第三章 どくず!

第1話 距離感の難しい先輩

ショーコ「あのさ、毎回部活の話するけどさ……あんた勉強してんの?」21:57


既読22:00「は? あたし学年トップクラスで入学したはずだし?」


ショーコ「スタート地点はそうかもしれないけどさ。うさぎとカメの話知ってる?」22:04


既読22:06「知ってる……」


ショーコ「運動に目覚めたのはいいけどさ、田舎って馬鹿にしてた学校で落ちこぼれにならないでよね」22:07


既読22:09「オリエンは頭も使うスポーツだって先輩も言ってたし……」


ショーコ「地理は得意になるかもね。でも数学とか英語とか国語とか、さ」22:11


既読22:13「そういうショーコはどうなの?」


ショーコ「わたしはカメだからさ。コツコツやってますよ」22:15


既読22:20「あたしがうさぎだって言いたいのかい」


ショーコ「せいぜい追い越されないようにね」22:20


既読22:21「むきー」


   ◇◇◇


 「むきー」とかいう頭悪そうな字面に軽く眩暈がする。スマホをベッドに放り投げて、自分の身体は机に向かう。明日は古文の小テストがあるのだ。オリエンをやっていても、動詞の活用は覚えられない。


 正直言ってショーコの指摘は的を射ていた。ズバズバ射ていた。直撃だった。命中。致命傷。


 人をダメにするのはスポーツでも漫画でもゲームでもなく、怠惰だ。勉強をしないやつが馬鹿になる。当り前のことだ。


 今まで帰宅部だったあたしは、授業中に睡魔に襲われることなどなかった。放課後はすぐに帰るし、塾に行って勉強して、帰ったら流行のドラマだけ見てすぐ寝る。遊びに行くことだってあったが、ショッピングとかカラオケとか、体力は使わないライフスタイルだった。


 それが、ここ数週間、急に運動をするようになって、授業中が眠い眠い。そして、部活が終わって家に帰るとすぐにでも寝たい。そもそも体力を培ってこなかったあたしは、睡魔に勝てない。


 今日も奴が来た。

 せ、し、す、する、すれ、スヤァ



「では、小テストを返却します。満点じゃない人は放課後再テストなので」

 古文の教師、本田ほんだ和子かずこ先生は言う。生徒からは「えー」とか「部活がー」とかブーイング。あたしも心の中でブーイング。


「動詞の活用表が埋められないようではこの先が危ぶまれますからね、貴方たちのためです」

 本田先生は、おばあちゃんとおばさんの境目くらいの年齢。つまり高校生のあたしたちからすると、よくわからない年齢。小柄ながらも背筋はピンと伸びていて、動きもキビキビしているのでなんだか威厳がある。


 さて、あたしの手元に小テストが返ってくる。

「…………」

 あ、サ行変格活用間違ってるわ。



 放課後。

「野暮用でちょっと遅れます(汗)」という旨のラインを部長に送って、「了解」というそっけない二文字で返ってくる。


 卓美先輩へのはじめてのメッセージ。

 一応同じ部のメンバーだから連絡先は交換したものの、毎日会うため、ほとんど連絡をとる口実が見つからないでいた。そして、ついに今日! メッセージを送らなければならない口実ができた! ちょっと情けない口実で不本意だけれども。


 小テストが終わって居残り確定した瞬間から放課後まで推敲に推敲を重ね、無駄をそぎ落とし、最後の(汗)にウザすぎず硬すぎずなニュアンスを込めた渾身の一文を作成した。そんな暇があれば再テストに向けて勉強をしろという話だが。


 ともかくそんな渾身の初メッセージに対する返信は三〇秒くらいで来た。二文字。


 うん、今日もクールでかっこいいぜ!


 返信を見てから本田先生がやってくるまで、動詞の活用表を睨みつけて必死で覚えた。何かクラスメイトのなわて大地氏が話しかけてきたが、気にもしなかった。一刻も早く再テストを終え、卓美先輩のもとへ参上するために!


 「やればできる子」こと山川やまかわそらは、一発で再テストに合格し、部室へ向かった。うん、まぁ、再テストの時点で一発ではないのだけれど。


「すいません、遅れました……て、あれ?」


 部室には、森本もりもとりん先輩ただ一人。青チャートなど広げて数学を嗜んでいらっしゃる。


「こんにちは、山川さん。今週は私があなたのコーチを担当します」


 先輩は勉強道具を一旦置き、メガネをくいっと上げてから、あたしの方に右手を差し出した。


「あ、ど、どうぞ、よろしくお願いします」

 予期せぬ展開に少し慌てる。

「よろしく」

 なぜかお互いあらたまって握手を交わす。


「あ、あの、他のお二方は?」

「二人はトレーニングに行ってしまいました。山川さんは私と後から山に向かい、読図の練習をして、それから二人に合流します」


 どくず。読図ね。

「読図って、地図を読むやつですね」

「そうです。最初に飯盛山へ行ったときに少しレクチャーしましたね」


 卓美先輩がいなくてがっかり……というような顔はしない。恋する乙女といえど、礼儀はわきまえているつもりだ。


 ただ、森本燐というこの先輩とは、微妙に距離を測りかねていた。握手したから物理的距離はゼロ、とかそういう話ではない。精神的距離のことだ。ワイルドに向こうから近づいてくる卓美先輩や、おっとりしていてとっつきやすい風子先輩とは、少し違う。


 だいたい関西弁じゃないし。誰にでも敬語だ。そんな関西人もいるんだ……いや、それはいいんだけど。


「どうしました?」

「い、いえー。なんでもないっす」

「そうですか。では着替えましょう。あんまりゆっくりしていると、二人が待ちくたびれます」


 燐先輩は部室の鍵を閉め、さっさと制服を脱ぎ出してしまう。いつも通り、黒ストからスポーツタイツに履き替えてから短パンを履く。あたしも体操服を取り出し、着替える。


 今まで気がつかなかったが、燐先輩は山へ行くときには眼鏡を取り換えていた。黒縁眼鏡から、黒縁眼鏡へ。ほとんど違いがわからない。どうりで気がつかなかったわけだ。


「あの、眼鏡二種類あるんですね」

「ええ。こちらはスポーツ用なので、ぴったりフィットするんです」

「ほー」

「普段からこっちを使えばいいんですけどね。気分転換です」


 燐先輩はなぜだか恥ずかしそうに目をそむける。眼鏡に触れるのはよくなかったのだろうか? 黒ストから黒ストに履き替えるのもそうだが、傍目にはよくわからない謎のこだわりが多いのかもしれない。


 スイッチを切り替えて気合を入れる儀式ということだろう。あたしも家に帰ったらソッコーで部屋着に着替えるし……というのはちょっと違うか。


「今日は地図とコンパスをポケットに入れておいてください」


 初日にも見せてもらった、文字盤がプラスチック定規みたいに透明になっているコンパス――オリエン用ないし登山用のシルバーコンパスと、透明なジップロックみたいな袋に入った地図を手渡される。


「シルバというのは銀色とは関係なく、ラテン語で『森』という意味です。シルバ社の出しているコンパスのことをシルバーコンパスと言いますね」

「へー」

「地図は防水してあります。雨が降ってもいいようにというのと、ポケットに入れていると汗でにじんでしまうなんてこともありますからね」

「ああ、それでジップロック……」


 地図をくるくると丸め、体操着ズボンのポケットへ。コンパスも入れる。走りの妨げにはならない程度の荷物だ。


「一応言っておきますと、大会本番は自分一人で山の中を走らなければなりません。したがって、地形図が読めないと遭難します。そのへんの低山でも、遭難事件というのは結構あるのですよ」


「なん……ですと……」

 気が抜けまくっていた顔が自動的に引き締まるのを感じる。


「あ、やはり齟齬がありましたか。チームでいっしょに行うオリエンテーリングもあるのですが、高校の体育大会ではリレー方式になります」

「つまり、先輩たちの後ろにくっついていればよい……ということではない、と」


 体力さえなんとかなれば、先輩たちにくっついていけば、なんとかなるんじゃないかと思っていたが、現実はそう甘くはなかった。


「そういうことですね。その意味でも、結構重要なパートだと言えます。がんばって身につけてくださいね」

「はい!」

 低山遭難者として地方のニュースになるのはごめんだ。


「さ、行きましょう」

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