は見えないが、金色が細められたことは、鮮明に感じられた。
「夜明けまで、ここにいるつもりかしら?私は構わないけれど───」
主は、少女の方へと歩み寄る。彼女の緩く巻かれたプラチナブロンドは、
「貴方が人に戻れるのは、ここが最後よ」
その言葉に、少女は肩を震わせた。少女の反応を見、主は言う。
「黒狼を含む10人以上の殺害。夜明けまでここにいるならば、屋敷への侵入と、私への殺人未遂。これだけの罪を犯したものが、どうなるかわかるかしら?」
俯いたまま、首を横に振る。しばらくの沈黙の役、主は続けた。
「極刑では済まない。自ら死を望むような仕打ちを受けるでしょうね。頭からつま先まで、恐怖と痛みに支配されて死ぬの。誰もが貴方を
( ……それだけは、いや)
強く、唇を噛み締めた。痛みも、死も、恐怖も憎悪も嘲笑も、全部耐えられる。しかし────。
ロベリアとして死ぬのは、嫌だった。
恐怖か、はたまた悔しさか。震える体を抑える事は、できなかった。
主が、少女の横を通り抜ける。ふわりと、柑橘の香りが後を追う。扉の前で立ち止まると、主は少女の方へと振り返り、言った。
「まだ、貴方がその名を拒むのなら、今すぐここから消えなさい。せいぜい、逃げてみると良いわ。
挑発とも取れる主の言葉に、少女はゆっくりと立ちあがった。胸の奥から、感じたことのない感情が湧き上がる。
そんな感情に身を任せるよう、強く目を閉じた少女に、主は吐き捨てた。
「貴方はよく働いてくれた。でも、もう用済みよ」
主の瞳がぎらり、黒い光を湛えたようで。
「……それでも、貴方が私の駒として動くのなら、もう1度だけ、機会をあげるわ」
はっと、少女は主を見つめた。
「私が、貴方を敵と見るのは変わらない。けれど……自分の手で犯した過ちは、自分で後始末をするものよ」
金色の瞳が、ふっと細められる。くるりと少女の方へと振り返ると、主はゆっくりと手を伸ばし─── 。
少女の頭を、そっと撫でた。
息を飲む。自分が何をされているのか、しばらく分からなかった。ただ、主の手から伝わる何かは、ひどくあたたかくて。
「最期まで、立派に動いてちょうだい。期待しているわ」
甘い甘い、砂糖菓子のような言葉が、頭を染めていく。 主の手は、少女の記憶にあるあたたかさを思い起こさせるようで。
ゆっくりと、手が離れる。少女は小さく息を吐くと、もう一度、しっかりと主の瞳を見据えた。
主の目が、満足気に光る。 瞳が鋭い光を湛えたと同時に、主の口から言葉が紡がれる。
「行きなさい」
鞭を打つような、鋭い声。少女は小さく頷くと、扉を潜った。
怖さも、不安も、寂しさも。今はもう無い。
(役目を……)
自分の役目を、果たすため。少女はナイフを握り直すと、影に溶けるように屋敷から飛び出した。
主の言った通り、夜が開ければ、少女の情報は町中に広がるだろう。 忌み子の証である黒髪も、瞳も、酷く目立ってしまう。 白蛇という守りを失った少女が捕まるのは、時間の問題だろう。
しかし、調査員の総隊長であるアイザックには、深手を負わせた。調査員が本格的に動くのは、彼が回復してからだ。
それならば今、少女を追う者は。
(白い、光───)
あの、月白の男。あの男は間違いなく、アイザック以上にこの事件の真相を握っている。
それに、アイザックとあの男は友人だろう。2人が手を組んでしまえば、勝ち目はなくなる。
(まずは、彼から)
月の見えぬ新月に、少女は月を────月白の色を見た。
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