罠
腕を庇うようにしながら、目に涙を浮かべる少女の前に、アイザックはしゃがみ込んだ。
「もう大丈夫だ。安心してくれ」
焦りで手が震える。それを隠すように、彼は微笑んでみせた。
「傷を見せて」
アイザックが手を差し出すと、少女は恐る恐る、傷を負った腕を差し出した。
しゃくりあげて泣いている表情とは裏腹に、その手はひどく落ち着いているように見えた。
(緊張による冷えも、発汗もない……。パニックで感情が追いついていないのか……?)
小さな違和感を感じながらも、アイザックはランタンを地面に置くと、傷口を近づけた。
出血はひどいが、見た目ほど深い傷ではない。主要な血管を傷つけることもない────不自然なほどに綺麗な傷だった。
「よかった。浅い傷だ。止血さえすれば、問題ない」
この時、少女の瞳をしっかりと覗き込んだアイザックは、思わず息を飲んだ。
見ているこちらを刺すような、鋭い赤。
(忌み子……!)
初めて、気がついた。それと同時に、少女の体に無数の傷があることも。
(迫害、か)
年端もない少女が、こんな夜中────ましてや新月の夜に出歩くなど、普通はありえない。 忌み子である少女は、どこかから追いやられてきたのだろう。
(今回の襲撃も、忌み子を狙った……)
そんな暗い考えを振り払い、彼は外套の裏から、止血帯を取り出した。
腕に止血帯を巻く間も、少女は小さく啜り泣く声を上げるだけで、震えることも、瞳に怯えを見せることもなかった。
やはり、何かが引っ掛かる。微かな疑念を持ったまま、彼は少女に問うた。
「君が襲われた時のこと、詳しく教えてくれ。無理のない程度で構わない」
その時、少女は初めて瞳を揺らしてみせた。
暗い闇の中に、一点の好機を見たかのような。
獲物に飛びかかる寸前の獣のような、どこか狂気じみた感情で。
ぞくりとするような光を宿した瞳のままで、少女は言った。
「よく、見えなかったのだけど……。この路地を通った瞬間に、誰かが飛びかかってきて。そこからは、あまり覚えていないの。腕を切られて……それで……路地の奥に……」
途切れ途切れに、泣きそうな声で語る少女をそっと宥めるように、アイザックは美しい濡れ羽色の髪を、そっと撫でてやった。
「ありがとう。もう、十分だ」
そう言うと、アイザックは外套を脱ぎ、少女の体にかけた。
背丈よりも少し長い外套は、少女の体をすっぽりと包み込んでしまう。
「そのまま、ここにいてくれるかい?君を怖い目に合わせた奴は、すぐに捕まえる」
外套を握りしめ、不安そうに頷く少女に、アイザックは笑いかけた。
「大丈夫。その白があれば、君は安全だ」
こくりと頷く少女を背に、アイザックは路地へと足を踏み入れた。
ランタンを片手で持ちながら、もう片方で武器に手をやる。
腰のベルトにつけられた銃と小さなナイフは、暗闇から彼を守る唯一のものだ。
(必ず、この事件に終止符を)
緊張と、焦りと、少しの高揚感。そんな感情を抱えながら、アイザックは少しずつ、路地の奥へと進んだ。
この時、彼は少女に感じた微かな違和感を、すっかり忘れてしまっていた。
それを、忘れていなければ。少女への警戒を、解かなければ。
アイザックは、気が付けていたのかもしれない。
少女の悪意が、忍び寄っていることに。
*+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*
もつれる足を無理矢理動かしながら、ルディは駆けていた。慌てて掴んできたランタンの炎が、激しく揺れている。その炎に負けないほど、心臓は激しく打っている。
いくら冷静になろうとしても、頭を駆け巡る黒い予感が晴れぬほど、彼は焦っていた。
灯りが完全に消えた街。光は、窓の隙間から漏れ出す僅かなものと、手元のランタンの明かりのみ。
そんな、先も見えぬ暗闇の中で、アイザックからの手紙が、翡翠が、断片的に脳裏に浮かんだ。
彼の手紙には、以来の詳細だけでなく、見回りをする路地の全てが書かれていた。
白蛇の屋敷の近くと言えば、この街の中でも富裕層が多い場所だ。 規則正しく並ぶ、美しい街並みは、思わず目を見はるものがある。
しかし、そんな美しさの裏で、闇は蠢く。
増え続ける人と、建物。そのせいもあって、この街には多くの路地が生まれてしまった。
迷路のように複雑に絡み合う路地と路地は、今や黒い物を抱える輩の温床で。
表向きから見れば、アイザックへの依頼は、白蛇が路地の問題を解決すべく、動いたのだと思うだろう。
しかし。 今回彼に任された路地は、10個ほど。
街に存在にしている路地全体を見れば、ひと握りにも満たない量だ。
その僅かな中に、ロベリアが事件を起こした全ての現場が含まれていた。
(根底に白蛇がいる依頼で、こんな事)
何かを、感じずにはいられなかった。
しかし、今日何かが起こるという確証は、何一つとしてない。
新月という不吉な夜の、酷い胸騒ぎに身を任せるように、彼は走っていた。
(何も無くても、せめて、ザックとは話をしなければ)
アイザックが見回りをしているであろう路地を、1つずつ回ればいい。
そう思いながらも、足はロベリアの事件現場へと向かってしまっていた。
そして、そのうちの一つ。アクシャとロベリアが言葉を交わした、満月の事件が起きた路地に差し掛かる、という時だ。
(これは────── )
道の隅に残る、無数の血の跡。 まるで雨のひとしずくのような、丸い形を残した跡だ。
目の前すらもまともに見えない闇の中で、それはひどく、鮮烈な、赤色で。
今まで感じたことのないような恐怖が、全身を駆け巡った。
何かが起きた。いや、起こっている。
ルディは小さく息を吐くと、血の跡を見つめた。やはり、暗闇とは不釣り合いな赤。
彼は手を伸ばすと、そっと指で跡を拭った。
乾いている。が、それは軽く拭うだけでぱらぱらと解けた。 細かくなったそれは、地面から彼の指先へ。
指に着いた物は、地面と違う錆のような赤銅色。
ルディは指先からそれを払うと、また路地に視線を移した。
完全に血液が乾いてしまえば、簡単には落ちない。
これはアイザックから聞いた話だが、ロベリアの華を消すのにも相当時間がかかったようだ。
(この跡が残されてから、それほど時間は経っていない……!)
何かを引きずった跡とも、獣同士の争いの後とも違う。静止した場所から、滴り落ちたかのような。
ひどく不自然で、作為的なものだ。不自然な、血の跡。
彼の頭に浮かんだのは、鮮やかな血の華で。
(
確証など一つもない。しかし、何かが、ロベリアの華と、この血痕を結びつけようとしている。
背中を、冷たい汗が伝った。黒い予感は、増幅するばかりだ。
(落ち着け……。まだ、彼女との関係を疑うには早すぎる……)
ルディは小さく息を吐くと、少し先にある路地の入り口に、視線を移した。
今は、何も見えない。それが、余計に彼の不安を煽った。
震える足で、立ち上がる。握りしめる手に力を込めると、ルディは路地へと歩き始めた。
入り口が完全に見えるほど、近づいた頃。
淡い炎が、路地の前に落ちた何かを照らし出した。
(何だ……?布か……?)
警戒は怠らず、ルディはその何かの前にしゃがみ込むと、ランタンを近づけた。
その刹那、ルディは声にならない悲鳴を漏らした。
視界が激しく揺らぐ。脱力した手から、ランタンが滑り落ち、足元に転がった。
ランタンの炎は、もう必要なかった。震える手で、何かを掴んで手繰り寄せる。
一瞬で、彼の脳裏に焼きついた色が、思考を埋め尽くす。
眩しいほどの純白と、きらり瞬く
この街で、この南の地で、たった1人。
アイザックしか持つことを許されない、白い外套が、路地の前に落ちていた。
彼が、肌身離さず身につける外套だ。彼が持つ誇りと、理想を編み込んだそれが、ルディの手にある。
それは、彼の身に何かが起こったことを雄弁に語っていた。
ぐらりと視界が揺らぐような感覚の中、ルディは路地に目をやった。 暗い暗い路地は、何時ぞやの深淵を思い起こさせる。
巨大な獣が口を開けて、獲物が入ってくるのを今か今かと待っているような。
不自然な血の跡と、外套と。新月と、満月の路地と。
バラバラだった点と点が、線で繋がった。
アイザックはロベリアと接触した。外套が残されているということは、もう、既に────。
体が、動いた。頭の中で、警笛がけたたましく鳴り響く。
意思、というよりは本能に近い何かが、危険だと、彼を立ち止まらせようとしている。
それでも、ルディはひたすらに、路地を駆けた。
彼を動かすのもまた、本能だろうか。
(どんな危険が待っていようが、構わない……!)
ただ、彼が無事ならば。迷路のような路地を、ひたすらに走る。
焦りと恐怖で渦巻く思考の中、叫んだ。
「……アイザック!!」
小さく震えるルディの声は、暗闇の奥の奥。彼を待つ深淵で、響いた。
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