22.明石友梨の忙しい一日(1)
「うわあぁ寝坊したぁ!?」
日曜日の朝。隣の部屋から聞こえてくる妹の叫び声で目が覚めた。今日は昼からだと聞いていたのだが、まだ五時だ。
「どうした?」
「おはようお兄ちゃん! 寝坊した!」
「今日午前は休みじゃないの?」
「一昨日まではそうだったんだけど、一昨日急に結乃さんから連絡あって。めっちゃ早くなっちゃったんだ」
「なるほど」
「というわけでごめん! 朝ごはん一緒に食べれない!」
「いいよ」
燈の好きなパン屋でパンを買ってきていたのだけど、一緒には食べられそうにない。車の中とかで食べてもらおう。
燈が着替えている間にできる限りの準備はしておくことにした。パンを袋に詰めて、水を数本準備して。そうこうしていたらインターホンが鳴った。
モニター越しに確認すると燈のマネージャーの吉川結乃さんだった。
「すません、燈ちょっと寝坊して」
「ああ、そうなんですね。大丈夫ですよ、少し余裕がありますのでゆっくりで」
「ごめんなさい大丈夫ですもう出れますごめんなさい!」
「大丈夫だからゆっくり準備してね」
モニター越しの声が届いているようで、燈は本当に焦った様子で準備をしていた。
「ああ、そうだ。せっかくなので久しぶりに優希くんも来ませんか?」
「えっ?」
「えっ、え来るの!?」
「いや行くとは言ってないけど」
「こちらが勝手に変更してしまったので燈ちゃんにも申し訳ないなと。お兄さんが来てくれるなら燈ちゃんのモチベーションも上がるでしょうし」
「上がる上がるめちゃくちゃ上がる!」
「……まあ、そういうことなら」
断ることなんてとてもできなそうな勢いの燈に押されて、俺は返事をしてしまった。別に今日は一日予定もないし俺の方は構わないけど、それで吉川さんは困るようなことはしたくない。燈は一度スイッチが入れば頑張れる子なので、折を見て抜けることも考えておこう。
とりあえず家を出る準備をして、雑に身だしなみを整える。燈はいつも笑顔で家を出るが、今日は一際楽しそうに見えた。
「すいません、待ってもらって」
「いえいえ、お気になさらず。燈ちゃんもこんな調子ですし」
「ねーお兄ちゃん髪直してー」
「……はいはい」
くすくすと笑う吉川さんの視線を全く気にする様子もなく、燈は俺に櫛を手渡して後部座席に座った。そもそも髪は跳ねていないし、いつも通りのサイドテールの燈だ。何を整えろと?
家の戸締りをして俺が車に乗り込むと吉川さんはすぐに車を出した。なんだかんだで時間はかなりギリギリなのだろう。
「今日は午前中はドラマの撮影、それからスタジオで生放送に出て、次は夏葉さんと合流してラジオの収録ですね。帰るのは早くなるかもしれませんが、びっくりするほど休む間がないです」
「生放送……」
聞いてない。言ってくれたら今日も見ていたはずだ。教えてくれてもよかっただろ、という意味で頭をわしゃわしゃ撫でると「ごめんってー!」と楽しそうに笑った。いやほんとにそういうのは教えてね?
「つか、そんな詰め詰めで大丈夫なんですか?」
「おや、さすがお兄さん、燈ちゃんが心配なんですね? 大丈夫ですよ。ドラマの方はもうほとんど燈ちゃんのところは撮り終わっていますし、今回は撮影場所とスタジオが近いので。むしろ、今日は夏葉さんの方が詰まっているので心配です」
マネージャー同士で情報共有なんかはしているらしく、吉川さんは今日の夏葉の予定を話してくれた。異次元すぎていまいちわからなかったが、とにかく忙しいらしい。
「まあ、わたしもめちゃくちゃ忙しいんだけどね。頭おかしいくらい詰められてるけどね、これ」
「ごめんなさい……」
「あ、いやぁ、いいんですけど。こうやってお兄ちゃんを連れてきてくれたりするし、結乃さんがどうこうできるわけでもないじゃないですか」
誰が悪いというわけでもなく、この子のスケジュールはいつもぎっしり詰まっている。その状況を作ってしまっていることに吉川さんは少し困った顔をしていたが、燈に嫌われていないと知ると少しだけほっとしているように見えた。
車に乗ってから一時間程度。広い駐車場に車を止めた吉川さんは、俺と燈に車を降りるように言った。
「そういや朝ごはん食べてないけど……」
「食べかすとか付けてる方がやばいから今日はいいや。後で
「終わったらなんか食べような」
「やったっ!」
前を歩く吉川さんについて行くと、いろんな機材が置いてあるところにたくさんの人がいる場所に出た。素人でもここが撮影現場なのだとわかる。
「おはようございまーす!」
燈が笑顔でそう言うと、いろんな方向から挨拶が返ってきた。俺はどうすればいいのかわからない。とりあえず燈より吉川さんについて行った方がよさそうなので吉川さんのところにいよう。
燈は無精髭を生やした男性のところでなにやら話していたが、すぐに俺と吉川さんのところに戻ってきた。その後ろには話していた男性も一緒だ。
「本日もよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします。ん? 君、お兄さん?」
「えっ。あ、はい……」
「あんま邪魔にならないようにしてね」
「っす……」
当たり前なのだが、そう言われると少しつらい。というか、いるだけで邪魔だ。これは邪魔だからどっか行けと言われているような気がする。
「もー、そんな意地悪言わないでくださいよっ! 邪魔にならないように勉強して帰ってねってことだからね。お兄ちゃんは自分から邪魔しようとはしないだろうし、監督も心配してないよ。ですよね?」
「まあ、そうだね。友梨ちゃんのお兄さんだし、別に好きにしてくれてたらいいよ」
「難しいな」と言いながら頭をかくこの男性は、どうやら監督だったらしい。わざわざ燈の兄に挨拶に来させてしまったことが少しだけ申し訳ない。せっかくそう言ってくれるなら少しでも勉強して帰らせてもらおうか。
三十分ほどしていろんな人が集まってきた。俺は吉川さんに連れられて少し離れたところで燈を見ていることになった。衣装に着替えた燈は普段より少し幼く見える。
それからまた一時間半ほどして撮影が始まった。メイクや服装で、いつもとはほんの少し違った印象だ。
「燈ちゃん、ああやっていろんなところに気を回して。ほんとだったら部外者の優希くんを連れてきたらわたしがちょっと怒られているところなんですよ」
「まあ、ですよね」
「それが何にも言われないのは、優希くんが燈ちゃんのお兄さんだからなんですよね。まあ、そうじゃなかったらわたしも連れてこないのですが」
燈はたまにこの人の話をすることがある。仕事はこなしてくれるし多少のわがままはなんとか通してくれる人だと言っていた。
「あいつがずっと頑張ってるのは、わかりました」
「でしたら、連れてきてよかったです」
「……お兄ちゃん、か」
こうして燈の才能を見せつけられると、より一層自信がなくなってしまう。燈が俺を兄として大切な存在だと思ってくれていることに嘘はないことはわかっている。それでも、これだけたくさんの才能を持つ燈の兄として相応しいのか、そんなことを考えてしまう。
両親に見捨てられた天才。それはきっと、一般人から見ればかわいそうな子だと思われるのだろう。俺も妹じゃなければそう思っていたのかもしれない。だから燈は両親について話さないし、かわいそうな兄妹だと思われないために人前では絶対に笑顔を絶やさない。
その笑顔を作らせてしまっている原因はこの兄ではないかと、そんなことを思ってしまう。
「優希くん?」
「んなわけ、ないよな」
「はい?」
「いや」
だって、俺は燈が大好きだと公言している兄なのだから。燈は俺が原因で笑っているのではない。俺のために笑っているのだ。
「……たった一人の家族なのですから」
「すません。ちょっといろいろ考えてました」
「燈ちゃんが笑っていられるのは、優希くんのおかげですよ」
「わかってます」
「そですか」
そんなことを考えている暇があるなら、燈の兄に相応しい人間になればいい。見つけたのはそんな簡単な答えだった。
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