依頼
張り詰めていた糸が切れたように、アイザックは大きく息を吐いた。
受話器が酷く重く感じ、嫌な汗が一筋、頬を伝う。
いつも冷静で、静寂を纏うルディの弱い部分を見てしまったようで、アイザックは乱暴に頭を掻きむしった。
(ルディ、本当に何があったんだ……?)
アイザックが依頼を受ける時、ルディは「気をつけろ」とか、「今回は少し危ないかもしれないね」とか、冗談めかして警告をしてくることはあったが、こんなにも。
こんなにも必死になって依頼を受けるな、と言ってきたことは、一度もなかった。
だからこそ、彼の胸にはルディの態度に対する戸惑いと同じくらい、恐怖があった。
こちらがヒヤリとするほどの、危険な調査を続けてきたルディが、あんな風に慌てる依頼だ。
本当に、無事では帰れないかもしれない。
そんな一粒の思いが、彼の中にはあった。
(断るべきなのか……。この依頼を……)
頭の中をたくさんの思考が巡る中、またひとつ、ベルが鳴った。
脳に直接響くようなその音に、アイザックは「勘弁してくれ……」とつぶやいた。
ゆっくりと息を吐き、重い腕を無理やり動かして、受話器を耳に当てた。
「こちらヴィエトル───」
そう言いかけて、アイザックはその電話の違和感に気がついた。
いつもある、ノイズがない。その静けさに、彼はハッとして、慌ててダイアルを回した。
いくつかの番号に針を合わせた後、それに応えるように、静寂の中から電子音が響く。
ツー、ツー、と、無機質な音がいくつか鳴った後、聞きなれたノイズが耳をくすぐった。
『こんにちは。アイザック。貴方が聡明で助かったわ』
柔らかく、しかし威厳を含んだ声に、アイザックは激しく打つ心臓を抑えながら答えた。
「とんでもございません、ヴァーボラ様」
電話の向こうから、囀りのような笑い声が響く。少し緩んだ空気に、アイザックはホッと胸を撫で下ろした。
『そんなに、かしこまらないでちょうだい。私は、貴方がすぐに信号に気がついてくれたこと、評価しているのよ』
信号───それは調査員と貴族をつなぐ糸。
信頼した者だけに、貴族の情報が渡らぬように。依頼主との会話を全て録音する調査員の電話でも、指定の数字を入力すれば、その記録が消えるように。
貴族の地位と、情報を徹底的に守り抜く。そのために、この信号は双方にとって、欠かせないものだった。
「褒められるようなことはしておりませんよ。しかし、私にはもったいないお言葉……感謝致します」
今までにも、こうして貴族と話したことはあった。
しかし、今回は。電話の向こうにいるのは、この南を統べる当主、白蛇こと、ブランシュ・ヴァーボラだった。
彼は一度だけ、総隊長という地位を得た時に、ブランシュに会ったことがあった。
静かで、ゆっくりとこちらを見据える様は、まさに白蛇。そんな威厳は、電話越しでもひしひしと感じられた。
『ところで……。前にお話しした、依頼の件なのだけれど』
依頼。分かってはいたが、アイザックはその言葉に、心臓を握られるような苦痛を感じた。
「依頼を受けるな」といった、ルディの声が蘇る。
最も信頼をおいている友人の言葉か。はたまた四大貴族の一角の言葉か。
その二つの間で、彼は激しく揺れていた。
そんな彼の頭に、白蛇の言葉がゆっくりと滑り込む。
『詳しいお話をしましょう。昼頃、貴方のところに使いを送るわ』
「……使い?」
思わずそう漏らしたアイザックに、ブランシュはまた、小さく笑う。
『最近、貴方はすごく頑張っているそうね。噂には聞いているもの。
貴方とは、久しく会っていないでしょう?だから、直接お話がしたいのよ』
その言葉に、彼は何かに殴られたような衝撃を感じた。
貴族が、自分の屋敷に彼を呼ぶ。
依頼の内容も、彼との繋がりも、彼女は一切漏らさない。
この行動が意味するのは、そういう事だった。
「……私のような、調査員の一端では、貴方様のお屋敷を汚してしまう」
動揺と、不安を押し殺しながら、アイザックは絞り出すようにして答えた。
『あら?そんなことは無いわ。貴方はこの南の地で、最も力のある調査員よ。それに……これは私からの招待でもあるの。来てくれるかしら?』
静かな、しかし否定を許さない彼女の声に、アイザックは小さく震えた。
揺れていた心が、覚悟を決めたように彼女を見据えた。
最初から、引き返せる依頼ではなかったのだ。
アイザックはきつく目を閉じ、ゆっくりと答えた。
「ヴァーボラ様のご招待とあらば……喜んで」
電話の向こうの空気が、フッっと緩むのを、彼は感じた。
静かな漣のような、柔らかな雰囲気を纏い、彼女は続ける。
『良かったわ。じゃあ、また。会えるのを楽しみにしているわ』
電話が終わってからしばらく、彼はひどい脱力感に襲われていた。
全身から何かが抜け落ちたかのような、神経がすり減るような感覚に、アイザックは力なく椅子に座り込んだ。
窓から差し込む日差しが、彼の藍色の髪を照らす。
深い海のようなその髪に、彼は指を滑らせた。
空を滑る鴎の姿を見つめながら、彼はまたひとつ大きくため息をつく。
それを嘲笑うかのように、軽快な囀りが大きく響いた。
またも激しく回る思考の渦に、彼は飲まれていた。
全ての疑問の、真意が見えるようで、見えない。そんなもどかしさが、彼の思考を乱していく。
─────こんな時、ルディなら。
数多の情報の中から、彼は常に、真実につながる一本の糸を見ている。
そんな力が、自分にもあったなら。
無意識でそんなことを考える自分に、アイザックはまた一段と深いため息をついた。
(この調子じゃ、ヴァーボラ様は一切の情報を外部に漏らさないつもりだ。
……依頼の内容も、依頼主も)
『助けられる人がいなくなる』。そういったルディの言葉が脳裏に蘇った。
今からでも、全てをルディに話そうか。
そんな考えが頭をよぎり、受話器に手を置く。
が、すぐに頭を横に振り、手を離した。
(もし、ルディに話してしまえば、本当に何かあった時、彼に痕跡を残してしまう……。彼にも、何か起こってしまったら……)
そうなれば、彼の元へ辿り着ける人物は、本当に誰もいなくなってしまう。
「俺は……どうしたら……」
終わりのない自分への問いかけに、アイザックは顔を覆った。
そんなことを延々と考えていると、1人の青年が、事務所の扉を開けた。
まだ夏の匂いの残る風を引き連れ、青年の
「お疲れ様です、先輩」
中性的な声で、彼の後輩であるノエルは軽く挨拶をした。
少し前に、西から配属されたノエルは、紳士的な対応と柔らかな風貌で、信頼を集めていた。しかし、そんなふわりとした雰囲気とは裏腹に、仕事に熱心にとり組む一面もあり、新人ながら、アイザックも一目置いていた。
「お疲れ、ノエル。……見回りはどうだった?」
外套を脱ぎながら、ノエルは困ったように笑う。
「いつも通りです。……先輩こそ、何かあったのでは?ずいぶん、疲れているように見えますけど……」
ノエルに言われ、アイザックはハッとした。周りに悟られてしまうほど、顔に出ていたなんて。 彼は小さく頭を左右に振ると、「なんでもないよ」と笑った。
少し不信そうに眉を顰めたノエルだったが、すぐに自分の席に座る。
事務所にはまた静寂が訪れ、ノエルの資料をめくる微かな音だけが響いていた。
そんな音を聞きながら、アイザックは半ば無意識で呟いた。
「誰にも悟られず、情報を渡す方法……」
「……どうしたんですか?もしかして、何かの事件が手詰まりとか……」
いつの間にか作業をやめ、こちらを見つめるノエルに、アイザックは苦笑した。ノエルはいつも、人の心に入り込むような言葉を投げてくる。
そんな彼の言葉に応えるように、アイザックは静かに言った。
「……絶対に漏らしてはいけない情報があったとする。その情報を、どうにかして誰かに伝えたい。そんなとき、お前ならどうする?」
突然の問いに、ノエルは少し驚いたように目を見開いた。が、すぐにその目を閉じ、じっと考えるように黙った。
「……俺がまだ小さい時、すごく仲が良かった友達と喧嘩をしました。もう絶交だ!というくらい、子供にしてはひどい喧嘩を。 しばらくして、俺はどうしても仲直りがしたくなりました。でも、謝るのは、ひどく恥ずかしかったんです。
そんなことを母に相談したら、『手紙を書きなさい』と、言われたんです」
ノエルはこそばゆそうに笑うと、続けた。
「西は、ここほど馬車や車が発達していなかったので、伝書鳩が多く使われていました。だから、俺は友達に伝書鳩を送ったんです。手紙って、当たり前ですけど送った人にしか届かない。伝書鳩なら、尚更です。
だから、俺ならその情報を、手紙で誰かに渡します」
その答えを聞いて、アイザックは渦巻いていた思考が晴れるのを感じた。
連絡手段が絶たれた時の為に、アイザックも一羽、鳩を持っている。 何度かルディの所に手紙を送らせたこともあるので、問題なくたどり着けるはずだ。
なぜ思いつかなかったのだろうか。そんなことを思いながら、アイザックはノエルに向き直った。
「ありがとう、良いことを聞いた」
「いえ。お役に立てて光栄です」
そんなやりとりをしながら、アイザックは意思を固めた。
(……とにかく、全てはヴァーボラ様にお会いしてからだ)
抜けるような蒼空を見つめるアイザックの耳に、使いがきたことを示す、馬の蹄の音が、微かに聞こえた。
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