りょうしりきがくてきかんそくねこ

Tempp @ぷかぷか

第1話

 箱の中の猫が生きているのか死んでいるのかという思考実験が社会を賑わせた20世紀が終了しておよそ百年経つ2098年、奇妙な猫型ロボットが世間に溢れかえっていた。

 仕掛け人はエルヴィン・ノイマンという量子物理学者で、コードネームは『りょうしりきがくてきかんそくねこ』。

 その猫型ロボットはこの世に確かに存在し、誰かが観測したことによってその時点での存在が確定する。けれども誰かが観測していなければ、また存在が不確定になってしまうのだ。


 シュレディンガーの猫は、箱を開けないと猫の生死が不明、というよくわからない寓話的な話として伝わっているけれども、その実は量子力学的な話である。

 量子力学というのは電子や光子といった微小な粒を扱う分野だ。ところがミクロな奴らは恥ずかしがり屋で、観測すればスルスルと動いて逃げてしまうから正確に観測ができない。だからそいつらが『どこにいるか』は、この辺にいるだろうという確率分布で表される。だからその状態というのは『40%の確率でいる状態』且つ『60%の確率でいない状態』が重なっていると解釈される。重要なのは『または』じゃなくて『且つ』なんだ。


 それで可哀想な猫は原子が崩壊すると毒が出る残忍な箱に入れられている。一定期間経過後にその元素の状態は『50%の確率で崩壊している状態』で『50%の確率で崩壊していない状態』が重なり合っている。同じように量子力学的視点で考えると、一緒に入った猫も『50%の確率で生きている状態』で『50%の確率で死んでいる状態』が同時に重なり合っている。

 けれどももし、その物騒な箱に猫を入れたら、猫はミクロで微細じゃないから重なり合うなんてことはなくて、死んでいるか生きているかどっちかなんだろうけれども。


 けれどもノイマン博士はやってしまった。

 何をどうやったかわからないけど、『重なり合い』を相対性理論上の世界に持ち込んだ。量子力学的に一定確立で存在しながら一定割合で存在しない猫型ロボット。誰かが観測したとき、確立的に存在しない場合には存在せず、確立的に存在する場合には存在する。そして量子力学的に一定時間存在したまま1日を経過した場合、その『重なり合い』に耐えきれず、『存在する猫』と『存在しない猫』の2匹に増えるという機能を有した『りょうしりきがくてきかんそくねこ』が爆誕した。


 世の中は混乱した。『りょうしりきがくてきかんそくねこ』は存在するときに観測したら、存在してしまう。そうすると何もないと思って行動していたのに、他の誰かが観測したことによって突然『りょうしりきがくてきかんそくねこ』が存在してしまう。

 歩いているときに誰かが足元の『りょうしりきがくてきかんそくねこ』を観測してしまったら躓いて転ぶ。ロボットだから妙に硬くてぶつかると結構いたい。転ぶだけならまだいいけど、それが自転車でも自動車でも電車でも起こる。事故が多発する。結果的に、『りょうしりきがくてきかんそくねこ』が観測された地域は『りょうしりきがくてきかんそくねこ』警報が出て外出自粛が促されるようになった。


 それで世界物理学学会は、『りょうしりきがくてきかんそくねこ』の機能を停止し世界に安寧をもたらそうというプロジェクトを発足した。研究者は手始めに1匹の『りょうしりきがくてきかんそくねこ』を捕まえた。『りょうしりきがくてきかんそくねこ』が存在する時に観測し続けていれば、その姿が消えることはない。『りょうしりきがくてきかんそくねこ』はあくまでも物理的な存在で、確率論的に存在が確定していれば突然消えて無くなったりはしない。何人もの科学者が目を離さず観測し続けながら『りょうしりきがくてきかんそくねこ』を解析した結果、全ての『りょうしりきがくてきかんそくねこ』のパスコードをあわせて原初の『りょうしりきがくてきかんそくねこ』に入力すれば、全ての『りょうしりきがくてきかんそくねこ』の動きが止まることが判明した。

 今どき分割パスワードなんて、なんとレトロな手法だろう。まるで20世紀のようだ。


 パスコードはどうやらリアルタイムに生成され、『りょうしりきがくてきかんそくねこ』が分裂するごとに2分割されて保持されるらしい。とすれば全ての『りょうしりきがくてきかんそくねこ』を集めて一度にパスワードを確認する必要がある。


 手元の『りょうしりきがくてきかんそくねこ』を前提とすると、世の中には全部で256匹の『りょうしりきがくてきかんそくねこ』が存在する計算だ。

 『りょうしねこ』警報をかけ合わせると、たしかに他に255匹が存在するようだった。該当地域をローラー作戦的に探索して、集めた『りょうしりきがくてきかんそくねこ』は一つの部屋に集められ、観測され続けた。観測は機械でも可能だったから、各猫の箱の前に1台のカメラが置かれた。

 最後の『りょうしりきがくてきかんそくねこ』が集められたとき、その部屋の『りょうしりきがくてきかんそくねこ』の数は1023匹にまで増えていた。観測を続ける限り、『りょうしりきがくてきかんそくねこ』は増え続けてしまうのだ。


 けれども全ての『りょうしりきがくてきかんそくねこ』が集まった。後はパスコードを入れるだけだ。

 これでこの世界的な騒動は終わる、そう思って科学者たちが祝杯を上げた時、事件が起きた。施設の電源がシャットダウンし暗闇に包まれた。大慌てで『りょうしりきがくてきかんそくねこ』の部屋を確認したときは既に遅く、その半数以上は逃げ出していた。

 カメラの電源が落ち、誰も観測しない状態に陥った『りょうしりきがくてきかんそくねこ』は存在が確定しない。そして不確定な『りょうしりきがくてきかんそくねこ』は量子力学的重なり合い上に存在したり存在しなかったりして、『りょうしりきがくてきかんそくねこ』は存在が不確定な状態で施設の壁を超えて逃亡した。トンネル効果っていうやつ?

 科学者は途方にくれた。次は何匹の『りょうしりきがくてきかんそくねこ』を捕まえなければならないのだろう。


 一人の科学者が部屋の真ん中に落ちていた紙を何気なく手にとって絶望した。

『りょうしりきがくてきかんそくねこは潰えさせぬ エルヴィン・ノイマン』

 そうして科学者たちは気がついた。ネコ型ロボットに施せる実験を、ノイマン博士は自らに施したのだ。

 量子力学的存在化した、確率論的に存在したり存在しなかったりするノイマン博士が『りょうしりきがくてきかんそくねこ』の撲滅を邪魔をしている。そして現在も科学者たちは不毛に『りょうしりきがくてきかんそくねこ』を追っている。

 ここに全人類とノイマン博士の量子力学的ねこ戦争が勃発したのであった。

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