『読書』

 僕は手にした本の出だしを小さな声で読みあげながら、隣の項の挿絵を見つめていた。いつかの夢でみた景色。だけどもそれがいつの夢だったかは思い出せない。ただその夢の中で誰かがずっと僕の事をよんでいる気がしたのだけは覚えている。


 スクールの先生に一度この話をしたことがある。先生は笑いながら既視感(デジャヴュ)というんだと教えてくれた。そしてもし輪廻があるのだとしたら、あるいは僕の前世はこの詩にかかれた世界に似てたのかもしれないと言った。


吉成周の短編詩集、「異界おくり」


 すでに亡くなっている地元の文筆家の作品集だ。スクールの図書室にある旧書庫の片づけをしていた時にたまたま見つけた本だけど、表紙絵とタイトルにひかれてつい勝手に持ち出してしまった。


 どうせ暗い書庫の片隅にひっそり置かれていた作品なのだから、誰かに見とがめられて叱られるなんてないだろうけれど、読み終えたらまたこっそり元の場所へと戻しておかなければ...




「どうしたの? 始めないの、『あなたの読書』」


 三島夕樹の言葉で僕は我に返る。僕の背後に立っていたはずの彼女がいつの間にか隣にすわっており、僕の手にした本を覗き込んでいた。


 旧書庫の隣にある準備室。狭い部屋の中に仮置きの為の書棚と作業台、そして入り口の脇に並べられたキャスター付きのブックラック。僕は古いソファに陣取って、手にした「異界送り」をこれから読もうとしていたところだ。

 

 なぜこの本に惹かれるのかわからないが、僕にはどうしても『この本に出てくる世界に行かなければならない』って気がしてどうしようもなくなっていた。だからこっそり持ち出して、ひとりで読んでみたかったのだ。


 すると彼女はこういった、本の中には『世界』があるのだと。そして彼女は僕に優しく教えてくれた、『本の世界』を『読む』やり方を...


 正直、彼女のいう事の半分も理解できなかったが、それでもそこに『世界』があると信じる気になった。僕がいつかの夢で見た世界。だから僕は三島夕樹の言葉に耳を傾けた。心地よい声。そしてその言葉どおりに『読書』の時間が始まる。


―― 晴れ渡った空に突如沸きあがる雲の原、岡の向こうに見えるのはどこまでも続く青草の大地、私は丘の小道を下るとその大地の真ん中にぽつりとたたずんだ古い木製の扉の前にたった ――


 そうだ、僕が見つけなければならない『世界』はきっとこの扉の向こうにあるに違いない。僕はそう信じると三島夕樹の言葉を思いかえした。窓から見える景色を言葉で切り出したように、今度は「言葉で切り出された世界」を不鮮明な記憶と想像力でつなぎ合わせながら頭のキャンバスに描き出していく。


 するとどうした事だろう。薄暗い部屋の片隅でソファーに腰かけていたはずの僕は今、青々とした原っぱの真ん中に立っているではないか。


 頭上には染みのういた天上のかわりにどこまでも底抜けに青い空が広がっていた。強い日差しに手をかざしながら四方を見渡すと空の際から入道雲がみるみる湧き上がる。風が通り抜け、晴れの日特有の青草のにおいが運ばれてくる。


 そして視線を戻すと目の前には古い木製の扉がひとつ、ぽつんとそこにあった。


「『扉』はそこにありますか?」

 遠くで三島夕樹の声がした。


 探していた『扉』はここにあったよ! 思わず口に出たその言葉が喜びと興奮で微かに震えてしまう。僕はその扉の取手に手をかけ、ゆっくりと時間をかけてその手を奥へと押し込んでみる。「ギィッ」ときしむ音をたて、扉は開かれた。


 おそるおそる足を踏み出してみる。一歩、二歩、三歩。扉をぬけると僕は白い光に包まれた。その向こうにはいつかの夢でみた景色がぼんやりと霞んで見通せる。


これで僕は戻れるんだ 本当の僕の世界に


ねぇ、三島さん やっぱり一緒に行こうよ


 そう言って振り返るとそこに三島夕樹の姿はなく、青草の原の小道が遠くの丘へとつづいていた。




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