第71話 危険すぎるよ、美夜さん。
「馬鹿なことしてないで、早く戻れっての!」
「あぁ、はいはい。分かってるよ、山名なら絶対見ないよね。だから言ってみただけ。念のため、タオルも巻いてたしね。そういうのはもっといい関係になってからね。
そういうところ、好きだけど。だってたぶん、他の男子ならみんな見てる。私、結構モテるんだよねぇ」
開いた口が塞がらなくなるような、大物発言だった。
普通なら、尊大だとか自信過剰だとか悪い印象を抱くかもしれないが、彼女に限ってはそうはならない。
美夜はただ、自分の価値を分かっているだけだ。分かったうえで、どういうわけか俺なんかに、こうして餌をぶら下げているのだ。
もし仮に、ここにいるのが俺じゃなく違う男なら、迷わず飛びついているだろうことも容易に想像できる。
「そこにいてもらってるのはね、雰囲気作りのためだよ」
美夜の声が再びくぐもったものになる。
浴室に戻ったらしいことにほっとしてから、罠かもしれないと一応振り返らずに、どういうこと、と聞き返す。
「見せつけてくる山名が悪いの」
「俺のせい……? 身に覚えがなさすぎる。冤罪だ」
「有罪だよ? 玄関前であんな夫婦みたいな真似するんだから。
これくらいやってようやく、日野さんより彼女っぽくなれるかなと思ったの。少なくとも、生配信の間はずっと私が彼女なんだし、さ。負けてられないじゃん。
でもやっぱり、山名は奥手だね。いいって言ってるのにさ」
それだけ言うと、浴室からはまたシャワー音が聞こえだす。
美夜は俺に、返事をする暇を与えたくなかったらしい。
なんて勝手な宣言だろうか。争うならば、別でやっていただきたい。
それに、奥手と言われればそうだが、俺にだって理由はある。
ふとよぎるのは、小学校の卒業式での記憶だ。
それは、ある種の誓いであり呪い。
平穏をくれたものでもあり、未だに俺を縛り付けてもいる。
今でもたまに蘇っては夢に見ることだってある。
……だが、こんなことを考えていてもしょうがない。
俺はため息をついて、思考を今に引き戻す。
同時に、もう出て行こうかと思うのだが……
自室で見た美夜の寂し気な表情を思い返して、なんだかんだとその場にとどまり、座禅を組み続けた。
再び浴室内から声がかかったのは、10分程度あとのことだった。
「ね、クローゼットの中に着替え置いてあるから、取ってくれない?」
「……はいはい」
「あ、ちなみにブラジャーはひも付きの奴で、下は――――」
「な……、そういうのは自分でやれっての。俺はもう出るから。いいだろ?」
「ちぇー。まぁでもありがと。こんなアホらしいお願い聞いてくれて。おかげで、退屈しなかった。お礼に、ブラとパンツ見せてあげよっか?」
「いらねぇっつの!」
まったく、ろくなお願いをしやがらない。
すりガラス一枚の先、表情なんてまったく見えないが、それでも分かる。
今の美夜は、いたずらを仕掛けるときの子供みたく無邪気な顔をしているのだ。
さすがに着替えの際に、ここに残っているわけにはいかない。
俺が坐禅を解いて、立ちあがろうとしたときだ。
浴室の中で、ツルッと嫌な音がした。さらにはガタッと扉にぶつかる音がして、
「やっ……! 滑っ……!?」
美夜があげた短い悲鳴に、俺はついに振り返ってしまう。
しかし、「大丈夫か」と投げかけるまでもなかった。スライド式の扉が開き、奥から思った以上の勢いで、彼女が崩れ落ちてくる。
そのとき、はらりと一瞬。
ほんの一瞬だけだ。
とはいえたしかに、彼女が巻いたバスタオルがはだけたところを目撃して、視界はわずかな時間、肌色に覆われた。
一瞬、放心状態になるが、すぐに目を瞑る。その状態でもしっかりと美夜を受け止められたのは、男の意地といったところか。
だが、それはそれでまずい。目を瞑っているから、どんな体勢かは分からない。とはいえ、手のひらに吸い付くみたいな、このえもいわれぬ柔らかな丘はーー
「ご、ごめん……! ありがとう…………って、へ……?」
美夜はそこでやっと、事態を知ったらしい。
じたばたと暴れ、俺の腕の中から抜け出したのち、美夜は慌てて風呂場へと戻っていく。
扉に背中で寄りかかって、細くか弱い声。
「ご、ごめん…………」
「いや、俺はいいけど。いや、見てない、見てないんだ、ほんとに。それに、なにに触れたかも分かってないから、俺は!」
眼福……というほど見てないし、あの柔らかい感触もどこを触ったかなんて分からない。
この跳ねすぎてうるさい心臓も気のせいだ。
少なくとも、今はそういうことにしておきたかった。
こんな、安易なラッキーパンチは求めていない。
だって、ラブコメ漫画と違って、ここは現実だ。コメディだからでは済まされない。
都合よくシーン転換もしてくれないので、ここからどうすればいいかさえ分からない。
俺たちは扉を挟んで二人、無言で立ち尽くす。
「あーえっと、先に部屋あがってるよ俺」
やっと絞り出したのは、一時的な回避策であった。でも、これが今の最善策だ。
「……う、うん。ごめん、ほんと」
やらかしたことへの気落ちと、恥ずかしさが入り混じっているらしかった。
扉を通して聞けば、まるで蚊の鳴くような、小さい声であった。
危険すぎる、細川美夜……!
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