狼煙
暗い。見慣れたはずの夜の景色を眺めながら、少女はそんな事を感じていた。
月はすっかり細くなり、その美しい黄金の全てが夜に飲まれかけている。
(もうすぐ新月なのね……)
新月。それな少女をひどく不安にさせる。 少女はいつも、夜に溶け込むように、空気に気配を溶かすように生きている。
そんな少女の輪郭を、現実に引き留めているのが、月光なのだ。
新月は、彼女の存在を消し去ってしまうようで。
ひどく頼りない光の中、少女は建物の奥から覗く
淡い月光でも、海面に反射すればまるで
波の動きに合わせて、少女の紅はゆらりと揺れた。
主から、“白い光”の正体である男を殺せと命じられたから、今日で3日が経つ。
主はひどく心配性だ。そろそろ、『早く殺せ』と言う旨の手紙が届くだろう。
明日。勝負は、明日の夜だ。
少女は隠し持ったナイフをぎゅっと握った。手に馴染む感覚が心地いい。
何人もの血を吸ったこの凶器が、もはや体の一部になってしまったことを悟り、少女は夜の中に乾いた笑いを漏らす。
溶けた笑いを追いかけるように、遠くから聞きなれた足音がし、少と身をかがめた。
足音を聞きながら、少女はゆっくりと、数をかぞえる。
───── 5つ、4つ、3つ、2つ、1つ。
数字が
淡いランタンの光と、それを反射する純白の外套。夜より明るく、しかし夜明けより暗い藍の髪を持つ彼こそが、少女が見た“白い光”だった。
主から彼の情報を得てから3日間。少女は夜の間ずっと、路地の近くの屋根から彼を監視し続けた。万に一つ、彼を見失なわぬように。白蛇の目から、逃れられぬように。 彼が見回りにくる時間や、道順はもちろん。彼の足音や息遣いまで、少女は記憶している。
少女は今、彼の全てを握っていると言っても、過言ではなかった。
ランタンの明かりで琥珀色にも見える彼の瞳が、一定の間隔で辺りを見回す。
普通、3日間何も起こらぬ調査をしていれば、段々といい加減なものになるだろう。
しかし、彼の息遣いは常に緊張感を孕んでいた。はじめは、彼が調査に不慣れなのかとも思ったが、彼は調査貞総隊長だ。こんな依頼よりも、ずっと危険な事件の最前線に立ってきた。主から見せられた記録にもあった通り、彼は数多の死線を潜り抜けてきたのだ。
ならば、何故。何がそこまで、彼を緊張させるのか。
それは─────。
“誇り”だった。
初めて彼の姿を見たとき、狼のような人だと、少女は感じた。
清潭な顔つきと、その奥に眠る激情と。そして、彼の瞳を生き生きと輝かせる、あふれんばかりの誇り。 人の上に立つ才がある。そう思わせる何かが、彼にはあった。
(嗚呼、本当に誇り高い人だわ)
煌びやかな宝石で自身を飾り、金の匂いを身に纏う貴族より、ずっと。
彼の宿す、誇りと微かな緊張は、ひどく美しかった。
しかし、そんな彼を見る度に、少女は微かな違和感を感じていた。
何かは分からない。が、彼の外套の純白が、記憶の中の白い光と、どこか結びつかないのだ。
あの時の光は、もっと自然な、見慣れたような白で。そんなことを考えていると、眼下のランタンが激しく揺れた。
はっとしてアイザックに視先を戻すと、彼は路地から飛び出してきた猫の頭をそっと撫でていた。 可愛らしい、小さな三毛猫だ。
猫はくすぐったそうに体をくねらせると、彼の手をすり抜けるようにして走り出す。
駆けていく猫を見つめる、あまりに透明な翡翠を見て、少女は悟った。
(あの人は、本当にこの仕事が好きなのね)
彼は、これからも多くの人間に必要とされるだろう。
立ち振る舞いや、雰囲気を見ただけで、少女はそれを鮮烈に感じた。
しかし、そんな彼を、彼の未来を。自分が、手折らなければいけない。
初めて、人を殺めた時のような、嫌な感覚が襲う。
標的の、家族のことや、失われる未来。そう言う事を考えては、ひどく辛くなっていた。
とっくに、そんな思いは捨て去ったはずなのに。少女は邪念を振り払うように頭を左右に振ると、再び彼に視線を落とした。
藍の狼は、相変わらず真剣そうに辺りを見回している。
そんな彼の名前を、少女は心の中で呟いた。
(アイザック……。素敵な名前)
自分に付けられた、
誇り高い彼にふさわしい名だ。 彼は、自分の名を恥じたことも、恨んだことも無いのだろう。
『─────。』
彼女の心に巣食う、あたたかい声が、名前を呼ぶ。それは、
あたたかさが、ささくれた心にひどく沁みる。痛い。ちくりと胸を刺す。
痛い、痛い。触られたくない場所に、あたたかさが刺さる。
少女は苦しげに息を吐くと、胸をぎゅっと握った。服の生地がくしゃりと乱れ、そのまま少し、後ずさる。手をついた場所の瓦が少し崩れ、ぱらぱらと音をたてて地面へ落ちた。
勘づかれてしまったかと思ったが、幸い彼には何も聞こえていなかった。
(明日──── )
全てを終わらせよう。少女は息を整え、彼を見据えた。 その
“白い光”を殺せ。主からの手紙に書かれていたのは、それだけではなかった。
『貴方への仕事は、きっとこれが最後になる』
白蛇が、自分を解放する。
それは自由か。はたまた死か。 しかし、生きるか死ぬかなど、少女にとって、さほど大きな差はなかった。
人を殺すのか、殺さなくていいのか。大切なのは、それだけ。
(ここから、真っ当な人間として…… )
何人も何人も、人を殺めた。血に手を染めた自分は、まだ引き返せるだろうか。
心の奥底で、願い続けた主からの解放。その喜びと同じくらい、主の手から離れる不安が、少女を縛っていた。
長い間、主という首輪で縛られてきた。主に教えこまれた
そんな恐ろしい思考の渦から這い上がり、少女は強く目を瞑った。
右手には、ひんやりとしたナイフの感覚がある。
(これで、本当に終わらせるわ。そして…… )
また、あたたかい声が騒ぐ。
『─────。─────。』
あたたかい。優しく、頭を撫でられるような、心地よさ。
(終わらせて、あたたかい場所に行くの)
『─────。』
少女はもう一度、強くナイフを握りしめると、あたたかさに身を任せるように踵を返し、夜の闇へと消えていった。
*+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*
真っ黒な何かが視界の端で動いたような気がして、アイザックは頭上にランタンを掲げた。 ランタンの揺れる炎にあわせて、影もゆらりと歪む。
静かで、暗い夜の中には、確かに何かがいた影の気配があった。
(また、猫でもいたか…… )
人よりも獣に近いその気配を気にしつつ、見回りに戻る。
3日間、見日りを続けたが、白蛇の言っていた“怪しい組織”の痕跡どころか、気配すら感じない。
この見回りに勘付いた組織が、もう逃げてしまったのではないか、とも考えた。しかし、白蛇直々の依頼だ。
彼女の期待や信頼を他所に、「何もありません、見つかりません」と帰るわけにはいかなかった。
ランタンの炎は、いつもよりずっと強く見える。月の細さを見る限り、明日は新月なのだろう。
(何かが起きるなら、明日か)
人ならざるものが目覚めると言われている、新月。
静寂と闇に包まれた街の中で、明るみに出られぬ輩は動き始めるのだ。
(明日はもう少し、気を引き締めた方が良さそうだ)
少しの緊張と、決意で揺れる心を整えるように、ランタンを持ち直す。
カラン、と軽い音を立て、炎とオイルが揺れた。
見回りも、もう折り返しだ。いくつかの曲がり角を超えた先。ぱっと視界が開けた場所に、見覚えのある華が咲いていた気がした。
彼の視界を一瞬にして埋め尽くす、赤。 死とは最も遠いような、生命に溢れた赤い華は、今でもアイザックの心にしっかりと根を張っている。
(ここで華を見たのも、随分と前な気がするな……)
白蛇から見回りをして欲しいと頼まれた路地のいくつかに、ロベリアの事件現場があった。そのうちの一つがこの、彼が初めて華を見た路地なのだ。
過去の記憶に、背を向けながらまた歩き出す。
足音と共鳴するように、夜鷹が高い声を上げる。
(確か……ルディがロベリアのことを知りたいと言った頃、ここで事件が起きたんだな)
ルディの、あの瞳が、蘇る。
彼の夜の瞳は、どこか白蛇の黄金と似ていた。
喰われる側では無い。獲物を、捕食する側の目なのだ。
(あいつは、どこまで)
ルディの言った通り、この依頼は少し異常と言っていい。 アイザックも、白蛇と話して初めて、彼の言うようなおかしさに気がついた。
では、何故。
彼が依頼を受けた、と言った時点で、ルディは気がついていたのだろうか。
(……どこまで、掴んでいる?)
ルディに対しての疑念などでは無い。しかし、彼に対する尊敬や、憧れの感情とも言い難い。
アイザックは、時折彼に、恐怖に近い感情を抱くのだ。 白蛇の瞳を見た時のような、自分の心が、全て見透かされているような、そんな。
(あいつが、もう真実を見ているなら)
アイザックの足取りは、先程よりも力強い。
翡翠の瞳は、暗い闇の先にある、明るい夜明けを見ているようで。
(あいつが、真実にたどり着くための道を切り開いてやろう)
ルディと共に、多くの事件に挑んだからこそ、彼は分かるのだ。
ルディが、この事件に並々ならぬ思いを抱えていることを。
きっと彼は、誰も気が付かぬうちに、事件の深層にいるのだろう。
そして、いつも彼は真実を前にして、笑う。
美しく、触れたら壊れそうな。しかし、恐ろしく、狂気に満ちた笑みを、彼は浮かべるのだ。
ルディと共に解決した、数々の事件が頭をよぎる。
危険な目にあったことも、2人で頭を抱えたこともあった。
それらの記憶は、アイザックにとって何にも変え難いもので。
(この依頼が、俺を誘き寄せる餌でも、食いついてやろうじゃないか)
喰いついて、餌を垂らす主の顔に、爪痕でも残してやろう。
アイザックは、夜空を睨むように見つめた。
その瞳は、彼の決意と、誇りを詰め込んだような美しい翡翠。
闇に飲まれる視界の端で、淡い月光の、月白が揺らいだ気がした。
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