月華

 アイザックの首にあてがったナイフを、横に薙ぐ。たったそれだけの動作を、少女は少し、躊躇った。何度も何度もこうしてきたはずなのに、今更躊躇ってしまうのは、生きた温もりに触れているからだろうか。


 泣いて、叫んで、命乞いをしてくれた方が、どれほど良かったか。

 そう思ってしまうほど、アイザックの最期の輝きは、美しかった。


 標的ターゲットに対して、こんな。命あるものなのだと実感したのは、初めてだった。


(何故、彼にだけ、こんな……)


 考えてみて、はっとした。 標的ターゲットと刃を交えるのも、最後の声を聞いたのも、彼が初めてだ。皆、少女を認識するより前に死んでいった。


 少しでも。少しでも楽に死ねるように、少女は素早く、多くの人の軽動脈を掻き切ってきた。おびただしい量の血を出した瞬間、がくりと脱力して死んでいく姿を、幾多となく見てきた。


 彼は、この美しい威厳を顔に貼り付けたまま、死ねるのだろうか。最後には、痛みや恐怖で顔を歪め、皆と同じ、苦しみを張り付けて死ぬのだろうか。


 小さく、手が震える。ひとつ、息を吐くと、少女はナイフをしっかりと握り直し、首に刃を入れた。


 じわりと、刀身に血が滲む。それと同時に、アイザックは声にならない悲鳴を漏らした。 


 彼の手は、ずっと前から小さく震えていた。最後に見た瞳からも、声色からも、ひどい怯えを感じた。


 すぐにでも、逃げ出したいだろう。泣いて泣いて、「死にたくない」と言いたいだろう。それでも。それでも彼は、最期まで。誇りと威厳を貫いた。


 ───────殺したくない。


 頭の片隅に浮かんだ、小さな思いが、今にもナイフを薙ごうとする少女の手を、一瞬止めた。


 その、たった一瞬が、自身の運命を左右する時間になるとは、少女は思いもしなかった。


 突然、気配も何も無かった背後から、が現れたのだ。

 手を止め、耳をそばだてる。それが足音だと気かつき、背後を振り返ったときには、はもう、少女の目の前にいた。


「ッ……!!」


 体勢を立て直しながら、素早く後ろへ飛び退く。はスピードをゆるめることなく、少女の懐へと飛び込んできた。片手にはナイフ。

 少女は苦しげに舌打ちをすると、ナイフを受け止めた。


 速さと勢いが乗った重激だ。少女は吹き飛ばされそうになるのをぐっと堪え、謎の人物を睨みつけた。ふわり、白茶ベージュのケープが舞う。


 夜目がきく少女でさえ、暗くて顔は見えない。しかし、その人物の持つナイフを見て、少女は激しく狼狽えた。


 紛れもない。そのナイフは、先程までアイザックが握ってきたものだったからだ。


(なんで……さっきあそこに……!)


 横目で、ナイフや銃が転がっていた場所を見る。

 銃は、確かにあった。しかし、ナイフは。謎の人物は、気配ひとつ無くナイフを拾い、彼女に襲いかかったのだ。


 人間業では無い。一体何が起こっているのか。

 少女が瞳に焦りをうかべる中、はアイザックの横にしゃがみ込んだ。


「ザック、立てるか?」


 アイザックは、ゆっくりと瞳を開く。翡翠が、を捉えて激しく揺れた。


(何者なの……)


 少女の心の問いに答えるように、はゆっくりと立ちあがった。

 アイザックの手をとり、ゆっくりと。


 と共に立つアイザックの瞳は、先程までの諦めは無い。

 汚れのない威厳と誇りが、戻ってきていた。


 2つの、影を睨む。狼の横にたたずむ影が、ふわりと、羽を広げた。


(落ち着いて……。殺す数がひとつ増えただけ)


 ナイフを再び構えた。2つの影と、対峙する。は、ゆっくりと少女の方へ近づいて来る。


 羽のようなケープが、冷たい夜風に舞っている。

 握られたナイフと、そして─────。


 少女は正しく、月を見た。


 目を奪われるほどの月白が、そこにあった。月白の下には、闇に溶けていきそうな夜の瞳。夜を飼う男の瞳は、真っ直ぐ少女だけを見つめていた。


 怒りでも、憎しみでも、奇異の目でもない。その男の瞳は、少女を見つけたことを心から喜ぶ様な。そんな狂気が、少女をその場に縫い付けて離さない。


 その姿を見て、少女は胸につかえたものが、すとんと腑に落ちるのを感じた。


(ああ、あなたが……)


 彼こそが、白い光だと。月の淵のようなその白は、間違いなく、彼女の見慣れた白だった。


 羽を持つその男は、まるで月夜を支配する梟。鋭い夜の瞳は、ゆっくりと捕食者の笑みを称えている。


 新月の夜。月下に舞う二対についの獣が、少女の前に立ちはだかった。



 *+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*



 濡羽色の髪と、眩いほどの赤い瞳の少女を前に、ルディは言葉にできぬ高揚感に襲われていた。追い求めていたものが、目の前にいる。


 ルディは警戒を怠らぬまま、口元に笑みを浮かべた。少女は、燃えるような瞳でこちらを睨んでいる。その奥には、やはり殺意が宿っていて。


 少女はまだ、アイザックを───否、彼らを殺すことを諦めてはいないようだ。


 ルディは、横に立つアイザックに視先を向けた。


 荒い呼吸を操り返す彼の喉は、一部がぱっくりと切れている。致命傷ではないが、傷から流れる血は、シャツの胸元まで赤く染めていた。


 彼の上から飛び退くその寸前に、少女は刃を薙いだのだ。


(あの状況でも、彼を殺そうと……)


 末恐ろしかった。現場を目撃されること。少女にとってそれは、1つ死体が増える。たったそれだけのことなのだ。


「ザック、無理はするな。危険を感じたら、私を置いてすぐに逃げろ」


 ルディの言葉を、アイザックはふっと笑い飛ばしてみせた。


「……馬鹿を、言うな。俺は調査員だ。この事件を終わらせる、責任がある」


 彼の真っ直ぐすぎる声に、思わず笑みをこぼす。そして、素早くナイフの刃を仕舞うと、アイザックへと放った。


「ならば尚更、ここで終わってはいられないだろう?」


 アイザックは苦しげな咳をひとつ落とすと、ナイフをしっかりと握った。

 少女はまだ、こちらの出方を伺っている。少女の瞳は、相手を仕留める転機を、虎視眈々と狙う獣のそれで。


(さあ、どう動く、ロベリア)


 緊張感の走る沈黙の中、ルディはじっと、少女が動くのを待った。2対1とはいえ、ルディは戦闘経験など無いに等しく、頼みのアイザックは手負だ。


 夜闇に響いた、夜鷹の鳴き声が合図となったか。 

 ルディが、袖口に隠し持ったナイフを手にしたと同時に、少女は駆け出した。


 ルディとアイザック。どちらに少女は襲いかかるのか。普通ならば、武器を持っていない様に見えるルディだ。抵抗する術を知らぬ者を殺すなど、彼女にとっては造作もないことだろう。アイザックもそれをよくわかっているのか、彼はしきりにルディの方を気にしている。


 少女は壁を勢いよく蹴って、彼らの背後に回り込んだ。明確な殺意を込めた少女の瞳は、真っ赤な閃光のようだ。


(ロベリアの狙いは────)


 瞬きの間に、少女の刃は彼の喉笛を捉えていた。


 迷うことなく、


 予想外の少女の攻撃に、アイザックがナイフを構える時間など無かった。

 瞳が大きく見開かれる。少女の刃が肌を裂く寸前。ルディは少女の攻撃を、真正面から受け止めた。


 少女は、ひどく狼狽した様子でルディを睨んだ。

 目にも止まらぬ、不意をついた攻撃だ。咄嗟の反応では、少女の攻撃を受け止めることはできない。


 彼が、少女の動きを完全に読んでいなければ、不可能なのだ。


 少女は悔しげに舌打ちをすると、また、彼らから距離を取った。

 すぐに飛びかかってくることはしない。 じりじりと、少女は後ずさった。


「まだ、続けるか?」


 荒い呼吸をする少女に、ルディは静かに言った。少女だけではない。隣にいたアイザックすらも威圧する、静かな問いだった。


 先ほどのルディとの攻防で、少女は自分の行動が読まれていることを悟っただろう。 それに、続け様の交戦に少女はひどく疲弊していた。


「君は賢い。この戦闘を続ける無意味さを、理解しているだろう?」


 少女は何も言わず、こちらを睨むだけ。しかし、彼女の纏う雰囲気から、殺意は消えかけていた。一歩、少女に近づく。


 さっと身構える少女に、ルディは言った。


「今なら、まだ戻れる」


 その言葉に、少女は目を見開いた。殺人鬼の面は剥がれ落ち、壊れてしまいそうな瞳を揺らしている。


 一瞬、泣きそうな顔をした少女は、さっと踵を返すと路地の奥へと消えていった。


 足音が完全に消えてからも、ルディはその場から動けずにいた。

 過度な緊張から解放されたからか、思考に靄がかかった様で。


 そんな彼を現実に引き戻したのは、どさりと何かが崩れ落ちる音だった。

 慌てて、音が聞こえた方を振り返る。そこには、力なく地面に倒れたアイザックの姿があった。


「ザック……!!」


 彼の元に、慌てて駆け寄る。反応はない。どうやら、気を失っているようだ。


「君も、張り詰めた糸が切れてしまったかな」


 冗談っぽく笑いながら、ルディは首の傷に触らぬよう、慎重に彼を背負った。


 ゆっくりと立ちあがろうとした、その時。


(これは……?)


 彼の目に飛び込んできたのは、地面についた、不自然なだった。

 暗い中で、目を凝らす。 赤黒い────どこか見覚えのあるその色に、ルディは目を細めた。


(ただ、今は彼が最優先だ)


 わずかな疑念を残し、彼らは路地を後にした。

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