第25話 ブラックコーヒー

「春、待って。」

 振り返るとここにいないはずの君がいた。


 ――今のが幻聴だったら良かったのに。


「…どうして日向がここにいるの…?」

「…記憶喪失の君が心配で。」

「…美姫は?美姫と一緒にいたんじゃないの…?」

「……。」

「まさか…置いてきたの??」

「……。」

 日向は無言で肯定した。

「…ど…どうして…!どうしてそんなことしたの…?!美姫の気持ち…考えてあげてよ!」

「…君の事が心配だった。」

「………。」

「僕は君を…1人には出来ない。」

「……言い訳…しないで…っ。」

 本当は私がこんな事を言う資格がない。だって私は……喜んでしまったから。

「…言い訳…か。」

 自分の心が薄汚い感情で埋め尽くされていく。美姫が傷つくのは嫌。けど日向が誰か一人だけの存在ものになるのも、嫌。…日向が彼女である美姫ではなく、ただの友人の1人でしかない私を選んでくれた…その事実に嬉しくなってしまった不細工な私がいる。

「…僕さ。…君が1人でいるとほっとけなくなる。…君が記憶喪失だからって思ってた。…けどたぶん、違うんだと思う。


 これが、好き。なのかな…。」


「…!!」

「分からないんだ。''人を好きになる事''が。」

「………違う。」

「…え?」

「違う…よ。日向のそれは…好き…では無い。」

「…春。」

 駄目なんだ。それだけは。

「…好きって言うのはね……''忘れたくても、忘れられない''って事なんだよ。」

「…。」

「…日向は…私の事、絶対に忘れないって自信がある…?」

「…それは…どうだろ…。」

「……まあ、記憶喪失の私が言うなって感じだけどね。…日向。らしくないじゃん。」

 私はこれ以上の関係を求めてない。

 日向、私は君の事が好きだ。…でも、君は私ではない、傍にいないといけない人がいる。


 外の花火が空気を読まずに鳴り響き、鮮やかに私たちを彩る。

「…私は大丈夫だから。」

「……。」

「帰るね。…またあした。」

 私は日向の返事を待たずに下駄箱の方向へ走った。

「ぅぉっ!…春ちゃん?!」

「…!!…晶。」

 曲がり角で晶と鉢合わせする。

「…晶、ごめん。私。…日向を置いてきちゃった…。だから…日向をよろしく。」

「あ、ちょ、春ちゃん!」

 私は目を合わせることなく言いたいことだけを言い、その場を去る。晶が私を呼び止めていたが、構わずに走った。


 走って、走って、走り続ける。決して人質になっている親友を助けるためでは無い。誰とも会いたくないからだ。私は逃げた。自分自身の気持ちと、自分に向き合ってくれた日向から、逃げたのだ。

「…………。」

 途中、涙が溢れた。手のひら、もっと詳細に言えば母指球で零れる涙を拭いながら、私は逃げ続けた。

「……ッ。ハァ…ゲホッ。」

 苦しい。運動は得意な方だ。なのでこの程度走ったぐらいでは息切れなどしない。

「…。ぅ…ぁぁ……。」

 胸が締め付けられるような感覚に襲われ、走るのを辞めた。手で拭いきれなかった涙が地面を潤す。

「…これ以上……思わせぶりは辞めて…。」

 本人に言えなかった文句を、誰もいない所で吐き出す。

 気づいたら夏祭りが行われた神社へ来ていた。屋台がひとつもない夜の神社は少し雰囲気がある。

「……確かこっち。」

 私は参道から外れた細い道へと進んだ。


 夏祭りのない神社は、後夜祭のような騒がしさもなく静寂に包まれている。

「…………。落ち着く。」

 あの日に訪れた東屋へ少し寄り道し、長椅子に腰掛ける。あの日、日向と一緒に花火を見た場所だ。

「…やっぱり私はぼっちが似合ってる。……よね。」

 夏休みにここで過ごした夢のような時間を思い出し、改めてそう実感する。食べてしまったから人形焼も手元にはない。

「…こんな思いするのなら…好き、だなんて…知りたくなかったなぁ…。」

 どうして私は君を好きになってしまったのだろう。……そして、この気持ちに気づいてしまったのだろう。せめて私の初恋が、大好きな君じゃなければ良かったのに。

「…記憶がなくなる前に戻りたい……。そうすれば…私は君と…他人になれるかもしれないから……。」

 私が君と出会わなければ…私はこの苦しみを知らずに済んで……



 君の隣にいるのが私だったらいいのにというこの劣等感も、私は知らないで済んだはずなのに…。



「…。今更何を考えても、遅いんだけどね。」


 初恋はよく甘酸っぱいと聞くが

 私の初恋はお砂糖やミルクの入ってない

 珈琲のように苦かった。

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