002 異界送り

『本の世界』

「知らなかったんですか?

本の中には『世界』があるって...」


 三島夕樹はニコリと笑うと僕にそういった。自分より一年先輩でセーラー服の似合う、いかにも文系オタクという感じのする子だ。書庫で見つけた詩集を手にしてひとり言をこぼした途端、いつの間にか背後に彼女がいた。


「最初の一文を声にだして読んでみてください」

 そう言って彼女は僕の背後から腕をのばすと、序文の先頭のくだりを指でなぞらえる。


―― 晴れ渡った空に突如沸きあがる雲の原、岡の向こうに見えるのはどこまでも続く青草の大地、私は丘の小道を下るとその大地の真ん中にポツリとたたずんだ古い木製の扉の前にたった ――


 とくにどうという所もないただの情景描写だ。しいて言うなら草原の真ん中に扉だけが在るのはシュールな絵画的な表現という事ぐらいだろう。


「それがあなたのこれから見る『世界』」


 僕の見る『世界』?


「そう、あなたの『本の世界』」


「でもあなたにはまだその景色は見えてこない ちがうかしら?」


 なにを言っているのだろう、この人は...確かにこの街から出た事のない僕には見慣れない景色だけれど、いかにも牧歌的といった風景くらい今時の子ならみんなムービーで知っている。

 世界が見えるって、頭で考えるとか感じるとか、そういう事を言いたいのだろうか?


「そうじゃない 見て、窓の外の空を 今日の空は、あなたの目にはどう映ってますか?」


 曇り空。


「それだけ?」


 低い雲ほどその下側が暗くなっている...奥へと連なっていく鉄塔。


「その鉄塔は全部同じかしら?」


 同じ...いや、遠くへ行くほど霞んで小さく見える。手前から二つ目は塔の上の方が他とすこし造りがちがう。


「風は?」


 西...西風。


「風はどうふいてる? 雲はながされていて?」


 ...手前の方から東、右手の奥の方へ流れてる。低い雲ほどすごく速く流されていく。


「そう、それで空は?」


 また空?


 空は...ライトグレーのキャンバス、左手奥に重たい雲の塊、手前の方に雲の薄い場所があって、晴れてはいないのに不思議と明るく目立つ...少し晴れてきてるのかな? 地面に近い雲ほど下の面が暗くなってて、それから...


「よくできました」


 ほめられた なんだかうれしい。おなじスクールに通う学生なのに、まるで彼女が講師で僕がその生徒みたいだ。


「あなたは今、あの窓枠の中の空を言葉に『切り出した』の すごく上手に」


 言葉に切り出す?


「そう、言葉に あなたの頭の中のキャンバスに切り出したの」


 ふしぎなものの例え方をする女性だ。それになんだかいい香りがして、どぎまぎしてしまう。


「でも『本の世界』を見つけるにはその逆をしなければいけないの わかる?」


 『本の世界』って?


「『本の中の世界』よ あなたが夢でみたっていってた『この本の世界』」


なんだかわかる気がする。


「あなたは自分の記憶とイマジネーションでその『本』にかかれた言葉と言葉の間を埋めて ただの言葉だった空を頭の中のキャンバスに想い描いたように あなたが見たいと思う作品の世界を実在する『山』や『川』や『空』に作り替えなければいけないの そうすればこの世界は反転して『あたなの知っている本の世界』がそこにあるはずだから あなたはそこに行きたいんでしょう?」


 実在する『山』や『川』や『空』...ここでない『何処か』へ行けるなら、僕は今の生活を捨ててでもその『世界』に行きたい。


 でもなぜ? なぜ君はこんなに親切に教えてくれるんだろう?

 なぜ君は僕の妄想話を信じた振りをしてくれるんだろう?


「あなたが『世界』をみつけるところを見たいから わたしはその『世界』がほんとうにあるのか知りたいの」


 なら一緒にいってくれる? 僕の『世界』が本当にあったなら、 僕は君となら行けるような気がしてきたよ。


「だめ いけない」


 なぜ?


「私はいけないの なぜならそこは私の『世界』ではないのだから」


「私はただあなたが本当に『自分の世界』を見つけられるか知りたいだけ」


「もしみつけられたら そしたら私の世界は...」


 君の世界は、なに?






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