8-2 一盃塗血
日時
【四月二十六日 日曜日 十五時四十五分】
場所
【社日夕支部六階 目覚め収容装置前】
人物
【九難】
私の名は九難。
八つの苦しみと一つの悲しみを混ぜた九難。
社に仇なす者。世界を恨む者。
十二歳のある日。
「なーちゃんは、どうする?」
覚醒体、異品、社。
私の世界をすっかり変えてしまうような話の後、しーちゃんが言った。
彼女の不安そうに揺れる瞳を未だに覚えている。
「どう、しよう。」
十二歳、今から思えば何も知らないに等しい子供。
あの時の私もまた揺れていた。
縋るものを探す視線は、自然に一地矢へと吸い寄せられた。
「いっちゃんは、どうするの?」
「僕は社になるよ。」
彼は揺れていなかった。
思えば、彼はずっとそうだった。
身体の中に、心の中に、一本の真っ直ぐで堅くしっかりとした棒が入ったような人間だった。
「いっちゃん真面目だねぇ、俺はならないぜ。全部忘れて楽しく生きる。」
「あんたには聞いてない。」
正直な話をすると、世界の真実も普通の生活も、あの時の私には全く等価値だった。
それだけじゃない。
私にとって、自分の人生のこれまでと、これからも、全部が等価値で等しく無価値だった。
両親に棄てられた事も、孤児院で育った事も、どうやって生きて、どうやって死ぬかも、全部どうでもよかった。
決断までの猶予は三日間。
自分の人生を決めるには短すぎるように思える日数だった。
社管轄の孤児院で行われる教育が普通のそれとはかけ離れていると知ったのは、社に入ってから。
毎日のように行われた厳しい訓練も、洗脳に近い形で植え付けられた人々を守る事が絶対であるという思想も、義務教育からかけ離れた基礎知識の学習も、全てが社の職員となるための下準備。
自分の人生を否定されたような気分だった。
それなのに、彼は全く揺れてはいなかった。
あの日、夜。
就寝時間を過ぎた暗いベランダ。
肌寒さと、驚くほど広い空、星々、そして彼。
悩む私は一地矢に相談したくて、そこに誘った。
「なんでいっちゃんは悩まないの?」
彼は昔から周囲より大人びた人間だった。
落ち着いていて、自分の考えをしっかり持っている。
目立つタイプではないけど、信頼できるタイプ。
「人生って一回しかないでしょ。」
「うん。」
「だから僕はできるだけ後悔しないように生きたいんだ。」
「社になったら後悔しないの?」
「するかもしれないけど、後悔した事を忘れたくはないかな。」
後悔したくないと言う人間は後悔を忘れたくないと言う。
それはとても矛盾していて、同時に彼らしいとも思った。
「そっか、社にならなかったらここでの事は全部忘れちゃうんだもんね。」
「それに、人知れずみんなを守るなんて、格好いいでしょ?」
「そんな理由?」
「ダメかな? 誰かの役に立ちたい。それが別に世界に知られなくてもいいって。」
彼は夜空を見上げる。
この夜空に映る幾千、幾億の星々に私たちと同じような精神を持つ生命体は存在しない。
それを知って見上げる星空は酷く寒々しく感じた。
「そう言えば、訓練道具とか、下の子たちが遊んだおもちゃとかの片付けよくしてたね。」
そんな後ろ姿を何度か見た事がある。
気付けば片付いている時、その大半がいっちゃんの手によるものだと知ったのは、十一歳を過ぎた頃だった。
それまで、いつの間にか片付いているそれらに関心を寄せた事なんてなかった。
子供らしい注意力の欠如と関心のなさ、私たちの世界は狭かった。
「気付いてたんだ?」
「気付いたの最近だけどね。凄く気が利くなぁって思ってた。いつもありがとね。」
「当たり前にしてた事で感謝されると少し照れくさいな。」
「社に行くって決めたのもそんな感じ?」
「片付けとかと一緒かって聞かれると少し違うと思うけど……いや、根本は一緒かな。僕が社にならなくても、誰かが世界を守るって事には変わりなくて、やってもやらなくても一緒みたいな。」
彼は言葉に迷うように少し唸る。
「そう考えると、自分の一生なんて凄く小さいものって気がするんだよね。」
言語化したことのない、本心と向き合うように、センテンスが紡がれる。
私が感じていた絶望に近いなにかがそこにあった。
「でも、小さくても無意味なものとは思いたくなくてさ。片付けだって、僕がしなくてもそのうち誰かが気付いてすると思うんだ。でも、僕がやれば他の誰かは片付けしなくていいでしょ?」
しかし、彼は私の絶望を超えた先にいるのだろうと思った。
ふと、世界が、本当に少しだけ温かくなったような気がした。
「いっちゃんは凄いね。」
「僕なんか全然凄くないよ。実技じゃしーちゃんに勝てないし、座学じゃなーちゃんに負けるし。」
その日まで、一地矢は大切な仲間の一人だった。
いや、もしかしたらこの日の前から私は彼に惹かれていたのかもしれない。
そうでなければ、狭い世界で彼の行動に気付く事もなかった。
「世界のみんなが知らないなら、私が知っててあげるよ。」
だから私は社になった。
十五歳のある日。
「今度の実験に立候補したんだ。」
彼はそう言った。
「なんで?」
「僕が携わった部分があるし、他の人に任せるよりもいいかなって。」
彼はそういう人間で、だから私は社になった。
「でも、もし失敗したら。」
「それは、ちょっと怖いけど、そうならないようにみんなで作ったんだ。」
「でも、相手はあの『目覚め』だよ?」
「大丈夫だよ。それに、もし失敗しても、なーちゃんが知っててくれるんでしょ?」
私はなにも言えなかった。
私はなにも言えなかった。
何も言えない自分を心底嫌悪した。
実験は失敗した。
私はそれを知った。
世界は知らなかった。
社はそういう場所だ。そういう世界だ。
私たちの世界は狭かった。
世界は知るべきだと思った。
彼の異品は実に皮肉の効いたものだった。
装着者が一定以上のベクトルを有する行動をしている間、つまり一定以上動いている間、世界から認識されなくなる。
あらゆる生物とそれが伴う動作に対して接触できなくなり、されなくなる。
センサーなどの感知系も同様にそれを捕らえない。
扉や廊下などの単純な物体に関しては接触でき、阻害される。
私はそれを「束ねた孤独」と名付けた。
結局の所、私たちは誰しもがそうなのだ。
小さく無意味で孤独。
それが寄り集まって世界と
束ねた孤独を装着者自身が外すことはできない。
孤独を自分独りで無くすことが不可能なように。
十九歳の今日。
「ありがとう詩刀祢。」
この世で唯一私の孤独を断ち切る権利を有する人間が私の左腕を孤独ごと斬り落とした。
あの日、一地矢を殺す事で使えるようになった刃で。
どこまでも私たちの物語は皮肉だ。
それでも一地矢をもう二度とこんな場所に連れて行きたくはなかった。
こんな絶望しかない収容装置の中に。
「八難技!」
棄てた名前を彼女が叫ぶ。
「私の名は九難。」
なーちゃんと呼ばれれば返事もできたのに、ここに至ってそんな事は望むべくもなかった。
私だって彼女をしーちゃんとは呼ばなかったのだから。
殺した彼女と止めなかった私は同じ罪を背負った共犯者、たった二人っきりになった仲間、自分の次に許す事のできない讐敵。
彼女との間にあるこの透明な壁が世界の内と外ほどに私たちを隔てていた。
部屋に入ればあらゆる音は消える。
鼓動だけが耳の中で響き、それに合わせて左腕から冗談のように血が噴き出していた。
目の前にはただただ広い空間。
そして一匹の鶏。
こんなどこにでも居そうな鶏が、この世界から一地矢を永遠に奪った。
殺せるものなら殺したい。
一欠片の肉片すら残さず、一枚の羽すら残さず、一滴の血すら残さず、完全に抹消したい。
それができないから、私はお前を利用する。
外で詩刀祢が何かを叫んでいる。
完全防音完全防振のこの部屋にその声は届かない。
詩刀祢、あなたは自分が前に進んだと思っているかもしれない。私は逃げ出したのだと思っているかもしれない。
でも、私はここに至るまで一瞬も一地矢の事を忘れた事はない。私はその悲しみから逃げた事なんか一度もない。
悲しみから逃げたのはあなたの方だ。
懐から銃を取り出す。
対覚醒体用大型拳銃黄昏。
一地矢を殺した銃。
なんてことはない、ただの大口径の拳銃。
使用弾薬は.454カスール弾。
大抵のものを粉砕できる暴力。
一地矢を粉砕した暴力。
私と詩刀祢の間にある隔たりを壊す事ができるのはただの暴力だけ。
透明な壁越しに詩刀祢に狙いを定め、引き金を引いた。
耳が破裂しそうな爆音が手元で響く。
弾丸は貫通せず、超硬質なガラスとプラスチックの複合素材の上で踊る。
それ自体は予想通りだった。
腕の痺れも、肩が外れそうになるのも、左手から流れるおびたたしい血液も気にせず、ひたすらマガジンが空になるまで引き金を引く。
最後の一発が壁に当たり、ようやくそこに目視できるかできないかの薄いヒビが入る。
これで充分。
一地矢が転けた時、装備には大した損傷は存在しなかった。
ただ、ほんの僅かに生地の一部が切れた程度、そんな僅かな亀裂が彼を忌まわしい覚醒体にした。
だから世界に知らせるにもこの程度の亀裂でいい。
それで世界は思い知る事になる。
小さくとも無意味ではなかった彼の人生を。
念を入れて、盗んだ異品も使おう。
下級異品「青い糸」触れた物体を勝手に結ぶ二対の青色の糸の切れ端。それぞれに結ばれた物体は見えない糸で結ばれたように三メートル以上離れる事が不可能になる。
最後に願うのは、私が破壊抵抗を持つ覚醒体になることくらい。
私の名は九難。
八つの苦しみと一つの悲しみを混ぜた九難。
社に仇なす者。世界を恨む者。
自分を断罪する者。
おはよう、いっちゃん。
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