第13話 飯野課長



世間には暗黙のルールが存在する。


この人はこうあるべき。あの人はあれではいけない。これは勝手に人間が作り上げた虚像であり、偶像の押し付けである。こんなものはゴミ箱の底にでも溜まるヘドロくらいの価値である事は周知の事実。




しかし人間はそんなヘドロにでも価値を見出してしまう、モノ好きな生き物なのだ。





課長や部長など、ある程度の地位になると、周りからの目やそれなりの風格を持たねばならない、という暗黙のルールがあるようだ。



そんなルールに則り、飯野課長には周りに知られないようにしている秘密がある。



出勤カバンのハンドルについているキーホルダーチェーン。しかしその先に付いている物は大事にカバンの中へ仕舞われている。

正しく言えば隠されている。





嬉しい時、悲しい時、仕事が上手くいかない時。こっそりカバンの中を見ては微笑んでいる課長の姿が確認されている。触れてはいけないと思い、皆話題に出す事はない。




『もこもこウサちゃん』




全長15cm程の『もこもこウサちゃん』のぬいぐるみが常にカバンの中にいる。

実はウサギが大好きな課長。本当はウサギを飼いたくて妻と娘に提案するも、話をちゃんと聞いてもらえなく、結局聞き入れてもらえていないのが現状だ。





この可愛さを誰かに共有したいと思ったことだってある。しかし、そこは見栄が、暗黙のルールが許さない。いい年したおじさんがウサちゃん。きっと笑われるに違いない。



もし、『ウサちゃん』じゃなくて『クマさん』だったらまだカッコよかったかもしれないなんて事を考える程に可愛いマスコットが好きなのだ。




・・・



「ただいま。」

飯野課長が家に帰る。妻は料理を作り、高校生の娘はテレビの前に座りつつスマホをイジっている。




昔はおかえりって娘は駆け寄ってきてくれていた。妻も料理の手を止め、玄関まで来てくれていた。今は声掛けどころか、こちらを振り返る事もない。





風呂に入り家族で食卓を囲んで夜ご飯を食べる。今日あった嬉しかったことや、個人的に笑えた小ネタをここで披露する。家族はこちらを見向きもしない。




それでも良いんだ。家族が健康なら。家族揃って食卓を囲む事ができる。一緒にご飯を食べられる。それだけで幸せなのだ。これが一般的に言われる『幸せな家庭』なのだ。




「ねぇ、お父さん。塾通いたいと思ってて。友達も行ってるし…私、大学進学も考えてるの。」

普段あまり話し掛けて来ない娘が、会話のない食卓での口火を切る。




「え?なんで?お前は大学に行ってやりたい事でもあるのか?」

飯野課長がビックリした顔をして返事する。




「以前から言ってるじゃん。覚えてないの?」

娘は溜め息混じりに返答する。




「私、医者になって、海外の人を助けたい。貧しい国の子達を救いたい。どんな国に住んでいたとしても健康に生活出来る世界にしたい。」


そう言って、しっかりした眼差しで、父、飯野課長の視線を捕らえる。





「それは以前も言ったけど、女の子はそんな仕事しなくていいの。しかも海外だなんて、そんな危ないところにわざわざお前が行かなくていいじゃないか。


普通に学校に行って、普通に働く。そのまま普通に結婚して家庭をもつのが幸せなんだ。だから塾に行く必要もないでしょ。」



眉間にシワを寄せつつ娘をなだめる。

しかし娘は蔑んだ視線を父親に送る。




「お父さんて、いつもそう。危ないとか言ってるけど、本当に私の身を案じているわけじゃない。私の気持ちなんて考えてくれた事ないよね。結局はお父さんの理想通りの人生を歩ませたいだけ。



私の人生はお父さんのものじゃないの。お父さんの人形じゃない。協力してくれないならいいよ。もう頼らない。自分一人でなんとかする。お父さんなんて要らない。」




ごちそうさま、そう言って娘はリビングから出ていく。ソファ前のテーブルに学習塾の奨学金のチラシが目に入る。



「あの子は本気よ。」



そう言うと妻も立ち上がり、課長は一人で食卓を囲い、ご飯を食べる。





本当は分かっているのだ。塾が必要なことも。娘のやりたい事も。しかし、どこか自分の固定観念とは違う事をする事に不安があるのだ。




娘や妻と楽しく食卓を囲んだのはいつだっただろう。




娘の成長が。家族が変わっていくのが。自分の常識から抜け出すのが。なにより自分が変わる事が。怖くなったのは、いつからだろう。





真夜中。

喉が渇き水を飲みに行こうとすると、娘の部屋の電気がついている事に気がつく。

中からは英語の音声が聞こえる。まだ勉強しているらしい。




娘が本気なのは分かっている。娘には幸せになってもらいたい。しかし自分が考える幸せと娘の考える幸せが一致しないのだ。はぁと溜め息をつき頭を悩ませつつ床についた。




翌朝。

一晩熟考した妥協案を娘に提示する事にした。


「おはよう。夜も遅くまで頑張ってるんだな。」


娘からの返答はない。




「お父さん、色々考えたんだ。医者じゃなくて看護師さんはどうだ?それなら海外で人を救う事も出来るし、今のお前の成績なら塾に通わなくていいし、あんなに夜遅くまで頑張る必要もない。


それならきっと、医者より早く結婚も出来るだろうし、幸せになれるはずだ。」



自信満々に娘に妥協案を提示し、これなら分かってくれるだろうと思った。娘の望みも自分の望みも叶えられる。名案だと思った。



しかし娘はチラッと父親を見たあと、


「もういいよ、何も分かってない。関わらないで。」



そう言い放ち、父親から離れていった。

その距離感が心の距離感を表している気がした。

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