第5話 山頂の景色
スローライフとか山ガールとか、自然と触れ合うとか……
関西風に言うと、「アホちゃうか」と思った。
まだ四月だというのに汗がだらだらと落ちた。息が上がる。苦しい。脚が痛い。気づけば地面ばかり見ていた。というか正直帰りたかった。景色とか山頂とかどうでもいいから、家に帰ってお風呂に入ってベッドで寝たい。今の欲求はそれだけだった。
自然と触れ合うとかアホだわ。自然超厳しいわ。東京に住む我が友、ショーコに教えてあげたかった。
「おーい、天。生きとるか?」
いつの間にか、随分先の方を歩いていたはずの卓美先輩が、目の前にいた。
「だ、だいじょうぶれふ……」
「全然大丈夫ちゃうやろ。休憩しよか」
尾根道の端、少し平たくなったところに、あたしと卓美先輩が座る。ベンチなんて洒落たものはないので、腰掛けやすい岩にどっかり座る。普段のあたしでは考えられないが、今は休めればなんでもよかった。
見上げると、少し先の方で風子先輩と燐先輩も休憩していた。何やら木の幹を指して燐先輩が解説しており、風子先輩がふむふむうなずいているようだった。鹿が幼木の皮を剥いで食べるとか角をこすりつけるとかそんな話。鹿? 鹿って奈良公園にいるんじゃないの?
それにしても、みんな結構涼しい顔をしている。あたし一人だけ汗だくで、はぁはぁ言って、バカみたいだった。
「なぁなぁ、天ちゃん」
妙に人懐っこい声で、卓美先輩があたしを呼ぶ。
「なんでしょう?」
振り返ると、ニコニコした先輩が、なにやら細くて長い、黒い紐状の物をつまんで揺らしていた。
紐は妙にウネウネと蠢き、先端からはチロチロと舌のようなものがのぞいていた……というか、それは蛇だった。
「ぎゃぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
あたしの絶叫に驚いたのか、近くの木々にとまっていた小鳥たちが逃げ出す。
「そんな叫んだら蛇さんびっくりするやん」
卓美先輩は平気な顔で手に持った蛇をぷらんぷらん揺らす。ごめんなさい蛇さん小鳥さん。いや、びっくりしてるのはこっちだ。
「だ、だだだ、だって蛇ですよ。危ないですよ!」
「だいじょぶだいじょぶ。毒ない奴やし。まぁ噛まれたら痛いかもしれへんけど」
卓美先輩は、あたしのビビりっぷりを見てさすがに反省したのか、蛇を遠くに放り投げた。ブンブンブン、遠心力をつけて、ポーイ。
「うーむ、緊張をほぐそうとおもてんけど……」
しょんぼりする卓美先輩。可哀そうな気もしたが、いや今のはあたしのほうが可哀そうだろと思い直す。
「山、嫌いになったか?」
「え、いや、そんな……」
突然のシリアスな声音に、まごついてしまう。
正直、もう嫌になっていた。ちょっと山に入っただけですぐ弱音を吐くだなんて、こんな自分が情けないとも思った。もしかすると、自分を嫌いになるのが怖くて、何か別のものを嫌いになろうとしているのかもしれなかった。
「ええねん、ええねん。別にオレに気ぃつかわんでも。顔色見たらわかるし」
「…………」
「でもな、もうちょっとだけ我慢してくれたら、オリエンの楽しさを伝えられると思うねん」
「……え?」
「山を登るのは、山を駆け巡るのは、そらしんどいねん。燐ちゃんはオリエンのことを知的なスポーツってゆったけど、やっぱり山を走るんやから、体力がいるねん」
卓美先輩はグッとガッツポーズをして見せた。女性にしては発達した上腕二頭筋。
「山を征するには、頭も体力も両方いるっちゅうこっちゃ。そういう基礎があると、山を楽しめるんや」
先輩は少し先にいる二人を指した。風子先輩と燐先輩はいまだに木の幹について議論を交わしているようだった。
「べつに無理にとは言わんけど、今日はもうちょっとだけ、山頂まで、いっしょに頑張ってみーひんか?」
卓美先輩が、あたしに手を差し出す。
あたしは――その手を掴んだ。
彼女に惚れたから……ではなく、自分の意志で、掴んだ。
最後の階段を這うように上がって、ようやく山頂にたどり着いた。
山頂付近は開けていて、東屋があった。その向こうには武士っぽい人の銅像があったが、そちらはあまり気にならなかった。あたしの目は遥か下の方に見える町に向いていた。
「えぇー、こんなに登って来たんですか⁉」
興奮気味のあたしを、先輩たちがにこやかに見ている。
「そうやで~」
「こんなに、とはいえたかが314メートルですがね」
「細かいこというなや、燐ちゃん」
「その燐ちゃんというのはやめてもらえませんかね」
「燐ちゃん燐ちゃん燐ちゃん」
「やめなさい!」
ここから見える景色は、山頂に少しだけ咲いていた桜に縁どられて見えた。春霞の中に、つい先ほどまで、あたしたちのいた町がある。線路が一本走っていて、町を分割しているように見える。あたしが今朝乗ってきたJR線だ。黄緑色の四角い土地は田んぼや畑、向こうの方に鬱蒼とした緑が見えるが、それは大きな公園だろう。茶色いグラウンドがいくつか見えた。そっちは学校だ。
見えるものを列挙すれば、ただそれだけ。でもそれは特別な景色だった。エレベーターでスカイツリーにのぼって見た景色とはあきらかに違う。なんだかうまく言えないけれど、自分の足跡がついていることがわかる……そんな感じだ。
「どれが楠木高校かわかる?」
風子先輩があたしの肩に手を置いた。
「うーん、結構学校っぽいところたくさんありますね……」
「あの、校舎がアルファベットのHみたいになってるとこあるやろ?」
風子先輩の指先を追う。
「校舎の向こう側に、グラウンドが広がってる……」
ぼんやりと、焦点があってくる。
「あ、見えました!」
それは随分と遠いところのような気がした。
「あんなところから、自分の足で……」
あたしは、謎の感動に打ちひしがれていた。
「せやで。これからあっこまで帰らなあかんけどな」
卓美先輩の無慈悲な一言によって、感動タイム終了。
それから、しばらく休んだ。山頂を吹き抜ける風が気持ちいい。山頂に佇んでいる武士っぽい人の像は
「飯盛山。逆から読んだら
卓美先輩はガハハと豪快に笑った。
「ここはもともと、飯盛山城があったみたいです」
燐先輩が解説を加えてくれる。
「よう見たら、石垣みたいなんの名残が途中にもあってんけどな」
風子先輩もそれに付け加える。
「石垣ですか、ちっとも気がつきませんでした」
「古城の跡とか、聞いただけでワクワクするわ~」
卓美先輩は少年のような笑顔を見せた。もはや少年なのではないかと思った。あたしはどっちでも大丈夫ですよ……などと阿呆なことを考えられる程度には、体力も戻ってきていた。
「さて、そろそろ戻りますか」
燐先輩が言う。
「おっしゃ。オレは下り好きやねん。走ったらジェットコースターみたいやで」
「走るんですか⁉」
「おうよ」
「べつに無理してついていく必要ないよ。ウチは下りの方が苦手やからゆっくり行くし」
ウォーミングアップを始める卓美先輩を見つつ、風子先輩は言う。
「よーし、競争や。燐ちゃん!」
颯爽と駆けていく卓美先輩。はじめて会った日のように、風の如く走っていく。道が坂だろうと土だろうとアスファルトだろうと、彼女には関係ないらしい。
「まったく、めちゃくちゃな人だ。傾斜を計算すれば、あんな足の踏み出し方は考えられない……」
煽られた燐先輩の方は、ぶつぶつ言いながらも、メガネをくいっと上げ、駆けて行った。これまた速い。
あたしも、階段を見下ろす。階段と言っても、丸太で段々をつくっているだけの代物。ジェットコースターの頂点に達した時のような気分になる。
フッ――と、重力に引っ張られる。身体が前に傾く。
「え、ちょっ、天ちゃん⁉」
後ろで風子先輩の慌てた声が聞こえる。それをあたしは、妙に冷静な頭で把握する。大丈夫ですよ、先輩。あたしには確信があった。なぜか、できるような気がした。
――ドクン。
耳の奥で、心臓の鼓動が聞こえる。
一段目。右足を踏み出した。接地。膝を曲げ、衝撃を逃がす。
二段目。左足を踏み出すべき場所は、もう見えていた。
何も考えなかった。ダンスのステップを踏むように、タンタンタタン。スキップするように、タンタンタタン。
木々のトンネルを通り過ぎる。本当に、ジェットコースターみたいだった。丸太の線路が自分の後ろへ吹き飛んでいく感覚。
「おーい、ストップストップ」
前方に、燐先輩と卓美先輩の姿を捕えた。おそらく途中で待っていたのだろうが、予想外のスピードで駆けおりてくるあたしを見て目を丸くしている。
「いや、あの、ちょっと、止まり方わかりましぇえええええん!」
ドヤ顔で駆けおりてきたら格好良かったのだろうが、実際のあたしは半べそだった。スピードに乗りすぎて止まり方がわからなかった。ブレーキどこ???
「そのまま突っ込んだら谷へ転落しますよ!」
燐先輩が叫ぶ。たしかにそうだった。先輩たちの立っている先で、道は谷に沿って大きく曲がっていた。あたしはおそらく、止まることも曲がることもできない。
「ふぇええええええええ」
「しゃーない。オレが止めたる!」
卓美先輩がキャッチャーのようにどっしり構える。
あたしは少しでも勢いを殺そうと体重を後ろへかけ……足を滑らせた。
「えっ⁉」
ズザァアアア、と、それはもう見事なスライディングだった。卓美先輩がキャッチャーなら、あたしはホームを狙うランナー。
それでも先輩はあたしをしっかりと受け止め、いっしょに滑り落ちつつ、途中で木の幹を掴み、二人分の身体を止めた。
やだ、たくましい……。
「なんや、すごいやん」
卓美先輩は体勢を立て直し、へたり込むあたしの頭をポンポンと叩いた。
「え、えへへ」
「膝のクッションの使い方がうまいみたいやな。せやから下りが得意なんや」
「ですが、もう少し訓練が必要ですね。心身ともに」
「せやなぁ、スピードをコントロールする筋力と、走りながらも地図で見た地形を思い出し、道を予測する頭が必要やな」
先輩方からアドバイスというかダメだしを受ける。なんだかもうオリエン部の一員としてカウントされてしまっているようだが、嫌な気はしなかった。
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