第2話 鬼ごっこ
「ところで、や」
仕切り直し。卓美先輩がホワイトボードを取り出す。
「帝王寺高校との模擬戦は五月五日月曜日こどもの日になった。場所は我らの庭である飯盛山。初心者へのハンデっちゅうことらしい。なめやがって」
ただ『GW』とだけ書かれていたところを消して『5・5(月)』に修正する。
初心者というのはもちろんあたしのことだ。ハンデあざっす。
「それから、我らが顧問の
和子ちゃんというのは古文の本田和子先生のことである。
赤のマジックペンがキュッキュと滑る。
「五月二十四日土曜日。場所は
ホワイトボードの『五月末』を消して『5・24(土)』と書き込まれる。ちなみに今日は四月三十日水曜日である。
「四月も今日で終わり。五月一、二が終わればゴールデンウィークに突入する」
「で、いよいよ卓美コーチになるわけですか」
燐先輩がホワイトボードを指し、言う。ホワイトボードの真ん中には、四月の初めに書かれた文字がまだ残っている。
『5・5(月)→模擬戦
5・24(土)→春季大会
修業! ・基礎体力(コーチ:フーコ)
・基礎知識(コーチ:りんちゃん)
・プラスアルファ(コーチ:オレ) 』
「プラスアルファってやつですね」
「せや。プラスアルファの修業編は三日で終わらせようと思ってる」
今日と、明日、明後日の三日。それで今週は終わりだ。
「そしてオレの考えた修業は超シンプル。その名も――」
「その名も……?」
「『鬼ごっこ』や」
「鬼ごっこ⁉」
学校を出て、やって来たのは
「こんなデカい公園が学校の近くにあったんですか。知りませんでした」
「まぁ、駅から学校挟んで反対側やからねー」
風子先輩がこたえてくれる。
「一周すると約三キロですね。途中野球場、テニスコート、アスレチックなど、さまざまな施設があります」
さらに燐先輩が解説をする。
「ここで、オレと天が鬼ごっこをする。もちろん鬼は天の方や」
卓美先輩は屈伸運動をしながら言う。
「つかまえてごらーん」「待てー」「うふふふふー」みたいな一連の妄想をしてみたが、どう考えてもそうはならないことが分かっているので妄想も楽しくない。この人、ガチで逃げるつもりだ。
「悪いけど、風子と燐ちゃんにはジョギングをしといてもらう」
「おっけー。オリエンも坂道ばっかりじゃないもんなー」
「構いませんよ」
「それで、オレはこの公園内を全力で逃げ回る。天はオレを何とかして捕まえるんや。回り込んでも待ち伏せしてもまっすぐ走ってきても、何でもええ」
「はいっ!」
やる気だけはあった。できれば王子様に捕まえてほしかったけれど、逆もまた良しとしよう。じゃじゃ馬系王子様を捕まえるのだ。ワクワク。
「一応これ渡しとくわ」
卓美先輩に手渡されたのは、公園マップ。いつも見ている地形図ではなくて、子供でもわかるような園内図だった。
「もし途中でオレを見失ってもうたら、園内を周回ジョギングしてる燐と風子に目撃情報を聞いてもええ。その情報をもとに、次の手を考えてくれ」
「なるほど、なるほど」
そのための園内マップか。公園は随分大きく、いくつかのエリアに分かれていた。
「制限時間は、風子と燐が園内を二周するまで。二周は六キロやから、のんびり走って四〇分くらいかな」
「はい」
現在十六時十分。タイムリミットは十七時前くらいということになる。
「じゃ、早速はじめよか。オレが逃げて、二人が走り始めて、三分後に天は追いかけはじめてくれ」
「了解です」
「そいじゃ、よーい、スタート!」
現在地は、緑地のいちばん北にある入り口から入ってすぐ、円形花壇のあるところ。園内を流れる小川を越えるとバーベキュー広場、桜の園、それから芝生広場がある。芝生広場のさらに向こうには「恐竜広場」があって、恐竜を模したアスレチックで放課後の小学生や幼稚園児たちが遊んでいる。小川よりこちら側にもアスレチックがあって、それは「とりで広場」と書かれている。
マップと照らし合わせてみると、今目に見えている範囲は、緑地全体から見ると、三分の一に過ぎないことが分かる。
この緑地は大きく分けると三つのエリアに分けられる。園の東側をはしる国道と西側の道路をつなぐようにして大きな橋が二つ平行に架かっていて、それが緑地を三つに分けているように見える。北部と中央と南部だ。
あたしが今いる場所、さっき見渡したところが北部。中央入って西側は
卓美先輩の緑ジャージはとっとこ走っていって、芝生広場をウロウロしていた。遮蔽物の何もない、ほんとにただ芝生が広がっているだけの場所である。逃げも隠れもしないということらしい。いや、鬼ごっこなんだから逃げはするだろうけれど。
三分経過。
これであたしもスタートできる。卓美先輩は芝生広場のど真ん中で腕組みして仁王立ち……。もうちょい逃げるそぶりをしてほしかった。芝生に緑ジャージでカメレオン効果をねらっているわけでもなさそうだ。ジャージの緑はあまりに人工的すぎるので丸見えだ。
「誘ってやがるな……」
そっちがその気なら――ということで、あたしは正面から突っ込んでいった。
随分となめられているが、あたしはもう中学の時の――東京にいた頃のあたしではない。
週に一度か二度、体育の時間に走るか走らないかだった女子が、毎日走って、しかも山に登っているのだ。成長していないはずがない!
「うおおおおおおお!」
と突っ走り、ターゲットに迫るも、あと少しのところでひょいと避けられる。グッとかがんだかと思うと、次の瞬間には右へ、左へ。
「フッ……そっちは残像や」
「な、なにぃ」
いや、さすがに残像見えるレベルじゃないけど。
卓美先輩は、わざとギリギリまであたしをひきつけ、ヒラリヒラリと躱す。そのステップはダンスのよう。
遊ばれてる!
弄ばれてるぞ、あたし‼
それはそれで興奮するな……と思ったのは内緒だ。
「よし、準備運動は終わり。そろそろ本気で逃げるわ~」
ひとり興奮してきたあたしを知ってか知らずか、卓美先輩はバックステップで距離を取り、くるりと方向転換して走っていく。ぐんぐんスピードに乗る。
「え、ちょ、待って~」
慌ててあたしも走るが、芝生広場の端で完全にちぎられてしまう。
「ぜぇ、はぁ……ふぇぇ」
とりあえずターゲットが深野池のある水辺のエリアへ向かったことだけ確認し、しばし息を整える。
芝生のど真ん中、公衆の面前で、さんざん弄ばれて、真正面から向かっても勝てないことを学んだ。
そう、あたしは学習する子なのだ。
きっと、卓美先輩はそれを分からせるために、わざとあんなことをしたのだ。悪気があったわけではない……たぶん。仮に、卓美先輩が実はドSだったとしても、それはそれで受け入れられると思う……って、それは置いといて。
「つまり……」
最初に手渡されたマップを見る。自分の位置を把握する。
このマップでもって相手の位置を予測し、先回りするルートを考えるなり、待ち伏せする場所を考えるなりして、頭を使って捕まえてみせろ、と。
「そういうわけですか」
一人で納得する。
もう一度マップを見て、水辺のエリアに入った卓美先輩が次に進むであろう可能性を考えてみる。
1、まっすぐ南へ抜けて、緑地最南エリアへ向かう。
2、東へ折れ、球技広場やテニスコートのエリアへ向かう。
3、水辺のエリアで留まる。
4、あたしが先回りすると予想して、あえてUターンしてくる。
このくらいかな。
鬼ごっこにおいて、自らエリアの端っこに行き、逃走ルートを減らすというのは、どうにも間抜けだ。だから1はなさそう。中央エリアに留まってあたしの出方を窺うと言うのが、可能性高そうかな。
「よし……」
池と球技広場の間に、直線の道がある。その道の先には東西南北からの道が合流するちょっとした広場がある。そこを視野に収めながら動けば、ある程度向こうの様子を監視できる。
休憩は終わりだ。
園内の真ん中を走る直線の道。等高線など当然引かれていない公園マップではわからなかったが、この道はちょっと高いところにある。南に向かって走ると、右手に水辺のエリアを見下ろすことができるようになっている。
「ラッキー」
高台に出るというのは作戦ではなかったものの、見晴らしがいいとターゲットの動きを補足しやすくなる。これはいいことだ。
……だが。
水辺のエリアに、すでに卓美先輩の姿はなかった。まさか水中に……? などとアホなことを考えたが、やはりいない。
そしてふと視線を前方へ戻すと……いた。
十字路の広場で、こちらに向かって手など振っている。
「むきー!」
マンガみたいな怒り方をして、猛然とダッシュする。
小学生の頃、そんなに広くもない校庭で鬼ごっこをしたことを思い出す。逃げる者は「鬼さんこちら~手の鳴る方へ~」などと、どこで覚えたのかも覚えていない歌詞で煽りながら逃げたものだが……うん、鬼とは孤独な生き物よのう。
「ぎゃふ‼」
それは突然起こった。鬼の孤独に思いをはせている時、突然起こった。
いや、簡単に言うとコケただけなんだけど。
踏み出した右足が、バナナの皮でも踏んだように、そのまま前へスライドする。後から出した左足が無意識にブレーキをかけて、比較的穏やかに尻もちをつく。
痛いのはケツだけ。どこも擦りむいたりはしていない。流血なし。
「おーい、大丈夫か~。ちょいタイムなー」
無様に転んだあたしに、卓美先輩が駆け寄ってくる。一時休戦ということらしい。
「すいません、大丈夫ですー」
「いや……あんまり大丈夫ちゃうな……」
「え? でも、尻もちついただけで……」
「そうやなくて、これ」
あたしのそばにかがんだ卓美先輩が、あたしの右脚をひょいと持ち上げる。
なにごと⁉ と思って見てみれば、なるほどあたしの「靴」の方が大丈夫ではなかったらしい。
学校へ来るときにいつも履いていたスニーカーの
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