第2話 読図の基礎知識
「そういえば、山川さんが遅刻なんて珍しいですね」
「ええ、まぁ。古文の小テストで居残りを喰らってしまって」
いつもの道を走りながら、最初のうちはおしゃべりをする。
「一年の古文というと、本田先生ですか?」
「え、はい。二年生もですか?」
「いえ、二年は違いますが」
「おや、ではどこで接点が?」
「本田和子先生はオリエン部の顧問ですから」
「ほぅ……えぇ⁉」
「ええ」
「顧問なんていたんですか」
「一応正式な部活ですから、顧問はいます」
「初耳です」
「まぁ、本田先生は軽く登山をたしなむ程度で、オリエンにはさほど詳しくないですからね。普段はいらっしゃいません」
「な、なるほど」
「どこかの大会に出向くときは引率で来てくださいますが」
「は、はぁ」
「さて、走るのに集中しましょうか」
だんだん息切れしてきたあたしを気遣ってか、燐先輩は口を閉じてあたしの少し前を走る。「は、はぁ」というのが返事ではなく乱れた呼吸音だということがバレてしまったらしい。
風子先輩との体力トレーニングの効果か、燐先輩が手加減(足加減)してくれたのか、なんとかそれほど遅れずについていく。そしていつもの
「さて、いつもはなんとなく登山道を歩いていますが、今日は地図を意識しながら、自分の位置を確かめながら歩いてみましょう」
「は、はい」
「当り前ですが、山の中に住所はありません。地形図を見て、次に現れる地形を予想し、歩かなければ、走らなければなりません」
見よう見まねで、あいでんてぃふぁい? というのをする。地図上の北と、コンパスの示す実際の北を合わせる。
「たとえば今から尾根道に上がるわけですが、尾根の右手と左手にどういった違いが出てくると思いますか?」
「えーと……」
あたしは地図とにらめっこする。今いるのは神社の鳥居マークがあるところ。それはわかる。登山道である尾根道には点線が入っているから、それもわかる。尾根は南北にのびていて、ここから見て山頂は南にあるので、尾根の右手は西、左手は東ということになる。
違い、違い……?
同じように等高線が並んでいるように見える。
「うーん、わかりません」
「針葉樹林の記号と、広葉樹林の記号はわかりますか?」
「あ、はい」
針葉樹林は尖った細長い、三角のできそこないみたいな記号。広葉樹林は丸の下に線が一本飛び出した記号。よく見てみれば、尾根の右手の山腹には針葉樹林の記号。尾根付近から左手に広葉樹林の記号がある。
「わかりましたか? これから歩く道は、右手に針葉樹林、左手に広葉樹林が見える道になるわけです」
「わ、わかりました」
「樹種まで覚えなくてもかまいませんが、広葉樹と針葉樹くらいは判別がつくでしょう」
「はい」
針葉樹はまっすぐ生えた杉とかヒノキ。葉もツンツンしてる。広葉樹は、葉っぱがデカくて幹も枝もあんまりまっすぐじゃない。くらいの違いか?
「広葉樹は、日当たりがよく、水はけのよい尾根に多いですね。逆に針葉樹は谷沿いに多い」
「ふむふむ」
心のメモ帳にメモする。中学校の社会科でも習ったような気がするが、実際の山で確認したのは初めてだ。木なんて、公園に植えられている広葉樹のイメージばかりだった。
燐先輩が少しスピードを上げる。あたしもあわててそれを追う。最初は緩やかな登りだ。たまに視界が開けて、町並みが見えたり谷の方が見えたりする。
「ストップ」
と、そこで先輩が急に立ち止まる。
「さて、ここはどこでしょう」
そして問う。
「あ……すいません、地図見てませんでした」
「いいんですよ。終始地形図を見ていては走れません。私も、いつも現在地が言えるわけではありませんから」
「そうなんですか? 何でも知っているのかと」
「何でもは知りません。GPSではないので。実際歩いた感覚と地図上での距離がなんとなくわかればいいのですが、初心者にそこまで期待していません」
実際今、何メートル歩いてきたのか。そんなことは確かにわからなかった。麓まで走ってきて疲れているから、すごく歩いたような気もするし、実際にはそんなに歩いていないような気もする。しかも山は傾斜があるから、直線距離で何メートル歩いたかなんてわかりっこない。
「じゃ、じゃあ、どうすれば……?」
「今立っている場所と、周囲の地形を見て、地図上で一致する点を探します。それで常にわかるわけではないですが、ここは比較的わかりやすいポイントです」
「ふむぅ」
「わかりやすい地形が出てきたら、そこで一度自分の位置を地図上で確認したほうがいいでしょう」
「ふむむぅ……」
地図と実際の地形を見比べる。ゆるやかな登りを、特に大きくカーブするでもなく、まっすぐ登ってきた。そういえば、いつの間にか右手に背の高い針葉樹が見えなくなって、視界が明るくなってきている。そして右側を見下ろすと、斜面が結構急だ。翻って左側は、比較的穏やかな斜面となっている。
地形図に戻ってみる。神社から尾根道をなぞりながら、右手が急な斜面、左手が緩やかな斜面になっているところを探す。たしか、等高線が密集しているところが急で、まばらなところが緩やか……。
「このあたりですか?」
指差し、コーチに見てもらう。
「大雑把ですが、だいたい合っています」
評価は厳しめだが、燐先輩は小さく笑ってくれた。
「前方を見てください」
「はぁ」
先輩の指す方向を見ると、道がゆるやかに続いているが、その先に階段が現れる。
「あそこから、急坂がしばらく続きます。地図で言うと、ここです」
コーチの爪の先が示す点から、直線距離約100メートル。等高線の詰まった尾根道が続いている。
「うへぇ」
「そうでしょう。嫌でしょう。しかし、あらかじめ地図を見て予測できていれば、ペース配分もできます。卓美なら斜面が緩やかなうちにトップスピードで走るでしょうし、風子なら坂道に自信があるので、ここで体力を温存するでしょうね」
「先輩なら、どうするんですか?」
「私ですか? 私は、その斜面、その距離に適したギアで走るだけです」
「ギア?」
「自転車といっしょです。坂道では馬力が必要ですし、平面ではそんなに馬力がなくても、速く進む。そうしているだけです」
「それがいちばん難しいような……?」
「そうですか?」
風子先輩はマイペースに一定のペース配分だったが、燐先輩は地形のこと、自分の体力のことを計算しての、ペース配分。いわばエコカーのような省エネ。あたしはどっちが向いているんだろう。
「さ、次に行きましょう。まだまだ教えなければならないことがあります」
「うっす」
そんなこんなで、ところどころ自分の居場所を確認しつつ、山頂へ。そこで卓美先輩、風子先輩と落ち合う。
「お、来たな。どや、勉強ばっかで疲れたやろ?」
「どうやった? 天ちゃん」
「えぇ、まぁ疲れましたが……なんか地図に強くなった気がします」
「ほーう、優秀やなー。オレなんか、いまだ燐ちゃんに怒られるのに」
卓美先輩があたしの肩をぽんぽん叩く。
「だから燐ちゃんはやめなさい……でも、たしかに山川さんは優秀ですよ。飲み込みが早い」
「えへへ」
「しかし今日教えたのは基本中の基本であって……」
「まぁええやん。今日のところは。はよ帰ってコンビニでアイス買って食おうやー。疲れた頭には甘いもんやで」
燐先輩の話をぶったぎって準備運動を始める卓美先輩。むっとした燐先輩にまぁまぁと声をかける風子先輩。
今日も平和だ。
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