対峙
ランタンの淡い灯りを頼りに、アイザックは一歩一歩、路地の奥へと進んでいった。暗い路地には、自分の足音だけが響いている。
不自然なほどに、路地は静かで、気配一つしなかった。
(妙だな……。どこかに潜んでいるとしても、静かすぎる)
いつ、どこから何が飛び出してきてもいいように。アイザックは、ベルトからナイフを取り出し、構えた。 銃はまだ、しまったままだ。
調査員は、容疑者に向けて発砲する権利を認められている。
襲いかかってきた犯人を、撃ち殺すこともできる。たとえそれが、犯人でなくても。
罪のない人間を撃ち殺しても、調査員は無実なのだ。
(この銃は……守るためにしか、使わない)
彼が唯一、この銃を使った時。それは、闇市でルディを守った、あの一度だけだった。
ナイフの柄を握る、冷たい感覚が手のひらに広がる。 ランタンの炎を映す銀の刀身が、闇夜に瞬いた。
それから、どのくらい進んだだろうか。
もう少しで、華が残されていた場所に辿り着く、というあたりで、アイザックは足を止めた。
嫌な予感が突然に、脳裏をよぎったのだ。
ロベリアの血の華。それは路地の最奥、開けた場所に咲き誇っていた。
一度入れば抜けられぬ、戻ることしか許さない、袋小路に。
(まずいな。誘導されていたか……)
アイザックは小さく舌打ちをすると、素早く壁に背中を寄せた。
死角を減らし、迎え撃つ。それに最適な体制をとりながら、彼はじっと息を潜めた。
アイザックを袋小路に追い込むことが狙いなら、もう背後は取られているだろう。今来た道を戻るのは、悪手だ。
アイザックはランタンを地面に置くと、透き通る翡翠で闇を睨んだ。
極限の緊張の中、必死で気配を探る。が、気配も音も何もない闇では、どこから襲撃されるか、見当もつかなかった。
(くそっ……。どうなっているんだ……!)
翡翠が、焦りと憤りで揺れた。 それほど、この状況は異常なものだった。
路地に潜む組織など、その大半が知識も技術も持たぬ者の集まりだ。潜伏も、襲撃も、それは付け焼き刃のものに過ぎない。
しかし、今は。
存在を悟らせないほど、気配を完全に消しているのだ。 人間が、簡単にできる芸等ではない。
それに、少女の傷。路地から飛び出し、小さな少女の腕を掻き切ったのなら。
あんなにも、綺麗な傷にはならない。
(そもそも、なぜ少女を生かしておいた?)
路地に生きる者は、闇の中で生きる者。
人の目から逃れて生きる者たちが、意味もなく人を切りつけ、ましてや目撃者を放置するなどあり得ないのだ。
何かが、おかしい。
まるで、全て計算された
少女の瞳が。獣の光を讃える瞳が、脳裏に浮かんだ。
あの時、彼女は何を見ていたのだろうか。
焦ることも、怖がることもしない瞳で、何を。
(あの子は、一体────)
その時だ。夜の沈黙を破り、路地の中に一つ、声が響いた。
「アイザック……!」
ハッとして、声のした方へと向き直る。 路地の入り口────ランタンでぼんやりと照らされる通路を見つめる。
確かに今、声がした。自分の名を呼ぶ、声が。
声の主を確かめるように、アイザックがランタンを掴んだ、その瞬間。
「っ……!!」
背後から迫る凄まじい殺意に、彼は勢いよく振り返った。
視界が赤く染まったと同時に、ランタンの硝子が砕ける音と、金属同士がぶつかり合う音が響く。
殺意を帯びた影は、素早く彼の前から飛び退くと、闇の中にその姿を隠した。
「なんだ……!」
灯りは消えた。何も見えない。
そんな中で、アイザックは目の前にいる何かと、確かに対峙した。
闇の中からは、明確な殺意を感じる。また、いつ飛び出してくるかわからない。
アイザックは、壊れたランタンを地面に投げ捨て、ナイフを構えた。
数秒の沈黙。殺意と威厳のぶつかり合いの末、影は再び、彼に飛びかかった。
(早いっ……!!)
一歩、後ずさる。影の間から一瞬だけ覗く銀の閃光を、アイザックは刀身で受け止めた。
激しい音と同時に、手がビリビリと痺れる。互いのナイフが、一歩も譲らぬとせめぎ合う。彼は唇を噛み、思い切りナイフを弾いた。
拮抗していた力が、一気に弾ける。影の体が揺らぎ、半ば転がるように後退した。
上がる息を整えながら、アイザックは震える右手と、ナイフに目をやった。
(軽い……)
いくら有手が勢いよく飛びかかってきたとはいえ、並の大人であれば、あんな風に吹き飛ぶなんてことはない。
よろけるか、良くて後ずさる程度。隙を作るための行動で、あれほどの反動を受けるはずがない。それこそ、相手が小さな子供でもなければ、ここまで重い攻撃にはならない。
そう、影の正体が、小さな子供でない限り。
何かが、頭の中で繋がった気がして、アイザックはゆっくりと影に視先を戻した。 荒い呼吸を繰り返す影の足元には、水溜りのように濡羽色が広がっている。
彼はナイフと────銃に手をかけながら、一歩一歩、影へ近づいた。
目が慣れてきたのか、影の姿がゆっくりと見え始める。
服の間から覗く細い手足と、右手にしっかりと握られたナイフ。そして、その瞳。
獣のように、こちらを睨みつける双眸は、息を呑むほどの赤。
言葉を失うアイザックを他所に、影は立ちあがった。髪を羽根のように纏った左腕には、紛れもない。
少し前、少女に巻いてやった止血帯が、嘲笑うかのようにはためいていた。
「何故……君が……」
影────いや、少女は答えない。 素早くナイフを構えた、と同時に、少女は勢いよく地面を蹴り、駆け出した。
目にも止まらぬとは、こういう事を言うのだろうか。
瞬きの間に、ナイフの切先は、アイザックの喉笛を捉えていた。
咄嗟に身を捩り、すんでのところで少女の攻撃を躱す。刃が掠ったのか、頬からは血が流れていた。
荒く息をしながら、少女に向き直る。疲れた様子一つ見せぬ少女は、ただ一点。刃物のような視線で、彼の喉を見ていた。
その様子を見て、アイザックは背筋が凍るのを感じた。
頭に浮かぶ、抵抗した痕跡もなく、恐怖と驚愕を貼り付けて死んだ、人々の姿。 首を掻き切られ、悲鳴をあげる間もなく死んだ、人々の姿が。
全てのことが、繋がっていく。 記憶の中の死体と、目の前の少女と。焼けついた赤と、この路地と。そして、人を殺す事を厭わない、鋭い瞳。
(まさか、この子が────)
信じたくはなかった。だが、あまりにも、あまりにも全てが、揃いすぎていた。
目の前にいる少女が、ロベリアだと言う確証が。
「君は、ロベリア───」
言い終わるより先に、銀の閃光が彼を襲った。
素早い攻撃を、何とかナイフでいなす。 しかし、これが長く持たないことを、彼は悟っていた。
(一瞬でいい。隙をつくれれば……!)
相手はまだ力のない子供だ。少女の間合いにさえ入れれば、押さえつけられる。
彼はそう確信し、動いた。素早さでは少女に敵わない。簡単に避けられて、終わりだろう。
腰に付いた、銃に手をかける。その動きに、迷いはない。
もちろん、少女に銃口を向けるつもりなど、一つも無かった。
─────威嚇射撃。
突然の銃声で、少女の予想外の事態を起こすことが、彼の目的だった。
一気に、少女との距離を詰める。驚いたように瞳を震わせると、少女は近くの壁を蹴り、後ろへ飛び退いた。
これこそ、彼の狙いだった。少女との距離を作ることで、射撃までの時間を稼ぐ。少女は再び、体勢を整え飛びかからんとしている。
(距離は充分。今しかない……!)
流れるように、黒光りする銃口を闇に向けた。少女が勢い良く駆げ出す。閃光が目の端で瞬いた、と同時に、アイザックは引き金に指をかけると、それを押し込んだ。
爆ぜるような銃声と、火花を纏う銃弾が、新月の夜に放たれる。アイザックは少女の方へと、素早く手を伸ばした。怯んだ少女は、目の前にいる─────はずだった。
少女が、居ない。そう思ったと同時に、彼の視界が反転した。
「うぁっ……!」
背中が地に叩きつけられ、痛みで声をあげる。何が起こったかすら分からぬアイザックの首に、ナイフの切っ先が触れた。
声にならない悲嗚が漏れる。咄嗟に体を動かそうとすると、ナイフが首に浅く押し当てられ、じわりと血が滲んだ。
「動かないで。抵抗したら、今すぐ殺す」
少女の瞳が、アイザックの顔をじっと覗き込む。酷く冷たい瞳に、翡翠が飲み込まれていく。
「武器を捨てて。全て」
有無を言わさぬ声に、アイザックは大人しく従った。ナイフと銃を、手が届かない場所まで放り投げる。
少女の顔を見れば、息が止まるような殺意と狂気が、そして。触れたら壊れそうな脆さが、瞳から放たれている。 その異様な少女の様子を見、彼は明確に、死期を悟った。
少女は、銃声に怯むことなどなかった。それどころか、銃を打つ動作を1つの“隙”として見ていたのだ。
(始めから……)
勝ち目など、なかったのでは無いか。そんな思いが、頭をよぎる。
小さな体で、アイザックを押さえつけながら、少女はただただ、じっとこちらを見つめていた。酷く、冷たい瞳だ。
本能的な恐怖が、全身を駆け巡る。指先は冷え、小さく震えている。
それでも彼は、その怯えを顔に出すことは無かった。 翡翠の奥には、眩しにほどの誇りが宿っている。
少女は、アイザックが怯えている事に気がついているだろう。それでも彼は、最後まで。自身が憧れた、 “調査員”で在りかったのだ。
彼は、震える唇をゆっくりと動かす。そして、眼前の赤を睨みつけた。
「ここで、俺が死んでも─────」
少女の表情は、変わらない。ただ、彼の命の終わりを見つめているようで。
「お前を追う者は、潰えない。俺を殺した程度で、逃げ切れると思うな」
誇り高き狼の、最後の咆哮。それを静かに受け止めた少女は、笑った。
貼り付けた、殺人鬼の笑みではない。年相応の笑みを浮かべた少女は、ゆっくりと、ナイフを持つ手に力を入れた。
嫌に冷静な思考は、首に触れるナイフの冷たさを、鮮明に感じさせて。
アイザックは、小さく息を吐くと、ゆっくりと目を閉じた。全てを受け入れた獣の、静かな覚悟を讃えるように、少女は告げた。
「アイザック。あなたは最後まで、誇り高くあったわ」
新月の夜。彼は最後に、月の輝きを見た気がした。
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