SEMIが鳴くから今は夏

そうざ

It's Summer now because SEMI is Chirping

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 空梅雨が予想されていたのに早々と梅雨入り宣言が出たその日、僕がいつものようにやる気のない顔をしていたら、班長がベルトコンベアの向こうから手招きをしているのが見えた。

 思わず溜息が漏れる。

 だらだらと駆け付けると、普段はほとんど口を利いた事がない癖に、小柄な班長は少し背伸びをしながら馴れ馴れしく僕の肩に手を回して囁いた。小声なのに周囲の機械音に掻き消されないのは、何かこつでもあるのだろうか。

「辞めたいって本当?」

 僕が辞めたがっている事を誰かが吹聴し、班長の耳に届いたらしい。

「はぁ、そろそろ潮時かなって思いまして」

 僕が工場でアルバイトを始めてもう三年になる。時給がそこそこ高額なので何となく続けて来てしまったが、好い加減もう嫌気が差している。

「分ってると思うけど、この時期って忙しいじゃない? 日産五千個は確保したい訳よ。つまり猫の手も借りたい訳さ」

 そう言いながら、班長はもう一方の手を曲げ、猫招きのような仕草をした。でも、おどける割に僕をちらちらと窺う目の奥は笑っていない。

 天井からぶら下がった電光掲示板には『目標値:2524』『実績値:2017』と表示されている。連日のように生産数が届かない状況を知っているだけに、このタイミングで退職を願い出るのは気まずかったが、僕の決心は固かった。

「そろそろちゃんと就職しようかと思って……俺もイイ年なんで」

 勿論、何の資格も才覚もやる気さえ持っていない僕が真面まともに定職に就けるとは思わない。辞めるに当たって一番無難な理由を作っただけだ。流石に、こんな単調で何の面白みもない仕事はうんざりです、とは言えない。

「作業が辛いのは分かるけど、もうちょっとだけ頼めないかなぁ。せめて一ヶ月くらいっ。なっ、なっ」

 班長はよっぽど猫が好きなのか、今度は猫撫で声を出した。

 このまま言い包められて堪るかと思った僕は、何とか穏便に口答えをしようと努めた。

「この仕事にどんな意味があるのか、今一掴めないんです。そんな人間が職場に居たら正社員の皆さんにも失礼かなって思いますし」

「そんなの関係ないよ。今日までちゃんと作業出来てたじゃ~ん。ここだけの話、正社員だってほとんど理解せずに仕事してるよ。問題ないって~」

 班長の馴れ馴れしさに拍車が掛かる。若いアルバイトに対する気安さというよりは、小馬鹿にしているようにしか聞こえない。

「生意気ですけど、世間の人が喜んでる顔が見えて来ないって言うか」

「分かる分かる。でも程度の差こそあれどんな仕事も大体そんな感じだよ。それでも社会に貢献してるからこそ毎月お給料を貰えてる訳でしょ? 結構、役立ってるよぉ、ウチの製品は。必需品とは言わないけど立派な夏の風物詩だろう?」

 班長は僕の肩を揺すりながら語気を強めた。周囲で黙々と働いている作業員の視線が気になるようで、次第に僕を廊下の隅へと押しやりながら話を続ける。

「景気悪いしさ。すんなり就職出来るかどうか分からないぞぉ。そうだ、就職活動しながら続ければ? 決まってから辞めた方が安心だろ?」

 平日の五日間、朝から晩まで働きつつ就職活動なんか出来るものかと思ったが、ベルトコンベアに目をやると正社員達が死んだ魚が干物にされて食べ残されたような目で僕を見ていて、その空気に耐えられず、もう少し考えさせて下さい、と応えてしまう僕だった。

「おうっ、よっく考えといてぇっ」

 班長は勢い良く僕の背中をベルトコンベアの方へ押した。そして、一度も振り返りもせずさっさと廊下の向こうへ去って行った。


 そそくさと自分の持ち場に戻ると、まだ翅のない〔SEMI〕がぎっしり詰まったケースがもう何箱も積み上がっていた。

 僕の役目は二枚の翅を取り付ける事。翅は最も重要な部品と言っても過言ではない。軽く、壊れ易く、そして精密で、翅がなかったら〔SEMI〕は効率良く駆動しない。

 当然、扱いには細心の注意が必要で、一枚ずつピンセットで摘み上げ、接合部を〔SEMI〕の背中の然るべき箇所に宛がい、極小のビスで固定したら梱包工程へと流すのだが、このビス留めを正確且つ迅速にするには中々技術が要る。翅が曲がって付いていたり、ぐらぐらだったりしたら、ちゃんと機能しない。

 最初の頃は、こんな重要な持ち場をアルバイト風情に任せるなんてどうかしていると思ったが、慣れてしまえば欠伸が止まらなくなる。

 積み上がったケースを処理するのに大した努力は要しない。僕はまたいつものやる気のない表情に戻っているに違いなかった。

あんちゃん、辞めるって言ったの?」

 僕と背中合わせの位置で胴体部の組み立て作業をしている芥田あくたさんが声を掛けて来た。芥田さんは古株の社員で、見るからに班長よりも年上だ。

「直ぐにでも辞めたかったんですけどね……」

 すると、芥田さんの隣で頭部の取り付けを担当している滋見じみさんが苦笑しながら口を挟んで来た。黒縁眼鏡の分厚いレンズの所為か、昆虫を連想させる。

「班長に泣き付かれたんでしょ? あの人は作業能率の事しか頭にないからね」

 今度は、僕の隣に陣取っている知里ちりさんが額の袖で汗を拭いながら寄って来た。巨漢に似合わず六本の細い脚を器用に取り付ける人だ。

「誰かが辞めると新人に一からノウハウを叩き込まなきゃなんないからね。面倒だし、効率も落ちるし」

「辞めるんだったら早い方が良いよ、兄ちゃん。ずるずるやってたら俺達みたいになっちゃうよ」

 芥田さんの言葉に、滋見さんも知里さんも小刻みに頷いた。


              ◇


 だだっ広い社員食堂の隅にある丸テーブルは、僕の定位置だった。

 ところがこの日、テーブルはピンク色の団体に占拠されていた。灰色の冴えない作業着を着る男性陣に対し、女性のそれは社員もアルバイトもピンク色で、埃っぽい工場の中では否応なしに目立ち、そして何となく威圧感があった。

 ここは僕の席です、なんて言える筈もなく、僕は直ぐ隣の男性社員がまばらに座っている横長のテーブルに落ち着いた。

 ほんの一ヶ月前くらい前までは、同時期に入ったアルバイト仲間の五、六人で屯していたのに、一人また一人と辞めて行き、到頭、外装工程に所属する若手――と言ってもそう若くもない僕だけになってしまった。

 元々社交的でない僕は別部署のアルバイト連中と親しくなれず、同じ外装工程の社員三人とも作業時間以外では距離を置いている。心の何処かに、あの人達と親しくなり過ぎると底なし沼から抜けられなくなるような、一抹の不安があるからだった。


 丸テーブルの会話が入って来る。僕は、ぱさついた菓子パンとセルフサービスの薄い緑茶を口に運びながら、何となく背中で聞いていた。

「貴女、幾つなの?」

「十八です」

「若いわねぇ」

 小母さん社員が一斉に羨ましそうに声を上げる。十八と答えた女の子は入ったばかりのアルバイトらしい。

 別の小母さんが問い掛ける。

「高校を出た後、就職しなかったの?」

「やりたい事が決まらなくて。かと言って進学する気もなくて、何となく……」

 いつの間にか僕は振り返り、女の子に見惚れていた。小母さん達のくすんだ作業着に囲まれた、まだ汚れのないピンク色の鮮やかさ――もう少しだけ辞めないでおこうかな、と僕は思った。


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「え~、今日も一日頑張って行きましょう。昨日は目標台数に及びませんでした。え~、マイナス32です」

 工場の一日は各部署、各班毎の朝礼から始まる。張り切る班長とは対極に社員達はやる気のなさを競うかのように寝惚け眼で欠伸を噛み殺している。

「一昨日も少し足りませんでした。え~、今日こそ達成出来るよう頑張りましょう。願わくばプラスにしたいです」

 僕は上の空だった。例の女の子の事を考えていたのだ。

 毎日、食堂で交わされる女軍団の会話に聞き耳を立てている内に、彼女がルミナちゃんと呼ばれている事を知った。苗字の方は胸の名札を見れば一目瞭然で『葉向井はむかい』だった。

 葉向井ルミナ――良い名前だ。

「このままだと夏に間に合わないので、残業残業また残業なんて事にもなり兼ねません。今日も一日宜しくお願いしま~す」

 僕は作業を苦に思わなくなった。正確に言えば、手を機械的に動かしたまま頭ではルミナちゃんの事ばかりを考えていたからだった。

 彼女はどの部署で働いているんだろう。

 意を決した僕は、昼食が終わった彼女達の後を付けてみたものの、二階の渡り廊下の手前で断念せざるを得なかった。

 その廊下は僕が足を運んだ事のない別棟に続いていた。行き交うのは女性ばかり。堂々と入って行く度胸はなかった。

「ああ、あっちは基盤工程で、通称『女の園』だ。昔から野郎禁制のエリアになってるんだ」

 古株の芥田さんは、この工場に関する大抵の事は知っている。

「どうして女性だけなんですか?」

「女は何でも仕事が丁寧だから、ちっさくて壊れ易い基盤作りに向いてるって話だよ。女にも色んなのが居るだろうになぁ」 


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 それから数日の後、或るトラブルが起きた。

 昼過ぎの睡魔が最も猛威を振るう時間帯、頭はほどんど寝ている状態で手先だけを無意識に動かしていた。

 廊下の向こうから数人の社員が足早にやって来た。ワイシャツの上に作業着を羽織っている。上層の偉い人達らしい。どの顔も難しそうな表情だった。

 皆を先導して来た班長が血の気のない顔で作業中の僕達に言った。

「ちょっと、作業をストップしてっ」

 班長はベルトコンベアに載った〔SEMI〕の一つを取り上げると、上役達に混じってぶつぶつと話し始めた。

 何か起きた事は明らかだった。僕は自分に皺寄せが来ない事だけを祈った。会社がどうなろうと知った事ではない。

「皆さん、取り敢えず事務室に待機していて下さい」

 そう言うと、班長は上役達と共に廊下を引き返してしまった。


              ◇


 狭苦しい事務室の長テーブルに外装工程の面々が顔を揃えていた。どの顔も生気がないが、作業が中断して一休みという暢気な空気が漂っていた。

 僕は外装工程が総勢十三人である事を初めて知った。ベルトコンベアは長細く、ちょっと離れた所で作業をしているともう赤の他人の感覚だ。実際、僕の顔見知りは芥田さん、滋見さん、知里さんの三人だけだ。

 やがて、班長が神妙な口振りで説明を始めた。

「実はね、現在生産している機種の大半に不具合が出たんだ」

 皆が思わず顔を見合わせた。誰の所為だ、俺じゃないぞ、という反応だ。

「あぁ、うちの班は直接悪くないんだけどね」

 班長は胸ポケットから〔SEMI〕を一つ取り出すと、覚束ない手付きで外装を外し始めた。いつも偉そうに指示を出している癖に実際の作業は不慣れそのものだ。

 何とかばらし終えた班長は、内部に組み込まれた小さな基板を抓み上げた。

「問題はこいつ。ここにどうも不良箇所があるみたいで、〔SEMI〕が誤作動しちゃったんだ」

「どんな誤作動ですか?」

 班長の直ぐ側に座っていた僕は、思い切って訊ねた。

「異常音を出すらしい。ミンミンミンじゃなくて、ギガゴガゲガァ~みたいな。先行納品した途端、各地の住民から苦情が来ちゃって、慌てて回収したんだ。全く参っちゃうよなぁ~」

 班長の苦笑いを戒めるように芥田さんが仏頂面で訊く。

「それはそうと、どうして外装の俺等が集められたんですか?」

 それは僕も一番知りたい疑問だった。

「あぁ……つまりだね、基板の再調整をするには外装を外さなきゃならないだろ、それも大至急で」

 何となく班長の歯切れが悪くなった。

 皆がまた顔を見合わせた。どの顔も少し強張っている。勿論、僕にも班長の言わんとしている事は直ぐに分かった。

 唯でさえ遅れ気味の生産が更に遅れる事になる。納期に間に合わせる為に連日の残業になるだろう。僕の顔も皆と同じように強張っていた筈だ。


              ◇


 作業は工場の裏手、搬送口の脇に積み上がったダンボール箱を開封する事から始まった。製造ラインの稼働は全体的に縮小され、各工程の精鋭が定時勤務の最中から先んじて不具合の対応に駆り出される事になった。

 箱を開けると、一ダース十二個の〔SEMI〕が行儀良く仕切りの中に収まっている。が、縦に五段入っているから一箱で六十個もある。取り出すだけでも一苦労だ。

 問題は基板にあるんだから基板工程の方で何とかしろ――誰もが腹ではそう思っているに違いなかったが、向こうは向こうで基板の再調整でてんてこ舞いだろう。外装の取り外しは慣れた僕達がやる方が効率的だし、兎に角、上からの指示となれば従うしかないのだ。

 翅を外し、脚を外し、頭を外し、胴体を外す。簡単に言えば組み立てと逆の作業をすれば良いだけだが、意外と面倒だった。

 翅は傷付き易いから特に気を遣う。眼も傷付き易い部位だから注意が必要だ。胴体は背中側と腹側とにパーツが分かれるが、その際、三箇所の留め爪を折らないように気を付けなければならない。剥き出しになった基板も問題の部分以外を傷付けないようにしなければならない。


 暫くすると、通路の向こうから小太りの女性社員が台車を押しながらやって来た。

「私達の所為で皆さんにご迷惑掛けてしまって、どうも済みません」

 そう言って頭を下げる女性社員の顔に、僕ははっとした。いつも社員食堂で出くわす小母さん集団の一人だったのだ。

「まぁ、困った時はお互い様だ」

 芥田さんが笑いながら言うと、滋見さんも知里さんも顔をほころばせたが、皮肉混じりなのは明らかだった。三人とも全く女性社員に目を呉れず黙々と手を動かしている。外装工程の精鋭とは、僕達四人だけなのだ。

 小母さんは、取り出した基板を台車に載せると、そそくさと廊下を戻って行った。

「例の『女の園』は基板工程のエリアだったんだな」

 滋見さんがぼそっと言った。

「ほとんどがさっきみたいな年増らしいけどな」

 知里さんが内緒話のように小声で応えると、すかさず芥田さんが言った。

「俺達は女の尻拭いをしてるって訳だ」

 そこで三人は下品な笑い声を上げたが、僕は全く別な思いに気を高ぶらせていた。

 ルミナちゃんは基板工程で働いている――。

 その内、三人組がそわそわし始めた。頻りに腕時計を確認している。釣られて僕も自分の腕時計を見た。時計の針は午後四時五十分を差していた。もう直ぐ定時退社の時間だが、解体作業はまだ半分も終わっていない。

 程なく班長が足早にやって来て、僕の耳元で囁いた。

「今日、残業出来る?」

 僕は内心うんざりしながらも首を縦に振った。残業を熟せば熟す程、僅かながら実入りは増える。それくらいしかモチベーションを高める理由がないのは悲しかった。

 班長は直ぐに行ってしまった。どういう訳か、他の三人には何も訊かなかった。不思議に思っていると、午後五時を知らせるチャイムが工場内に鳴り響いた。作業を終えた人達がどやどやと廊下を行き過ぎる。

 四分の三の精鋭が作業の手を止めている。

「あのぅ、皆さんは残業しないんですか?」

 僕は怖ず怖ずという感じで問うた。

「会社は社員に残業させたくないからなぁ」

 芥田さんが大きく伸びをしながら言った。

「社員の残業手当ては高く付くから。こんな時でも合理化、合理化って訳だ」

 滋見さんが眼鏡を取って目を瞬かせた。

「バイトは何かと扱き使われて大変だよな。まぁ、それがバイトっていう身分なんだからしょうがない」

 知里さんがタオルで汗を拭いながら他人事の台詞を吐いた。


              ◇


 十分程の休憩の後、残業が始まった。

 当然、工場内は人が少なくなり、残業のないエリアは消灯されてしまった。僕の居る搬入口だけが蛍光灯の冷たい明かりを煌々と漏らしていた。

 外装を外す音が虚しく響く。四人でやっていた作業を僕一人で熟す。単純計算で効率は四分の一に下がる。実際はそれ以下だろう。

 やっぱりこんな職場は直ぐ辞めよう――固く決心した僕の耳に、薄暗い通路の向こうからやって来る台車の音が聞こえた。当然、基板工程の方も残業だ。

 ルミナちゃんも残業してるのかな――。

 もし同じ時刻に作業が終了したら、最寄駅までの帰り道に彼女に出くわすかも知れない。僕は妄想で何とかやる気を補填した。

「基板、持って行きますね」

 背中で聞いたその声は、残業の前までの小母さんのそれではなかった。僕は慌てて振り返った。

 そこに居たのは、ルミナちゃんだった。

「あ、あれ? さっきまでの社員さんは……?」

「もう帰られました。工場内の規程で女性社員さんは残業が出来ないらしいです」

「そうか……君はバイトなんだね」

「はい」

「奇遇だなぁ、僕もバイトなんだ」

 何気なさを装いながらも心臓は早鐘だった。僕は会話を長引かせようと上擦り気味に喋り続けた。

「あっちの棟には何人のバイトが居るの?」

「私一人です」

「奇遇だなぁ、僕も外装工程では唯一のバイトなんだよ~、奇遇だなぁ」

 ルミナちゃんが軽く微笑んだ。が、どう返答して良いのか、困っている愛想笑いのようだった。

 どう会話を展開させようかと戸惑っていると、運びますね、と言って台車を押して行ってしまった。

 でも、基板はまだまだ沢山ある。この後もルミナちゃんは何度も台車を押して来る。

 僕は、薄暗い通路の向こうへ遠ざかるルミナちゃんの後ろ姿を見詰めながら、こんな仕事も悪くない、と高揚していた。


              ◇


 十分もすると、ルミナちゃんはもう戻って来た。

 再調整自体はまた明日、社員が出勤してからやるらしく、ルミナちゃんは取り敢えず基板を運んでおくように指示されたのだと言う。

「何回も往復するのは大変でしょ? ある程度、基板を取り出してから纏めて持って行った方が良いんじゃない?」

「そうですね、そうします」

 ルミナちゃんは僕の提案を受け入れたものの気まずい様子で、僕の隣で手持ち無沙汰にしている。僕にしてみれば、或る程度ここに留まってくれた方が中身のある会話が出来て好都合だ。

 ところが、いざ改まって会話をしようと思うと言葉が出て来ない。先ずは名前を訊こうか。でも、僕はとっくにフルネームを知っている。ならば、知らない振りをして訊けば良いのか。だけど、名札を見れば一目瞭然だ。わざわざ下の名前を訊くのは可笑しいだろうか。

 あれこれ自問自答を繰り返していると、ルミナちゃんから口を開いた。

「あのぅ、私に出来る作業だったら手伝いますけど」

「えっ?」

「ぼうっと待ってるのは気が引けるので」

 願ったり叶ったりだった。

「それじゃ、先ず翅を外すんだけど……」

 僕は、傍らにしゃがんだルミナちゃんに手順を教えて行った。

「ここの爪を折らないように気を付けて」

「はい……あれ、取れないです」

 ルミナちゃんが胴体部の解体に梃子摺てこずる。

「ここはこうして……」

 僕は、実際に手に触れて教えたい気持ちと闘いながら優しく説いた。

 白くて細い指が基板を取り出す。小さな掌は〔SEMI〕を握るのにぴったりのサイズらしい。忽ち手早くなった。

「凄いっ、上手いっ、才能あるよっ。明日からでも外装工程に移籍して欲しいなぁ」

 僕の一斉一代の本音混じりの軽口に、ルミナちゃんが笑った。さっきとは違い、心から笑っているようだった。


              ◇


 時刻は午後七時を回ろうとしていた。

 ばらし終えた部品を入れて山になったケースが、まるで二人だけの空間を形作っているようだった。

「もう一息ですね」

 ルミナちゃんが爽やかに呟く一方、僕の気持ちは複雑だった。

 作業の完了はこの甘い一時の終焉を意味する。残りは十ニ個。僕は愛おしむようにその一つを手に取った。

 その時、何処からか軽快な音楽が鳴り響いた。ルミナちゃんが軽い動揺を見せながら、済みません、と胸ポケットから携帯電話を取り出した。

 工場内への携帯電話の持ち込みは禁止されている。少なくとも電源は切っておかなければならない。電子機器に異常を来たす恐れがあるからだ。

 そう思った矢先だった。

 僕の掌に収まっていた〔SEMI〕が激しく羽搏はばたき始めた。突然の事で、僕は〔SEMI〕を手放した。〔SEMI〕はバタバタと床の上を転げ回った後、勢い良く飛び上がり、壁や天井にぶち当たりながら工場の闇の向こうへと消え去った。

 間髪を容れず目の前のダンボール箱が小刻みに揺れ始めた。残りの〔SEMI〕が一斉に翅を動かしているのだ。

「あっ、えっと、そうだっ、ケータイっ、ケータイの電源をっ」

 時既に遅しだった。

 取り乱す僕を嘲笑うかのように〔SEMI〕は一斉に飛散してしまった。蛍光灯の光がチラチラとした影を作り出す。

 ルミナちゃんが電源を切った時にはもう〔SEMI〕の姿はなかった。工場内の彼方此方あちこちに四散してしまったのだ。

 ルミナちゃんは今にも泣き出しそうな表情で立ち竦んでいる。携帯電話を握り締めた手が微かに震えていた。

 こんな時は取り敢えず、僕に任せて、と勇気付けるべきだったのかも知れない。なのに、僕も同じように泣きそうだった。


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「えっ? どうしてっ?! 本当にぃっ?!」

 事の顛末を聞いた班長は真っ青になり、平謝りの僕達を其方退そっちのけで取り乱した。が、慌てて口を押さえ、事務室内を見回した。自分達以外に誰も居ない事を確認したらしい。

 僕達三人は直ぐに現場へ向かった。足早に先を行く班長が平静を装った口調で後に続く僕に訊いた。

「何匹、飛んでったっ?!」

「えぇっと……十二匹です」

「間違いないっ?」

「はいっ、ケースの空になった部分を数えましたから」

 答えつつ後ろを振り返る。必死に付いて来るルミナちゃんは、いつの間にか泣いていた。少し赤くなった鼻が痛々しく見えた。

 搬入口の脇に着くと、班長はダンボールの中や陰を目紛しく見て回った。そんな所に潜んでたらとっくに捕まえてるだろ、と僕は呆れた。

 班長は一つも見付けられず、再び取り乱し気味の声で言った。

「何処へ飛んでったのかなぁ?!」

「それは……色んな方向です」

「外に逃げてないよねっ?」

「それは大丈夫です。搬入口のドアは閉まってましたから」

「あぁ〜、何だ何だ、この一大事は~っ、やっぱり基板がイカれてたから飛んだんだっ、そうに決まってるっ、基板工程の班長が責任を取るべきなんだよぉ!」

 班長が頭を激しく掻き毟りながら状況説明をする。自分のパニックを何とか鎮めようとしているようだ。

 ルミナちゃんは相変わらず鼻を啜っている。

 居た堪れなくなった僕は、思い切って提案した。

「工場内の何処かには居るんですから、僕達が捜しますっ」

「あぁあ、それしかないなっ。手分けしてやって貰うよっ!」

 いつの間にか、班長も泣きそうな顔になっていた。


              ◇


 工場内の何処に飛んで行ったのかは全く分からない。兎に角、隈なく見回るしかなかった。

 工場内の電灯はほとんど消えている。班長に点けて欲しいと頼んだが、それは拙い、懐中電灯だけで何とかやってよ、と返された。事を荒立てたくないのだ。

 班長は事務所から持って来た虫取り網と虫籠を僕達に渡すと、更にゴーグルを差し出した。

「〔SEMI〕は鳴いたり羽搏いたり何かしら稼働する時に微弱に発光する。この特殊なゴーグルはその光を感知出来るんだ」

 早速、装着。ルミナちゃんはゴーグル姿さえも可愛い。

「そして、捕まえた後はこのボタンを押すっ」

 よく見ると、虫取り網の柄にボタンが付いている。強力な磁力で〔SEMI〕を強制停止させるのだそうだ。

「それからね、まだ退社してない社員も居るから、呉々くれぐれも気取られないようにねっ」

 姑息な班長の言葉を合図に、僕達は散った。


              ◇


 班長は二階、僕は一階、そしてルミナちゃんは基板工程が入っている別棟を受け持つ事になった。

 疎らに並ぶ緑色の非常灯が、作業機器の輪郭を浮かび上がらせている。昼間はけたたましい機械音に支配された空間が、死んだように静寂の中にある。見慣れている筈の仕事場が全く違って見えた。

 汗が一筋、首筋を流れた。当然、もうエアコンも止まっている。

 ――ギギッ――

 闇の何処かで音がした。

 早速、音の方へ向かおうとしたら、通路の向こうに人影が見えた。慌てて作業機器の陰に身を潜める。汗が一気に噴き出した。

 まだ残っていた社員が、飲み会がどうのこうのと喋りながら帰って行く。幸い彼等は〔SEMI〕に出くわしていないようだ。

 僕は懐中電灯の使用に注意を払いながら更に慎重な行動に努めた。

 ――ジジッ――

 間近な闇の一部が一瞬、確かに発光した。僕は反射的に虫取り網で宙に弧を描いた。

 ――ジジジッ――

 気付いたら〔SEMI〕は網の中で暴れ回っていた。慌ててボタンを押す。〔SEMI〕は断末魔のように小さく鳴いて完全に沈黙した。

 こうしては幸先の良いスタートを切ったのだった。


              5


 懐中電灯に照らされた別棟は小奇麗に見えた。外装工程と同じように作業機器が所狭しと並んではいるが、何だかもっと近未来の雰囲気を醸している。

 あれから立て続けに六匹も確保したが、その後は幾ら闇に意識を集中しても〔SEMI〕の気配は感じられなくなってしまった。

 この棟にはもう居ないと踏んだ僕は、ここぞとばかりいそいそと『女の園』へ向かったのだった。


 精密機械の隙間から別の懐中電灯が見えた。忍び足で近寄ると、果たしてルミナちゃんだった。解体済みの〔SEMI〕を前に、携帯電話を耳に当てている。

「はい……サンプルを……」

 押し殺した声。さっきの着信の相手だろうか。

 僕は会話が終わるのを見計らって動いた。ルミナちゃんが僕の気配にびくっとして振り返った。

「……どうしてこちらに?」

「僕の担当エリアは取り尽くしたみたい」

「もう?」

「ほら、この通り」

 ルミナちゃんは〔SEMI〕の詰まった虫籠を見て感動していた。頼りになる男――そう思ったに違いない。

「ちょっと休憩しようよ」

「でも、早く見付けないと」

「この分なら思ったより早く片付くよ」

 ルミナちゃんは自責の念があるようで消極的だったが、廊下の突き当たりに自動販売機が煌々と輝いているのを見た僕は、率先して二人分のジュースを買いに走った。

 僕は、ルミナちゃんと一緒に過ごせる時間を少しでも長びかせたい一心だった。


「ルミナちゃんはいつもどんな作業をしてるの?」

 タメ口から更に思い切って下の名前で問い掛けてみたが、ルミナちゃんは嫌そうな顔にはならない。

「組み上がった〔SEMI〕が正常に動作するかどうかをチェックしてます」

 検査器に繋がった二本の端子を〔SEMI〕に接触させ、瞬間的にジジッと鳴けば異常なし、そのまま梱包工程へと流す、という作業の繰り返しらしい。

「基盤工程の女性は手先が器用って聞いたけど」

「私は不器用なんです。よく迷惑を掛けてしまって、いつも落ち込んでます」

 そうなると、まさか基盤の不具合はルミナちゃんの過失が原因なのだろうか。

「ところで、本物の蝉って見た事ある?」

「いいえ」

「だよねぇ」

 僕が子供の頃にはもうほとんどの蝉が絶滅していた。近場に捕獲体験が出来る施設もなかったから、記録映像の中でしか見た事がないのだ。

 この星に暮らす生き物が絶滅する度に、人間は良心の呵責を感じて来た。その贖罪の意識からこの国は夏の風物詩の一つ〔SEMI〕を復活させようと躍起になった。

 一部には色々と皮肉る人も居る――虫の声にも美意識を見出みいだした先人の遺伝子が歪な形で受け継がれているとか、ワンシーズンのみの消耗品つかいすてを大量生産、大量消費するのは時代錯誤だとか、実は国民の個人情報を収集し、監視する為の装置デバイスなのだとか――でも、僕みたいに何の特技も才能もない人間にとっては〔SEMI〕様様なのだ。

 ――ミーンミーンミ~~~ン――

 何処か遠くで〔SEMI〕が鳴き始めた。

「あんなでかい声で鳴いたらっ」

「誰かに聴かれちゃうっ」

 僕達は同時に走り出した。


              ◇


 時刻は午後十一時を過ぎていた。

「――十っ、十一っ、十二っ!」

「何度数え直しても、ちゃんと十ニ個ありますっ」

「良かったぁ~っ!!」

 搬入口の隅、班長が床に大の字になった。僕もルミナちゃんも思わずその場に座り込んだ。

 即席捕獲隊の任務は何とか完了した。

 映えある捕獲数一位は僕だった。二位の班長を大きく引き離していた。

 ルミナちゃんは最後の最後で一つだけ捕まえた。網を振り下ろした時の、えいっという可愛い掛け声に、僕は胸を撃ち抜かれた。今度は僕を捕まえて下さいっ――と言い掛けて何とか飲み込んだ。

「班長、〔SEMI〕の捕獲作業も残業として認めてくれますよね?」

 半身を起こした班長の顔が、懐中電灯に照らされて気不味な表情に変わった。

「知ってると思うけど、規程があるだろ。夜八時以降の残業はアルバイトでもやっちゃいけないんだ。つまりもうとっくに退社してなくちゃいけない時間なんだよ。こんな遅くまで職場に残ってる事自体、良くない事だし、工場内に残ってた理由を上の連中に問われたら〔SEMI〕を逃がした事がバレちゃうしさ。だから、八時までの手当ては出すけど、それ以降は……」

 そこまで聞いた僕は、納得した素振りを見せてやった。ここでごねたところで埒が明かないに決まっている。

「ルミナちゃん、行こう」

 僕は足早に更衣室へ向かい、明日は正式に辞める意志を伝えようと心に誓った。


              ◇


 更衣室は工場の作業員用出入り口の直ぐ外にある。そそくさと私服に着替えた僕は、隣り合った女子更衣室の前でルミナちゃんを待っていた。

 今夜の突発的なアクシデントのお蔭で、僕達はそれなりに親しくなれた筈だ。辞めると決めた以上、この工場でルミナちゃんと合う事はもうない。何かしら連絡先を訊いておかなければ永遠のお別れになってしまう。

「あ、お疲れ様っ」

 虚を突かれたようでルミナちゃんは軽く退いたが、直ぐに笑顔で答えてくれた。

「お疲れ様です」

「あの……駅まで一緒に帰りませんか?」

 ルミナちゃんが一瞬、固まった。その後、申し訳なさそうに言った。

「ご免なさい。彼氏が直ぐそこまで迎えに来てるので」

 咄嗟に吐いた嘘なのかどうか、僕には判断が付かなかった。分かっているのは、もう僕には何も出来ないという事だった。

「あぁそっか、そうなんだぁ」

 僕は精一杯、愛想良く振る舞った。これが、立つ鳥跡を濁さずかと思った。


 ルミナちゃんが非常用口から足早に出て行く。僕はその後ろ姿をぼんやり見詰めていた。

 歩道に影を伸ばしながら、ルミナちゃんが不意に振り返った。街灯で逆光になり、顔はよく見えない。でも、可愛いに決まっている。

「携帯電話の事……班長に黙っててくれてありがとう」

 手を挙げて応える僕。

 あれは咄嗟の判断だった。片想いの女の子を売るような真似が出来る筈もない。勿論、ここで庇えば貸しを作れる、という嫌らしい思惑が働いた事も否定しない。


 ルミナちゃんは、幹線道路の隅で待っていた黒塗りのワンボックスカーに吸い込まれた。内側からスライドドアを閉めたのは屈強な腕だった。運転席も含め、大柄な人影が何人も乗っているように見えた。

 どの人が彼氏なのかな――急に数時間前の出来事が蘇った。

 事件の原因を作ったルミナちゃんの携帯電話。禁止事項を無視して持ち込んでいた事自体も気になったが、着信の相手は彼氏だったのだろうか。その後こそこそと電話をしていたのも彼氏だったのだろうか。

 黒塗りの車体は逃げるように走り去り、見る見る内に小さくなって行った。


              6


『今年の夏はあの風物詩に異変です』

 アナウンサーが澄ました声でヘッドラインを読み上げる。

『今回の不祥事は関東地区を中心に影響を及ぼすと見られ、蝉時雨が減退する所謂『空蝉からせみ』は避けられない事態となりました』

 僕達があんだけ頑張ったのに、結局、納期には間に合わなかった。何人もの関係者が責任を負わされた事だろう。工場長は勿論、班長も何処かへ左遷ばされた。

 僕はと言えば、虫取りの翌朝、今度こそ本当に辞めるつもりで出勤した。もう下らない忖度は真っ平ご免だったし、失恋のショックに背中を押されていた。

 その前に、もう一度だけルミナちゃんに会いたい――と社員食堂で待ち伏せしていたが、どやどやと現れたピンク軍団の中にその姿はなかった。

「あぁ、あの子なら辞めた」

「やっぱり今時の子ねぇ、普通、前以て言うでしょうが」

「まだ若いから常識が解ってないのよ」

 僕は、取り敢えず現状維持を決めた。今、辞めたところで、どうせその先に何の当てもない。それに、給料日前ですっからかんなのだ。


 解説員が説明を加える。

『外資系企業大手の実用試験済み機種〔cicadaシケイダ〕を国内市場へ投入する事に関しましては、以前より業界団体から反発の声が上がっていましたが、今回の不祥事が外来機種の自由化に拍車を掛けるきっかけになるという見方が――』

 続いて謝罪会見の様子が挿入される。

『この度は誠に申し訳ありませんでした。慎んでお詫び申し上げます』

 初めて見る代表取締役社長は、想像に反しない普通の小父さんだった。

 記者から納期が遅延した理由を問われても、不徳の致すところとか、慢心があったとか、はぐらかすばかりだ。

 翌日の工場内は蜂の巣を突いたようだった。

「〔SEMI〕の数が合わないんだとよ」

 芥田さんが薄笑いを浮かべて教えてくれた。他の社員も蚊帳の外を決め込んで井戸端会議に花を咲かせていた。

「誰かがパクったんじゃないのぉ?」

「エントランスにセンサーがあるから外部には持ち出せないだろ」

「センサーって非常用口にもあるよな?」

「勿論……あ、でも節電の一環で定時勤務後は切ってるってさ。どうせ人は通らないんだし」

 僕は思い出す。

 闇の中で電話をするルミナちゃんを見掛けたあの瞬間、もう一方の手がポケットに何かを忍ばせていた――。


 テレビは社員食堂の面々に他人事を伝え続ける。

『それでは週間予報です。全国的には例年通り激しい蝉時雨が降り注ぐ事が予想されますが、先程からお伝えしておりますように、国産の〔SEMI〕は前年の30%減と見込まれ――』

 それに付けても、やっぱりルミナちゃんに会いたい。

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SEMIが鳴くから今は夏 そうざ @so-za

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