第2話
春の暖かい風に誘われ、桜の花弁が宙を舞っている。県立峯岡高校の校門には、心を躍らせた新入生達がぞろぞろと集まっていた。そして、その中には二人の姿もあった。
「なぁ、美咲。この“高校”ってのは何だ?」
郁哉は両手を頭の後ろで組みながら問いかけた。
「高校というのは、この世界に存在する学校の一種です」
「へぇ、この世界にも学校があんのな」
「郁哉様が、いえ、クリュード様がいた世界には学校があったのですか?」
「あぁ、王立魔法学校ってのがあった」
「クリュード様は勇者ですし、さぞ優秀だったのでしょうね」
「ま、まぁな」
美咲は優しく微笑んだ。その笑顔から逃げるように、郁哉は顔を逸らした。
(最下位から五番目だなんて、絶対言えねぇ)
クリュードが通っていた魔法学校では、魔法の試験の結果で成績が決まっていた。クリュードは剣術の腕前こそ一級品であったが、魔法は下級のものしか扱えなかった。それに極度の勉強嫌いも重なり、その成績は人に見せられるものではなかった。そんなことを考えていた郁哉の脳内に、一つの恐れるべきことが思い浮かんだ。
「……なぁ、美咲」
「何ですか?」
「ひょっとして、ここって、勉強……」
「しますよ。学校ですから」
「あぁ……なるほどねぇ」
声を小さくするとともに、郁哉は歩みを止めた。
「どうなさいましたか?」
首を傾げる美咲に、郁哉は満面の笑みを浮かべた。
「悪い、俺、今日から休むわ!」
美咲が言葉の意味を理解する前に、郁哉は人間には到底出すことができない速度で走りだした。
「郁哉様⁈」
「悪いな、美咲。でも、勉強だけは死んでもやりたくないッ!」
郁哉はただがむしゃらに街を駆け抜けた。数分間ほど走った後、郁哉は路地裏に身を隠した。地面にゆっくりと腰を下ろし、壁に背中を預けた。
(ここまで来れば大丈夫だろ)
郁哉は大きく息を吐き、呼吸を整えた。その間、彼はビルの隙間から見える空を見上げていた。
「いざ冷静に見てみると、この世界の建物は全部大きいな。これじゃ、魔王城も見つけるのに時間がかかりそうだ」
そう言って、郁哉は笑った。平静を取り戻していくとともに、彼の脳内にはあの世界の情景が鮮明に浮かんでいた。広大な大地を、仲間と共に歩んだ。多くの町を巡り、多くの魔物と戦った。彼にとっては、つい先ほどまでの記憶だが、それが今でははるか遠くに感じていた。
(あいつら、無事かな)
「見つけましたよ、郁哉様」
思い出に浸っていた郁哉に、美咲は優しく話しかけた。
「……まぁ、見つかるわな」
出逢ってまだ一時間も経っていない、それでも、初めて見る元・勇者の弱々しい表情に、美咲は怒りと呆れを忘れていた。
「えぇ、郁哉様ほど強大な魔力を持った人間は、この世界にはいませんから」
「この世界でも、だ」
そう言って、郁哉はゆっくりと立ち上がった。
「前の世界でもな、俺が魔法学校から逃げ出しても、すぐ仲間に見つかるんだよ。俺の魔力量は、あの世界でも異常だったらしい」
郁哉は笑顔を浮かべながらも、その瞳には今にも溢れ出しそうなほどの悲しみが溜まっていた。
「本当に、違う世界に来たんだよな」
美咲には、彼にかける言葉を見つけることはできなかった。大切な仲間と離れ離れになり、見知らぬ世界へと一人やってきた。そんな彼の心情は、苦しく、寂しいものなのだろう。美咲には、それが容易く想像できた。美咲はゆっくりと郁哉に近づき、そっと彼を抱き寄せた。
「なっ、どうしたんだよ、美咲」
「私も同じです、郁哉様。私も神界で生まれ、育ってきました。この世界、
美咲の腕に少しずつ力が入っていくことを、郁哉は感じていた。
「そうか、そうだよな。ごめん」
郁哉は美咲の体を優しく引き離し、そのまま彼女の両肩に手を置いた。彼女の瞳が、ゆらゆらと潤っていた。
「俺はもう大丈夫だ。ありがとう」
郁哉は微笑んだ。それに釣られて、美咲の頬も緩んだ。
「郁哉様は、案外優しいのですね」
「なんだよ、案外って」
「いえ、アインヒュルデ様から『女性に罵声を浴びせることが趣味の男だ』と聞いていたので」
「よし、俺もう一回死ぬわ。あいつ殴りに行く」
「ダメです。アインヒュルデ様を殴るのは私が許しません」
「俺が死ぬのはいいのかよ」
一瞬の静寂が流れたあと、二人から笑いがこぼれた。
「キャーーーーッ!」
その時、二人の元に女性の叫び声が響いた。
「何だ?」
「何かあったのでしょうか」
二人は急いで声が聞こえた方向へと向かった。路地を抜け、人々が行き交う大通りへと出ると、そこには人集りができていた。そして、その人々の目線は、全て上に集まっていた。
「この建物の上になんかあんのか?」
そう言って二人が上を見上げると、ビルの屋上に一人に女性が立っていた。その女性は安全柵を越え、あと一歩で地面がなくなるところで立ち止まっていた。
「おいおい危ねぇな。何をしてんだ、あれは」
郁哉の問いかけに、美咲は重々しく答えた。
「……おそらく、自殺ですね」
「自殺?」
「この世界ではよくあることです。私も、神界でそのような魂に何度も会いました」
淡々と答える美咲だったが、その瞳には行き場のない気持ちが溜まっていた。郁哉は自分達と同じく上を見上げる人々に目を向けた。
「何で誰も助けようとしないんだよ」
心配そうに見上げる者もいれば、手のひらサイズの板のような物を掲げている者もいた。しかし、誰もその場から足を動かそうとしていなかった。
「誰かが助けてくれるのを待っているのでしょう。自分で助けに入った時、もしも救えなかったら自分に責任が問われる。だから、何もせずに傍観するのが一番楽なのです」
「なるほどな」
郁哉は呆れたように頭を掻いた。
「なら、確実に助けられる奴が行けばいいんだよな」
「郁哉様、それは──」
美咲が目線を上から横に下ろした時、既に郁哉の姿はそこになかった。
「さすが、勇者様ですね」
「──なぁ」
突然背後から聞こえた声に、女性は思わず振り返った。柵の向こう側に、一人の男子高校生が立っていた。
「お前、何で死のうとしてんだ?」
ゆっくりと近づいてくる青年に、女性は鋭い目線をぶつけた。
「来ないでっ! それ以上近づくと飛び降りるわよ!」
「んなこと言われても、近づかないと助けられないだろ」
女性の声に一切動じず、郁哉は歩いていた。
「助けてなんて、言ってないでしょ?」
「あぁ、言われてない」
「じゃあ何でッ!」
「自ら命を捨てるとかいう馬鹿な行為を辞めさせるためだ」
女性の叫びを、郁哉は切り裂いた。
「馬鹿……?」
女性の中には青年に対する堪えきれない怒りが溜まっていた。
「あんたまだ高校生でしょ⁈ 子供のあんたに何が分かるのよ!」
女性の怒りが街中に響いた。それを肌で感じた郁哉は、それでも歩みを止めなかった。
「分からないな。何も知らない。この世界のことも、あんたのことも」
郁哉の瞳は、まっすぐ女性へと向かっていた。その視線は力強く、清らかだった。
「けど、命の価値は知っている。それこそ、死ぬほどな」
女性は動けなかった。近付いてくる青年が放つ存在感に圧倒されていたのだ。郁哉は簡単に女性の目の前に辿り着くと、柵の隙間から女性の腕を掴んだ。
「遅かれ早かれ、命はやがて尽きる。それは、どんな世界でも変わらない。でも、だからこそ俺たちは生きていかなきゃいけないんだよ。いずれ終わるこの命でも、最後の最後まで、必死に。悔いの残らないようにな」
青年の言葉には、底知れぬ重みがあった。まるで、一度死を経験したかのような。
「悔いのない人生なんて、あるわけないでしょ」
「かもな。でも、死んでから後悔したってもう遅いんだぜ? 生きてりゃどうにかなるだろ。全ては自分次第だ」
「そう上手くいくかしら」
「さあな。ま、上手くいかない時は心機一転。見知らぬ土地に行くのもいいかもな」
「ふふっ、なにそれ」
女性の表情がふっと和らいだ。それを見た郁哉は、掴んでいた彼女の腕を体ごと優しく上に放り投げた。
「ちょっ……」
空中に高く舞った女性の体は、屋上で待つ郁哉の両腕によって受け止められた。
「あんた何者なの? 大人の体を簡単に投げられるなんて」
「俺? 俺は……」
郁哉は一瞬考えた。どう答えるのが正解なのか。考えた結果、彼は無邪気に笑いながら答えを出した。
「俺はただの高校生だよ」
女性を見送ったあと、郁哉は屋上で背伸びをしていた。路地裏では少ししか見えなかった青空が、今は視界に収まらないほどに広がっている。
「流石ですね、郁哉様」
郁哉の背後から、美咲は少し上機嫌に話しかけた。
「まあな、人助けは俺の本業だ」
背伸びを終えた彼の表情は、とても柔らかく、清々しかった。そんな彼に、美咲はゆっくりと近づいた。
「郁哉様、学校へ行く前に大事な話があります」
「え、学校行かなきゃいけねぇの?」
「もちろんです」
大きなため息をつく郁哉に、美咲はカバンから先程の群衆の中で見た“手のひらサイズの板のような物”を差し出した。
「ん? 何だこれ」
「この世界で、『スマホ』と呼ばれている物です。これがあれば、遠く離れた人と連絡を取れたり……まぁ、色々できます」
「へぇ、なんかすげぇな」
「ちなみに、このスマホは少しだけ特別でして」
「特別?」
郁哉が疑問を感じながらもそれを手に取った瞬間、スマホは激しいバイブと共に大音量で音楽が流れた。
「うわっ、何だ急に⁈ これが“特別”ってやつか⁈」
「いえ、それはスマホ本来の機能です。郁哉様、スマホに表示されている文字を読んでみてください」
「文字? えーっと……」
郁哉はその文字を知らなかった。しかし、不思議と意味は理解できた。
「いとしの……あいん……ひゅるでさま。『愛しのアインヒュルデ様』ァ⁈」
「はい、我が愛しのアインヒュルデ様からの連絡が入っております。郁哉様、スマホの面を指で横になぞってください」
「お、おう」
美咲に言われた通りに指をなぞると、スマホから先ほどの音楽よりも大音量で声が聞こえてきた。
「ちょっと! あんた、女神を待たせすぎなのよ! 私から電話がかかってきたら3コール以内に出なさいよ!」
「うるせぇよクソ女神! ……ていうか、これどういうことだ?」
「誰がクソ女神よ!」
「先程申し上げた通り、このスマホは特別製で、神界と連絡を取ることができます。それと、クソ女神ではありません。アインヒュルデ様です」
面倒臭い二人に挟まれているな、と郁哉は心の底から嘆いた。
「で? 何の用だよ」
「あんた、まずクソ女神って言ったの謝りなさいよ!」
「わぁったよ! ごめんなさい! で、用件は?」
「あぁ、あんたに頼まれてたこと、やっといたわよ」
「頼まれてたこと? 何だそれ」
「言ってたじゃない。『仲間は無事か⁈ それだけでも教えてくれ!』って、ピャーピャーうるっっっさい声で」
電話越しに煽ってくるアインヒュルデに対し抱えきれないほどの怒りを感じながらも、郁哉はそれを何とか抑え込んだ。
「……で、何か分かったのか?」
「みんな死んでたわよ。魔王にやられたんでしょうね」
それを聞いた瞬間、郁哉は膝から崩れ落ちてしまった。スマホを持つ力さえ失い、端末は地面へと転がった。
「そんな……あいつらも……?」
美咲はスマホを拾い、頭を抱え俯いている郁哉の耳元に近づけた。
「あのねぇ、ここからが本題なんだけどー。勝手にヘコまないでくれる?」
「本題って、なんだよ」
「あんたの仲間、六人全員が今、
郁哉は目を見開いた。
「……それは、本当か?」
「マジよマジ、大マジよ。ほんと、変な運命よね。来世でも同じところにいるなんて」
郁哉は勢いよく立ち上がった。
「その三人の名前は分かるか?」
「えーっとね、
「ったりめーだろ。全員、しっかりと覚えてる」
郁哉の頬が緩んだ。もう一度仲間に会える、それだけで彼はどこか救われるような気がした。
「一応言っておくけど、あんたと同じように彼らも転生してるの。姿形は全然違うし、記憶を引き継いでいるかどうかも分からない」
「『分からない』って、リセットすれば記憶も消えるんじゃねぇの?」
「記憶ってのは魂の深いところに刻まれるものなの。たとえその魂をリセットしたとしても、深く刻まれた大事な記憶を消しきれないのはよくある話よ。もしかしたら、あんたと会うことで前世の記憶が蘇る、ってこともあるかもね」
「なるほどな。つまり、とりあえず会ってみればいいってことか」
「ま、そゆこと」
「分かった。ありがとな、アインヒュルデ」
「えっ、あ、えぇ、感謝しなさい。じゃ、私はこれで」
急に素直に感謝を述べた郁哉に締まり悪そうにアインヒュルデは通話を切った。郁哉はスマホを美咲に返すと、大きく溜め息を吐いた。
「本当は行きたくねぇけど、仲間がいるって言われちゃうとなぁ〜」
郁哉は頭を強く掻きながら「しゃあねぇなぁ〜」と言葉を漏らしていた。その表情にうっすら喜びが浮かんでいることに、美咲は気付いていた。
「郁哉様、今度こそ行きますよ。このままだと遅刻です」
「はいはい、行きましょうかね」
かなり面倒くさそうな芝居をしながら、郁哉は美咲の体を持ち上げた。
「あの……郁哉様?」
「方向だけ教えてくれ。テキトーに走ってたから学校の場所忘れたんだよ」
「それよりも、なぜ私は今、郁哉様に抱えられているのですか?」
「ん? 遅刻しそうなんだろ。なら、二人で走るより俺が一人で全力ダッシュした方が速いぞ」
「なるほど。では、あちらの方向に」
「分かった。しっかり掴まれよ」
美咲が指差した方向に向かって、郁哉は全力で跳躍した。無数に並ぶビルの上を、凄まじいスピードで駆け抜けていく。郁哉の胸はこれまでにないほど高鳴っていた。新しい世界に希望を持ち始めたのだ。しかし、高鳴りすぎた感情は注意力を著しく低下させる。
「郁哉様っ、飛びすぎです」
「ん?」
美咲の声で我に帰った郁哉は、自分達の足元に建物がないことに気がついた。あるのは幅50メートルほどの川だけだった。
「……美咲、すまん」
「……はい?」
「一緒に濡れてくれ」
「えっ」
郁哉の全てを諦めた笑顔に、美咲は心の奥底に苛立ちを覚えた。燦々と日の光が降り注ぐ街に、ざぶんと川の鳴き声が大きく響いた。
元・勇者の“逆”異世界転生 紅柚子葉 @yuzuhakurenai_77
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