悪意の華

「あれは、満月の夜でした」


 アレータはそう言うと静かに語りはじめる。瞳の表面が波紋のように揺れ、満月が彼女のと共にうかびあがる。


 それは、彼女の運命を大きく変えることとなる一夜のだ。



 暗くなりはじめた空にうかぶ月が、淡い光を放ちはじめる。

 ぽっりぽつりと明かりが灯りはじめた街を、アレータはランタンとバスケットを手に提げ、帰路に就いていた。


 少しだけ買い物を、と大通りに出たものの、思いの外時間を食ってしまい、すっかり遅くなってしまった。随分と重くなったバスケットを再び抱え直すと、アレータは小さく息をこぼした。


 まだ夏とはいえ、夜の潮風は身に染みるようだ。彼女の足元を、黄金の満月が煌々と照らしていた。


 静かなさざなみと、自分の足音だけが響くような静寂の中で、アレータは紅茶色の瞳を夜に溶かしていた。


 そんな穏やかな静寂を切り裂いたのは、何かが崩れ落ちるような鈍い音と、粘ついた水音だった。


 びくりと肩を振るわせ、音の方へと目をむける。闇に紛れるような、暗い暗い路地が、その双眸を彼女に向けていた。


 何かが、ここで起きている。本能的に、そんな恐怖を感じた。しかし、何故かその路地から、目が離せずにいた。


 次の瞬間、アレータを襲ったのは、殺意のような、恐ろしい感情。 感じたことのない、首を一気に締め上げられるような。そんな感覚に、アレータは小さく悲鳴を漏らした。


 ランタンとバスケットが、硬直した手から滑り落ち、地面に散らばる。 ランタンの割れる音も、足元に転がるバスケットも、彼女の目には入らなかった。


 逃げろ。必死に警笛を鳴らす本能に、アレータはひどい吐き気を覚えた。嗚咽を堪えながら、一歩、後ずさる。逃げ出したい。しかし、その場に縫い付けられたかのように、その場から動くことが出来なかった。


 恐怖と、わずかな好奇心。それが、彼女をここから動かさなかったのだ。


 アレータは大きく深呼吸すると、決心したように路地に足を踏み入れた。手を引くように、闇は彼女を飲みこんでいく。


 纏わりつくような空気の中、彼女を襲ったのはむせ返るような血の匂いだった。嗚咽を堪えながら、その中を進んでいく。

 

 何度目かの曲がり角に差し掛かった時。突然光が差し、彼女は思わず目を細めた。

 建物の切れ目からのぞく月光が、あたりを照らす。


 そんな月光が、路地に潜む悪魔の影を、地面に落としている。羽のような長い髪を纏う影は、どこか幼い印象を受ける。


 意を決して、アレータはゆっくりと、路地を覗き込んだ。


 最初に目に入ったのは、年端もいかない少女。羽のように靡く濡羽色の髪と、ぎらりと光って見える紅い瞳に、アレータは息を呑んだ。


(忌み子……!)


 黒髪赤目の子は悪魔の子。そんな言い伝えが残るここでは、少女の燃えるような赤はひどく珍しいもので。心臓が、痛いほどに打っている。息を潜めながら、アレータはじっと、少女の方を見つめた。


 次の瞬間、鈍い音と共に、彼女の足元に赤黒い液体が飛び散った。一気に強くなる金臭い匂いに、アレータは思わず後ずさる。


 血だ。夥しい量の血が、少女を中心に広がる。ぐるぐると回る思考の中、少女はゆっくりと、血の海へと入っていく。


 そこからは、ほんとうに一瞬で。


 舞うような所作で、月に照らされる少女は、赤い華を咲かせて見せた。死体の山の中心に咲く、あまりに眩い赤い華。


 妙に冷静な思考は、目の前の光景とを結びつけた。


 この街で起こっている連続殺人事件。手がかりを一切残さず、しかし現場には華を咲かせるという謎の殺人鬼。


 小さく震える指先を、ぎゅっと握りしめる。少女の異様な雰囲気と、溢れる狂気は、彼女の頭に一つの名を思い起こさせて。


 。悪意の華の名を授かった彼女は、その名に恥じぬ恐ろしさで。


 本能的に漏れそうになる悲鳴を飲み込み、彼女はよろめくように後ずさった。


 その刹那、猟犬が耳をそばだてるように、少女の動きがぴたりと止まった。しばらくの沈黙の後、少女の瞳が夜の闇の方へと向いた。


 まるで、目撃者であるアレータに気がついているかのように。


 彼女は更に強く口を抑え、暴れる心臓の音が少女に聞こえていない事を願った。


 しばらく影を見つめた後、少女はふっと、視線を逸らした。

 赤い瞳が、ゆっくりと、満月を捉える。黄金を写し、きらりと瞬く瞳は、今でも壊れてしまいそうなほどに脆くて。


 次の瞬間、少女は勢いよく壁を蹴り上げると、夜空に舞い上がった。 壁を蹴る反動で、上へ上へと飛び上がっていく様は、まるで獣の身のこなし。


 夜空と、満月と、月光と。その只中で、赤い瞳を湛える少女は、ひどく恐ろしく、同時に美しくて。


 少女の駆ける足音が、静けさの中に消えていく。


 耳鳴りがするほどの静寂の中、アレータは思考に飲まれそうになるのを必死に耐えていた。目の前で起こった事実が、脳裏に焼きついて離れない。


 詰まっていたような呼吸を一気に吐き出すと、アレータはその場に崩れ落ちた。視界がぼやけるような錯覚の中、アレータはもう一度、ひどく赤い華を見た気がした。



 *+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*



「……あの後、どう帰路を辿ったのか、覚えていません。しかし、私はあの夜、はっきりとロベリアを見ました」 

 

 手帳の上を滑るペンの音が止み、アレータは少しずつ、現実へと引き戻されていく。アンティークの落ち着いた色合いが、過去に飲まれた心を落ち着かせていって。


 純白のアネモネが、そっと微笑むように花弁はなびらを揺らした。


 探偵の手元の手帳は、彼女の語った真実で満たされている。月白の髪が、瞳に影を落とす神秘的な雰囲気に、アレータは息を呑んだ。


 夜の瞳がきらりと瞬き、アレータを見つめる。不敵に笑う探偵は、あの夜の少女のように恐ろしく、美しくて。


「ありがとう。貴方はロベリア彼女。貴方は、この街で最も価値のある真実を齎した」


 彼の紳士的な態度の奥に潜む、真実を求める狂気に、アレータは気圧されていた。美しくもその狂気を秘めた彼は、やはりどこか人間離れしている。


 「さあ、貴方は私に何を望む?」


 探偵は、静かに問うた。彼の瞳で渦巻く激情に応えるよう、アレータは強く、手を握る。


「依頼は…ロベリアの正体を突き止める事。あんな小さな少女が、何故こんな殺人鬼悪魔になってしまったのか、私は知りたいのです」


 その言葉を聞き、狂気を宿した瞳で、探偵は笑った。


「アレータ・シュヴェスター様。貴方の依頼を承りました。必ずや、ロベリア彼女の真実を突き止めて見せましょう」


 ぎらりと光る瞳を見て、アレータは何かがすとんと腑に落ちるのを感じた。この男を、何故獣と称したのか。


夜明けの探偵、ルディ・エルドラド。彼は真実に飢えているのだ。自身の求める真実を喰らうべく、内に牙を隠した探偵。


 彼の瞳は、ぎらりと、少女ロベリアに狙いを定めた。

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