第一章
渡された手帳を読み終えて閉じ、栗谷涼は向かい合って座った依頼主の青年にそれを返した。
「なるほど、書いてある内容は理解しました。そのせいでまた新たな疑問が生まれたわけですけどもね」
僕こと山岡和樹は栗谷に頼まれて入れた三杯のコーヒーを持って応接机とセットのソファの栗谷の隣にかけた。
「どうぞ、砂糖とミルクはこちらからご自由にお使いください」
そう言って僕はカップとスプーンの一つを青年に、もう一つを栗谷に差し向け、盆から角砂糖の入った瓶と、ミルクポーションのカップを詰めた瓶を机に下ろした。
「依頼はこの手記にある復讐相手の男の居場所を突き止めること、でしたよね?しかし既に貴方はどこに住んでいるのかをご存知のようですが」
そう言いながら角砂糖をいくつもカップに放り込みぐるぐるとかき混ぜる。水位が上がっているのは見間違いではない。いつもこの調子で使うので、栗谷探偵事務所の助手としての一番の仕事は角砂糖の補充だ。
栗谷は甘ったるくなったであろうコーヒーを美味そうに啜る。わかったような顔をしているが僕には舌がおかしいとしか思えなかった。
「そう……何ですけど……実は今、記憶が何にもなくて。今の僕にはその気持ちがないんですけど、復讐の相手も知らずにいるのは耐えられなくて。」
青年の言葉に僕は思わずええっ、と声を上げてしまった。一方栗谷は目を鋭く光らせ、何やら口元に笑みを浮かべている。まったく不謹慎なほどに妙なことが好きな男だ。
「どういうことでしょうか?その額や腕の傷と何か関係が?」
栗谷の言葉に視線を青年の腕に目をやるとシャツの下に包帯のようなものが透けているのに気付いた。額には縫い目の跡のような線がうっすらと見える。
「実は1週間ほど前に交通事故に遭いまして。気がついたのは病院のベッドの上でした。その時には既に記憶が飛んでしまっていて何も思い出せないんです。自分に関するものもこの手帳を必死に掴んでいた以外はなにも持っていなかったみたいで」
顎を撫でながら栗谷は興味深そうに頷きを返す。
「そうだ、もう一度その手帳お借りできますか?山岡くん、これコピーしておいておくれよ。そして君も読んでおくべきだ」
言われるがままにコピー機へ向かいページを印刷する。事務所と言いつつキッチンを備えた広いワンルームで自宅も兼ねているこの部屋では、コピー機を動かしていても栗谷と青年の話がよく聞こえた。
「しかし持ち物があの手帳一つで、おまけに記憶も失ったとあれば治療も難儀だったでしょう」
「それが事故った相手が偶然にもその病院の院長さんの息子さんだったそうで。というより自分の父親の病院に連絡をしたんでしょうね。治療費は結構だからどうか内密にしてほしいと頼まれたんです」
コピーを済ませて机に戻り、手帳を青年に返した。青年は控えめに頭を下げてそれを受け取る。大人しそうだが感じの良い人だと思った。
青年は現状について語り始める。
「生活行動は問題ないのですが、エピソード記憶という部分がすっぽり抜け落ちてしまっているという状態だそうで。記憶は完全に消えて無くなったわけではなくて、一時的なショックで忘れているだけなのでそう遠くないうちに戻るだろうとのことでした。その間住む部屋も用意してくれたので今はそこに住んでます」
オーバーに手を広げて栗谷が驚きの表情を浮かべる。妙な事を言うなよ、と睨め付けるとコホンと咳払いをし、改めて青年に向き直る。
「食費等はどうされているんですか?もしかしてそれも例の院長が?」
それを聞いて青年は素早く首を横に振り、なぜか釈明するように、
「提案はしていただいたんですが、流石に申し訳ないと思って病院内で雑用のアルバイトのような事をしています。それで細かな食費や生活費は賄っています」
と言った。なるほど立派じゃないか。年は僕らよりいくつか下だろうがその真っ直ぐさに僕は感心していた。
「なるほど、それは良い事ですね。わかりましたこの依頼お受けしましょう。報酬は成功時で構いません。ここに連絡先を書いていただいて……ああ覚えていればで構いません」
「家に固定電話が一機あります。その番号を書いておきます。それから名前は……」
と言いかけて詰まってしまう。
それも記憶にないのか。名前も覚えていないのは生活する上で随分不便だろうなと思った。
「それじゃあさっき手帳をコピーする時に見つけたんですけど、雪村さんというのはどうですかね。最後のページにそう書いてあったんです。貴方のお名前か亡くなられた女性のお名前かは定かではありませんかと、とりあえずということで」
「はあ、それではとりあえず雪村でお願いします」
即席の名前を記した青年は、「それじゃあ待ってます」と言うと少ない荷物を持って帰っていった。
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