影
星々がよく映える夜空。 その片隅で、星が赤く瞬いたように見え、アクシャは顔を上げた。
街灯の炎にかき消されそうなほど、小さくか細い三日月。
(本当に、新月が近いのね)
足元が不安になるほどの闇の中、アクシャは屋敷を真っ直ぐと見据え、歩き出す。
その赤色は、アクシャにあの視線を思い起こさせた。
屋敷の前で、ルディと話した時の、視線。
命を握られたような不安と、恐怖を与える視線だった。
(あの時、誰が見ていたの……?)
胸に残る一筋の不安を抱えながら、アクシャは屋敷の扉についたベルを鳴らした。
軋むような音をたて、大きな扉がゆっくりと開かれる。
黒を基調とした服に身を包んだ召使が、アクシャを捉えると深く礼をした。
「おかえりなさいませ。奥様がお待ちです。ご夕食の準備もできていますよ」
そう言って微笑む召使に軽く礼を言うと、アクシャは母の待つ広間へと向かった。 白い大理石で彩られた広間は、淡い蝋燭の炎で照らされている。
ステンドグラスがあしらわれた壁を背に、母は静かに座っていた。
「お帰りなさい。私の
心配そうに眉を顰める母に、アクシャはふっと笑みを返した。
「大丈夫ですよ、御母様。友人とのおしゃべりが楽しくて、つい」
いつも通り、母と向かい合う席の椅子に腰掛ける。
召使がアクシャの目の前のグラスに果実種を注いだ。
柔らかな柑橘の香りが鼻腔をくすぐる。口に含むと、爽やかな酸味が広がった。
「美味しいでしょう?西の
「はい。フォーゲル様は南の地にとてもよくしてくださいますね」
南と西。友好を結んだ二つの地は、長期に渡り協力関係を築いてきた。
15年前、南の地が経済崩壊を脱することができたのも、西の力が大きかっただろう。
物腰もやわらかく、アクシャの存在を知る人物の中で数少ない、彼女が心を許せる人物だった。
「フォーゲルも、あなたに会いたがっていたわ。今度一緒に西の地に行ってみましょうか」
「いいですね。最後に西に行ったのは……5年前でしたか?」
和やかな雰囲気の中、夜は更けていく。
しかし、2人の会話は薄氷の上を歩くようだ。
お互いの感情を探るような、そんな危うさ。
「私は先に失礼するわ。その果実酒、部屋に置いておきましょうか?」
「いいえ。大丈夫です、御母様。おやすみなさい」
白蛇の名の通り、白いヴェールがあしらわれた服を靡かせ、母は自室へと戻っていった。
グラスに残った果実酒を飲みながら、アクシャはゆっくりと時間が過ぎていくのを感じていた。
「私も部屋に戻ります」
召使にそう告げ、アクシャは席を立つ。
部屋に戻る途中、廊下の隅。
あの日の───黒い髪の、懐かしい影を見た気がした。
*+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+
部屋の床に置かれた手紙を、白蛇卿、ブランシュは拾い上げた。
子供の落書きのような、記号で書かれた手紙。
それを見ると、ブランシュは召使たちに、「部屋に近づかないようにしなさい」と告げた。
一見何の意味も持たないその手紙は、ブランシュの定めた暗号文字だった。
その暗号を知っているのは、ブランシュの他にもう1人だけ。
「これを受け取ったのはいつ?」
ブランシュは、隣に立つ召使に問う。
顔に黒いヴェールをつけた召使。それは、彼女が唯一秘密を明かしている召使だった。そしてもう一つ。召使には大切な役目があった。
「お嬢様が帰ってきてすぐの時です。相変わらず、音もなく」
それは、手紙の主とブランシュをつなぐこと。
ブランシュは、手紙の文字を目で追っていく。
『話したいことがある。月が降りてくる頃に、また』
ブランシュは慌てて部屋の時計を仰ぎ見た。
月が降りる頃……それは夜九時を示す暗号だった。
(あと
召使にそれを尋ねると、
「お嬢様ならお部屋に戻られましたよ。ご心配なく」
と告げた。 ブランシュはほっと息をつくと、部屋のカーテンを引いた。
黒いカーテンが僅かに差し込む月光を遮り、部屋はさらに暗くなる。
壁の蝋燭に火をつけると、揺れる炎の影が部屋に落ちた。
外からの目を完全に遮断し、さらに念入りに人払いをする。
秒針の刻む音が響く部屋で、ブランシュはその時が来るのをじっと待っていた。
どのくらい、時間が経っただろうか。
暗号のように刻まれるノックに、ブランシュは顔を上げた。
隣に立つ召使に、小さく合図する。
「入りなさい」
ゆっくりと扉が開き、小さな影が部屋に伸びた。
その影の主。黒い髪の少女が、燃えるような赤い双眸でブランシュを見つめた。 手に握られた、小さなナイフがギラリと光る。
ブランシュが彼女に向けて手の甲を向けると、少女は床にナイフを落とし、そっと近づいた。
召使を部屋の外に出し、扉を閉める。
2人の間に、静かな電流のような緊張が走った。
「貴方に、こうやって会うのは久しぶりね」
ブランシュの言葉に、少女は何も言わずじっとこちらを見つめている。
武器も何も持たない少女の、瞳の奥に秘めた冷たい闇が広がっていく。
「……随分、反抗的な目を向けるようになったの。ねえ、ロベリア」
ロベリア。その言葉に、少女は肩を震わせた。
「……その名前は、いや」
小さく、壊れそうな繊細な声が、少女の口から溢れた。
ブランシュはその言葉を嘲笑うようにかき消す。
「そうかしら。悪意の華、ロベリア。貴方のような人間には、勿体無い名前じゃ───」
刹那、ブランシュの首に少女の指が触れた。
獣のような、素早い動き。殺意を持ったその行動に、ブランシュは息を呑んだ。
「聞こえなかったの?その名前は、いや」
淡々という少女の声には、何の感情もないように聞こえる。
もし彼女がナイフを持っていたら。ブランシュは背中が粟立つのを感じた。
「離れなさい」
低い声で短く告げると、少女はハッとして、少し離れたところにひざまずいた。
少女の体から、ゆっくりと殺意が消えていく。恐る恐る顔を上げた少女は、目を伏せながら言った。
「……ごめんなさい。わたしが、お話ししたいって言ったのに」
「あまり、過ぎた行動はしないことね」
ブランシュの言葉に、少女は短く返事をする。従順な犬のように、主人の指示を待つその姿に、ブランシュは満足そうに笑った。
「話して。あまり時間をかけたくないわ」
俯いたままの少女に、静かに促す。
ゆっくりと顔を上げた少女の赤い瞳が、ブランシュを貫いた。
「……お話ししたいのは、お姉様のことよ」
「お姉様?まさか……!」
部屋の空気が、凍った。
ブランシュは大袈裟に体を震わせ、目を見開いた。
少女がお姉様と呼ぶのは、1人だけ。
そう、アクシャだった。
「あの子に!私の
血相を変えて少女に問うブランシュにを見据えながら、続ける。
「今日、お姉様の帰りが遅かったでしょう?お友達と話してたって。でも、お姉様が話していたのは、違う何かよ」
不思議そうに顔を顰めるブランシュに、少女は楽しそうに話し続ける。
「夕方、お姉様はここに帰ってきてた。お食事をするより、ずっと前にね。でも、誰かに話しかけられて、どこかへ連れて行かれた」
「誰が、そんなことを」
静かなその声は、焦りや怒りを孕んでいる。
嘲笑うように、少女は笑みを浮かべて言った。
「それがね、誰かまではわからなかった。でも、見えたの。真っ白な光が。白い光が、お姉様と話していた」
「それこそ、友人ではないのかしら。友人との話に花が咲いて、そのまま家にお邪魔したのではないかしら」
不安そうにブランシュは問う。
「ううん。お友達なんかじゃないわ。だって、お姉様、その人とお話しを始めたら急に表情を変えたの。
そして、その光はわたしが見ていることに気がついていた。それに───」
少女の目がギラリと光る。
「あの人はお姉様の何かを知っているわ。少なくとも、
心臓が痛いほど跳ねている。
彼女が1番隠したいことが、誰かに知られている。
恐怖で手が震える。荒くなっていく息を無理やり落ち着け、絞り出すようにいった。
「……もう、いいわ。下がりなさい」
その声で、少女は立ち上がる。召使に軽く目配せすると、部屋の扉がゆっくりと開く。
その隙間から漏れる光を受けながら、少女はくるりと振り返った。
「またね、お母様」
無邪気な子供のような笑みを浮かべると、少女は屋敷の空気に溶けるよう消えていった。
「大丈夫ですか」
慌てたように部屋に入ってきた召使いが、果実酒を水で割ったものをグラスに注ぎ、ブランシュに差し出した。
それをゆっくりと嚥下し、ブランシュは一つ息をついた。
「白い……光……」
譫言のようにブランシュは呟く。
召使は心配そうにその様子を伺っていた。
「あの子は……何と話していたの?」
彼女の不安を嘲笑うような烏の鳴き声が、夜の闇に響いた。
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