第16話 例のテーブルにて

「さて…と。」

そう飯野課長はつぶやき、店の扉に手をかける。


ギィィ…


例の如く扉が歴史を物語る。

その先では老夫婦が笑顔で出迎える。




「飯野くん、彼女さん。いや、今は奥さんと言うのが正しいかな。久しぶりだね。」



店主が嬉しそうに声をかける。



「お久しぶりです…!」



そう言うと同時に課長の顔がほころんだ。

課長婦人の顔にも微笑みが見える。

二人は席に案内される。

窓際の小さな二人がけの席だ。




「いつもここの席に座ってたのを思い出してね。二人を案内するならここだと思ってたんだよ。昔話にでも花を咲かせてゆっくりして欲しくてね。」


そう言ってニコッと笑うとメニューをテーブルに置き、店主夫妻は厨房へと戻っていった。



二人だけの空間が出来上がった。

二人の間に無言の時が流れる。



き、気まずい…。いつも二人の時って何を話していたっけ。そもそも、まともに最後に会話をしたのはいつだろう。



そんなことを考えていると課長婦人が口を開く。



「ここのテーブルの傷。まだ残ってたのね。」


まだ課長が入社してすぐの頃。仕事が終わらず、店内で彼女に手伝ってもらいながら、遅くまで2人で資料を切り貼りしている時につけてしまったテーブルの傷だ。




懐かしそうに課長婦人は指でテーブルの傷跡なぞる。



「あの頃から、いつも私はあなたに振り回されてばっかりね。」

懐かしそうな顔をしながら。でも少し寂しそうな顔をして課長婦人は言う。




「あなたが仕事で遅くなるって言ってた時も、ここで一人であなたを待ってたわ。突然異動が決まったから、ついてきてくれ。って言ってくれたのもここだったわね。」



課長婦人の話に小さく頷きながら、黙って課長は話を聞く。




「私ね、そんな風に振り回されるの、嫌いじゃなかったのよ。あなたが必死に動き回る姿が好きだったの。隣で支えたかった。」



窓の外を眺めつつ話を続ける。気がつくと太陽が姿を消し、月がのぼり始めている。




「でもね。どんなに振り回されても、あなたはどこかで私の気持ちも考えてくれてた。自分の意見を話した後に必ず、『君はどうしたい?』って言ってくれてたもの。でも…。」

少し悲しそうな顔をして課長婦人は俯く。




「それが今は否定ばっかり。行動もしない。私達家族への配慮を感じられない。年で疲れやすくなったのも分かる。あなたは、いつの頃からか、私の気持ちや娘の気持ち。考えてくれなくなっちゃった。もう……。」




課長婦人は言葉を詰まらせる。眉間にシワをよせ、言葉を選んでいるようだった。長く深い溜め息を一度すると意を決したように唇から言葉をこぼす。




「もう、昔のように、家族の事を想っては…くれないのかしら。」




氷が溶けてカランと綺麗な音をたてる。夏の夜に鳴くひぐらしの音と相まって儚げな音色になる。



課長は眉間にシワを寄せ無言で耳を傾けていたが、ゆっくりと顔を持ち上げ、口を開いたところで、丁度料理が運ばれてくる。




「こちらサラダとシチューになります。」




テーブルの上に料理が並べられる。

そこには課長婦人が好きだと言っていたシチューもある。何時間も煮込んで作ったのだろう。肉は柔らかく、美味しそうな匂いが漂う。




「このシチュー…!」



課長婦人は目を丸め驚いた顔をした後に嬉しそうに尋ねる。




「このシチュー、あなたが頼んだの?」



「あ、あぁ。お前…これ…好きだったろ?」

タジタジになりながらも、課長は答える。




課長婦人はクスっと笑うと

「今、夏だと言うのに熱いシチューを頼んだのね。」

と、からかうように言う。




「あ、いや、その、好きだったなって事だけで頭がいっぱいで、熱いとかその、そんなに考えてなくて、その…」

課長はしどろもどろになる。




「いいのよ。」

ニコッと笑って課長婦人が応える。




「私に喜んで欲しくて、私が好きだったもの頼んでくれたんでしょ。」


そう言われると課長はゆっくりと頷いた。




「ちゃんと私の事、考えてくれてたのね。嬉しい。ありがとう。」



そう伝えると課長婦人はスプーンにすくったシチューを冷ましながら、少しずつ口へと運ぶ。




「美味しい。」

微笑みを溢しながら課長婦人は感想を口にする。

この言葉で、強張ったり慌てふためいたりしていた課長の表情も次第に和らいでいく。




「なぁ。」

課長が呼びかける。




「僕は今まで…家族に甘えきっていたよ。」

ポツリポツリと課長が言葉を口にする。




「若い頃は初めてやる仕事も多くて、やり甲斐もあって毎日が新鮮だった。新しい事に挑戦して、昇進して。それが楽しかった。勿論辛い時もあったさ。それでも。キミがいた。」





「それが今は。毎日に新鮮さもない。同じ事の繰り返し。上からも下からも挟まれ楽しさより疲れや諦めの方が強くなってしまった。そんなツラさから逃げたくて、どこかで誰かに甘えを出したくなってしまった。それが家族に向いてしまった。」





「まともに話も聞いてやれてなかったと思う。ちゃんと向き合うということから逃げてたよな。昔が楽しかったから、変わるという事が怖くなってしまったんだ。申し訳ない。」




課長婦人は黙って真っ直ぐ課長を見つめ、話を聞いている。課長は大きく深呼吸をして、課長婦人を見据える。




「僕、変わるよ。まずは大切な家族と向き合う時間、作っていこうと思う。家に帰ったら家族で話し合おう。」




課長夫妻の間に和やかな空気が流れた。それと同時に、この様子をこっそりと見守っていた店主夫妻と三人衆の間にも笑顔がうまれた。

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