新月と狼

新月

 昨夜と同じ景色の中に、ふわりと、少女は舞い降りた。羽のような黒髪が、少女の体を追いかける。


 赤い瞳に映る街の、灯がひとつづつ消えていく。 新月に向かう時と共に、少女の胸からも、感情が消えるようなで。 幼さの残る顔は、瞬きの間に、ひやりとするほどの殺意を纏うものへと変わった。


 標的であるアイザックは、いつも殺してきた貴族とは違う。

 多くの事件と関わる中で、彼は命を守る術を得たはずだ。少女の様な、命を刈り取る悪意から。


(生半可な不意打ちじゃ、きっと防がれる)


 幼い少女が、何人もの人を殺めることができた理由。それは、相手が身を守る術など知らぬ貴族だったことと、油断しきった相手への不意打ちだったことが大きい。


 しかし、常に警戒を怠らないアイザックにとって、幼い少女の攻撃を躱すことなど容易いだろう。 一瞬でも、彼に警戒心を持たれてしまえば。


『失敗』。その二文字が頭を駆け巡り、少女はナイフを強く握った。


 孤高な、誇り高い彼の隙。 少女は目を瞑ると、深く息を吐いた。

 少女を照らす街灯が、ぱっと消える。 赤く染まっていた空は、いつに間にか黒に塗り替えられていて。


 瞳が、開く。 深紅の瞳を小さく揺らすと、少女は勢いよく、腕にナイフを突き立てた。


「っ……!」


 焼けるような感覚の後に、鋭い痛み。少女は歯を食いしばり、ナイフを引き抜いた。 

 ごく浅いが、出血は多くなるように切った傷から、銀の刀身を伝って地面に血が滴る。 


 これ以上の痕跡を残さないように、少女はナイフをまた懐に隠し、傷口を服に押し当てた。 灰の生地に、赤い染みがじわりと広がっていく。


 自然と涙が溢れるような痛みの中、少女は笑った。


 彼の隙。それは、優しさだ。 いくら頭が警笛を鳴らそうが、彼は手を差し伸べてしまうのだろう。

 たとえ、それが忌み子だろうと。


 彼の優しさにつけ込むことに、痛みを覚えるような迷いは、もう無い。


 真っ赤な血のヴェールをまとい、被害者へと成り変わった少女は、痛みに揺れる瞳をぎゅっと瞑った。


(これで、合っているはずよ)


 少女は痛みに顔を歪ませながら、路地の入り口まで歩いた。

 自然に流れる涙は、少女をさらにか弱く見せる。

 冷たい瞳は、真っ直ぐ、アイザックのやってくる先を見ていた。


 痛みに慣れてきた頃、彼女の耳に、足音が届いた。

 いつものように、足音を数える。



 ───── 5つ、4つ、3つ。


 しかし、少女が0ゼロと数える前に、足音がひどく乱れた。

 慌てたような足音と、荒い息使いが、少女に向かってくる。


 少女の前に現れた翡翠は、不安と動揺で埋め尽くされていて。


「……!!大夫丈か!?何があった……!」


 肩で息をする彼の動きに合わせ、激しく揺れるランタンの火を見ながら、少女は泣きそうな顔で叫んだ。


「助けてっ……!この奥にいる人に、やられたんです! 」


 彼女の狩場である路地を指差しながら、少女は口元に、恐ろしい笑みを浮かべる。


 少女のことを疑いもせず、路地を睨む彼の横顔を見つめ、彼女は思わずため息を漏らした。


 まばゆい光を放つ誇りと、それを覆うような暗い恐怖。

 彼は、自分の中で暴れまわる恐怖を、誇りで隠して生きてきたのだ。


 それは、生半可な心でできる物ではない。 それをやってのけるほど、彼は強く、同時に脆いのだ。


(罅の入った硝子がらすなら────)


 簡単に、粉々になる。 必要なのは、少しのきっかけだ。


 少女は、彼を欺いたこの瞬間が、そのきっかけになったと確信した。


(あとは、叩くだけ)


 2人の、運命が激しく動き始めたこの瞬間。真っ白な、しかし翡翠の光を持つ鳩が、赤い空を切り裂いた。



 *+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*



 背中に、恐ろしい何かを感じた気がして、ルディは振り返った。

 ジャケットの代わりに羽織られた、白茶ベージュのケープがふわりと揺れる。尾のようにも、羽のようにも見える、柔らかな毛糸で編まれたそれは、彼の浮世離れた風貌を引き立てている。


 そんな彼の目に映る空はちょうど黄昏時。赤い夕日と夜の境が、延々と続いていた。


 今夜は新月だ。いつもは多くの人で賑わっている大通りの屋台も、今日はもう店仕舞いを始めている。


 ルディの後ろに広がるのは、そんな平和な日常で。先程感じた、恐ろしい何かとは不釣り合いなその風景に、ルディは瞳を細めた。


 そんな彼を嘲笑うかの様に、風が吹き抜ける。昼間にはかろうじて残っている夏の匂いも、今は感じられない。季節の変わりを告げるようなつめたい風に、ルディはケープをしっかりと羽織り直した。


 いくらアイザックのことが気がかりでも、ずっと呆けている訳にはいかない。

 彼は胸に燻る不安をなくすため、ロベリアの調査の合間に、小さな依頼をこなしていくことにした。


 紛失物や、行方不明の猫を探したり、はたまた浮気調査(彼自身、この類の依頼はあまり好きではないが…… )まで。そういう事をしていくうちに、ルディは探偵としての調子を、少しずつ取り戻しているのを感じていた。


 依頼の報酬と、土産で重くなった鞄を抱える彼の足どりは、以前よりずっと軽い。

 しかし、瞳の奥に眠る憂いは、どうやっても消えなかった。


(新月……。何か、不吉なことが起きなければいいが…… )


 一抹の不安を抱えながら、ルディは事務所への道を急いだ。 一度日が落ちてしまえば、瞬きの間に夜が来る。 新月には、街灯の灯りが全て落とされてしまうので、暗くなる前に、店中の蝋燭をつけなければ。 そんなことを考えながら、ルディは歩を早めた。


 海は、消えゆく太陽を惜しむように、目一杯赤く輝いている。

 日が短くなっているのもあってか、彼が事務所に着いたのは、空と海のほとんどが光を失った頃だった。


 慌てて、事務所の鍵を開ける。夜明けのような、青藍の硝子の羽飾りが、彼の動きに合わせてゆっくりと揺れた。


 軽い音を立て、鍵が開く。金属の重い光を放つドアに、ルディが手をかけた、その時だった。

 白い影が、頭上を横切る。思わず顔を上げた彼が見たのは、おぼつかない様子で飛ぶ、一羽の鳩。

 伝書鳩なのだろう。その足には、手紙を入れる木の筒と、翡翠の硝子細工が付けられている。


 ルディのものと同じ、羽の形をしたそれに、彼は息を飲んだ。


(ザックの、鳩……!)


 何度か、この鳩から手紙を受け取ったことがある。


 翡翠の飾りがルディを飲み込むように、記憶を呼び起こしていく。


 鳩を彼にを返す時、硝子細工を着けてやったら、アイザックはとても気に入った様子だったこと。

 そして、少しの間手紙を送らなければ、道を忘れてしまうことも。


 ルディは迷わず、鳩に向けて指笛を吹いた。

 抑揚をつけて奏でると、鳩は真っ直ぐ、ルディの方へと降りてきた。 腕を差し出してやれば、しなやかな脚がしっかりとドレスシャツを掴む。


 低い声で鳩を宥めながら、ルディは事務所の扉をくぐった。

 鳩が飛び立たぬよう気をつけながら、ルディは手近な蝋燭に火をつけていく。

 火に驚いたのか、羽を羽ばたかせる鳩を宥め、その頭をそっと撫でてやる。


「ザックが鳩を飛ばすのも久しぶりだ。また、迷ってしまったんだね。誰に手紙を届けに来たんだい?」


 気丈に振る舞いながらも、蝋燭を灯す彼の手は震えていた。

 何故、彼は鳩を飛ばしたのか。


 手紙の相手が誰であれ、電話が発展したこの南の地で、伝書鳩を使う理由など、無かった。

 何より、アイザック自身が、動物の扱いを酷く苦手としているのだ。


『こいつとも長くなるのに、未だに俺が触ろうとすると啄くんだ』


 と、鳩を見ながら困ったように言っていたアイザックの顔が、脳裏に浮かぶ。


(鳩を使ったということには、何か理由が……)


 焦る気持ちを抑えながら、ルディは手紙の入った筒を鳩から受け取った。役目を終えた鳩は、いつもアイザックを啄くとは思えないほど、穏やかな様子で窓際に止まる。


 宛先が書かれているはずの筒には、それらしきものは何ない。


 代わりに、見慣れた字で一言。


『夜明けへ』


 ルディはその文字を見て、この手紙が自分に宛てたものだと確信した。 夜明けの探偵。その名を彼につけたのは、アイザックだ。


 震える手で、手紙の文字を目で追う。


 羽繕いをする度、鳩の翡翠がキラリと瞬き、それを目の端に、彼は手紙を読んだ。


 それは、いつも他愛のない話から始まる彼の手紙とは、似ても似つかぬもので。

 短く、断片的な。しかし、伝えるべきことは全て書かれたその手紙を見て、ルディは手に力を込めた。


(夜の見回り……?)


 彼が受けた依頼の詳細。 その内容に違和感を覚えながら、彼は手紙の最後、依頼主の名前に目をやった。


 その刹那、ルディは何かに殴られたかのような、重い衝撃を頭に感じた。


『依頼主は、白蛇、ブランシュ・ヴァーボラ』


 紛れもないアイザックの文字で、そう書かれた手紙を、震える瞳で見つめる。


 アイザックのことを、白蛇は手の内に収める。

 白蛇の意思で、何時でも、誰も知らない内に、その牙で噛み裂ける場所に、アイザックはいるのだ。


 彼の想定していた最悪が、今、アイザックの身に起こっている。


 まずい。そう思うより前に、ルディは駆け出していた。彼の動きに驚いて、鳩は激しく飛び回る。

 

静寂に包まれた事務所の中に、真っ白な羽がはらりと舞った。




 

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