第70話 お風呂場と脱衣所


そんなわけで、俺たちは場所を美夜の家へと移すこととなった。



梨々子にそれを告げると、含みのある視線が頭一つ分下から浴びせられる。

黒目がちで、キャンディみたいに丸い瞳は、言葉少ない口よりよほど雄弁に、物言いたげに揺れていた。


「なんだよ、別にやましいことしようってんじゃないよ」

「……ん、知ってる。配信、待ってる」


が、出てきたのはこの一言だけだった。

ここで根ほり葉ほり聞くほど、デリカシーをわきまえていない俺ではない。


そのまま玄関先まで見送ってもらう。


梨々子は俺のシャツの裾を引っ張り、皺を伸ばしてくれた。ついで踵をぐっと上げると、うっとうしく垂れていた俺の前髪へとかける。

それで、彼女はひとつ頷いた。


「うん、これなら誰もひなくんだって気づかない。ちゃんと格好いい」

「いつもがモサモサで悪かったな」


万一、美夜と歩いているところを誰かに見られたら厄介だ。


そこで今日は初めから、動画仕様に変装していくことにしていた。実際この作戦は、クラスメイトにすらバレなかった実績もある。


だが、つい癖でだらしなくしてしまっていた。


「でも、ありがとうな梨々子」

「全然いい。じゃあね、ひなくん。くれぐれも、それには気をつけて」


一瞥さえせず、梨々子が指差したのは、俺と並び立つ美夜だ。


学校一の美少女であり、誰だって隣の席になりたがる、天体で言えば、きらきらの一等星。

そんな美夜を『それ』呼ばわりできるのだから、さすがは裏ボスだ。


梨々子は、取ってつけたみたいに、一応細川さんにも挨拶をする。


「じゃあ、細川さんもまた学校で」

「う、うん、またね。あと夜の配信、見ててね」

「見るよ。ひなくん見に行くから」

「それ、私も出てるから!! なんなの、ほんとに~」


この二人、水と油すぎん……?


ちょっと顔を合わせればすぐにこうだ。少なくとも、我が家の前でごたごた争っているところを、ご近所さんに見られたらどんな勘違いをされるか。


ただでさえ、酔って千鳥足で歩く姉の目撃情報が絶えず、うちの評判は決して芳しくない。

これ以上、山名家の評判を落とすわけにはいかない。


早々に、家を離れることにしたのであった。




ーーーーそして、今。


『くれぐれもそれには気をつけて』


という梨々子の忠告を、俺はまざまざと思い出さざるをえなかった。

というか、そうしていないと今に変な気を起こしかねない。


肌を蒸らす空気の中、耳朶を打つは弱いシャワーの音。


すりガラスの扉の奥、動く影はちょうど髪を洗い終えて束ねているところだろうか。

もちろん姿そのものが見えるわけではないが、シルエットだけでも彼女の身体がいかに磨き抜かれた美しいラインを描いているのかは伝わってくる。


それどころか、凝視すればもっと……


「山名、そこにいる〜?」


浴室内から呼びかけてくる美夜の声に、思わず咳き込んでしまった。それと同時、正常な思考を無事に回復する。


……いけない。俺、今なにを……!?


このままではいけない。今考えるべきは風呂場の光景ではなく、世界平和と環境問題だ、きっと。



健全すぎる妄想を振り払うため、俺は首を横へめいっぱい振り、崩れていた坐禅を組み直す。


「SDGs」と30回唱えゲシュタルト崩壊し始めたあたりで、やっと落ち着いてきた。

それとともに、この状況の理不尽さを改めて思い知る。


「いるけど、なんでいるんだろうな、俺。脱衣所にいる意味なくないか?」

「なんでって、そりゃあ、山名も男の子だもんね。私のお風呂覗きたいからじゃない?」

「そんな男がいたら、学校に山ほどいる細川さんのファンたちにとっくに吊るされてるって。細川さんがせがむからだろー」


責任関係は、きちんと明白にしておきたいところだった。

そうでなければ、即お縄になったっておかしくない状況である。


あられもない姿の女子高生(それも宝石みたいな超美少女、細川美夜!)が、俺みたいな日陰者の扉一枚先で、湯浴みをしているのだ。


覗きや下着を盗むため、無理やり家に侵入した変態だと思われる可能性もある。というかそっちの確率のほうが高いまであるかもしれない。


だというのに、


「あは。まぁまぁ落ち着いて。ね、洗顔取ってくれない? 洗面台のところにあると思うの」


美夜はこの調子である。

揶揄いたいのか、焦らしたいのか。もしくは、欲という欲を抑えさせることで、仙人にしたいのだとしか思えない。


「なんだよ。雑用のためにここにいるのか、俺」


愚痴りながらも、頼み事を無碍にできるタイプじゃない。


自然と手が動いてしまうのは、梨々子に躾けられているからか。

洗面所に置いてあったポンプ式の洗顔料のボトルをつかむ。そこまではよかったが、俺はそこでフリーズせざるをえなかった。


もし自然な流れで扉を開けていようものなら、一発アウトだった。


「あは、そのまま開けてくれてよかったのに」


籠った美夜の笑い声が、浴室から漏れ聞こえる。


俺はといえば、ぜんぜん笑えない。こんな合法ギリギリのラインで、誰が笑えようか。

洗顔を扉の前に置いてから


「んなことできるかよ。自分で取れよ。俺は背中向けてるから」


突き放すように言って、後ろを向く。


とはいえ、人様の生活空間をまじまじ見ているのも落ち着かない。それも美夜がここで普段なにをしているか、とか顔が浮かんでくるからよくない。


そのため、ついでに目も瞑っていると扉が開いた音がして、


「ありがとうね」


美夜の声もクリアになった。

それはつまり、今もし振り返ろうものなら、そこには一糸纏わぬ美夜の姿があることを指す。


だが、考えたら負けだ。

余計なことを考えないよう心頭滅却に努めていたら……


「ちなみに今は屈んでるよ。振り返ったら、すぐそこにいる」


なんて耳元でささやいてくるのだから、悪魔的だ。


たしかに梨々子には敵わないのかもしれないけれど、チート能力など持たないレベル1の村人たる俺にしてみれば、美夜だってかなりの強敵であった。

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