6 艱難九苦
日時
【四月二十六日 日曜日 十五時十九分】
場所
【社日夕支部五階】
人物
【詩刀祢】
「手総員に告ぐ。侵入した夕鶏の中に異品所持者を確認。対象は観測されずに移動が可能。所持異品は『束ねた孤独』と推察される。」
イヤホンから聞こえるその言葉に詩刀祢は駆け出す。
その表情はかつてないほど切羽詰まっているように見えた。
束ねた孤独。
その異品の名を彼女は忘れる事ができない。
それはかつて彼女の友人だった人間の成れの果ての姿だった。
日時
【不明】
場所
【不明】
人物
【詩刀祢】
詩刀祢は孤児だ。
両親の記憶は全くなく、物心ついた時から社傘下の児童養護施設に居た。
詩刀祢は普通の生活を知らない。
施設では十二歳を迎えた月末に覚醒体の存在とその発生理由を教えられる。
それまでの日々の生活が全て社の職員となる為の訓練だと教えられ、選択する事になる。
このまま社の職員となる人生を歩むか、これまでの記憶の一切を忘れ普通の人生を生きるのか。
詩刀祢と一緒に十二歳を迎えた子供は他に三人。
一人は普通の人生を生きることを選び、詩刀祢を含む三人は社で生きる事を選んだ。
一人は詩刀祢。
一人は
一人は
三年後、十五歳になった彼らは正式に社に配属される事になった。
詩刀祢は手に、一地矢は枕に、八難技は蔵に。
日時
【四月二十六日 日曜日 十五時二十一分】
場所
【社日夕支部五階】
人物
【詩刀祢】
「夕鶏の目的は異品と思われる。持ち場の処理が終わった手は蔵に集合。」
詩刀祢の耳元で声がする。
これまでの夕鶏の動きを見るに、それは妥当な推察だった。
子守里の指示だろうと詩刀祢は察する。
今回の夕鶏の動きは明らかに蔵を狙っていた。
夕鶏の主要部隊は手の常駐所がある一階、居住区画の二階を未知の手段を含む複数の経路で突破した後、蔵がある三、四階で手及び蔵の職員と戦闘、その大半を失うも一部蔵の機能を無力化、数点の異品を奪取する。
しかし、詩刀祢を含む手の追撃部隊によって残存戦力は壊滅させられ、奪取した異品も回収される。
彼らの作戦は既に大筋で失敗と言えた。
あとは残党狩りの時間。
薄い逆転の望みを見も知らぬ異品に託した哀れな死に遅れが蔵に向かうと考えても普段なら問題ない。
だが、詩刀祢の足は上に向かう階段を無視して進む。
(あの異品、「束ねた孤独」を持っているのが彼女だとしたら、蔵には向かわない。)
確信に近い直感で詩刀祢は六階の階段を目指す。
駆けながら詩刀祢はあの日の事を思い出していた。
日時
【不明】
場所
【社日夕支部六階】
人物
【詩刀祢】
詩刀祢の配属から間もない、ある夏の日。
地下の社には照りつける太陽もなければ蝉の声も届かない。
代わりに響いたのは鶏の鳴き声。
忌まわしい鶏の鳴き声。
鳴き声と呼ぶには不自然なほど連続した、まるでサイレンのような音。
その音の主の名は「目覚め」。
警戒階級は最上級の
厄災に近い覚醒体。
三秒以上その声を聞いた人類は即座に覚醒体になる。
日夕支部が抱える唯一の海嘯級覚醒体。
どこにでも居そうな、ありふれた鶏の外見をした災悪。
その日、地下六階ではそれに対する実験が行われていた。
その声を三秒以上聞いたら即座に覚醒体になる。
では、聞かなければいい。
そうして五十年ほど前に行われた最初の実験は大失敗に終わった。
その失敗から社が得たのは耳栓では足りないという結論だった。
その後、幾つもの犠牲を払って社は「目覚め」の正確な能力に辿り着いた。
その声に三秒以上晒された人類は即座に覚醒体になる。
耳を閉ざしても、振動を感じてしまえば覚醒体になる。
だから、この日行われていた実験は、全身を完全に超防音素材の装備で覆った場合はどうなるのかを調べる為のものだった。
立候補したのは一地矢。
まだ十五歳の男性とも呼べない青年。
実直な性格で室長の百目木も期待をしていた新入り。
装備の設計に一部関わった彼は、その義務感から被験者に立候補した。
装備を着た一地矢が収容装置の前に立つ。
万が一を想定して、外には数名の手が待機していた。
一地矢が覚醒体になった時に瞬殺できるように。
その中に詩刀祢は居た。
「いっちゃんを絶対に守ってね。」
詩刀祢は八難技の言葉を思い出した。
今にも泣き出しそうな顔でそう言った八難技の顔を。
兄弟のように、家族のように、三人は育ってきた。
いや、その言葉は適切ではない。
彼らは兄弟も家族も知らない。
詩刀祢も一地矢も八難技もそれを知らない。
だからこそ、彼ら三人は唯一無二の仲間だった。
詩刀祢は知っていた。
八難技が一地矢の事を慕っている事を。
仲間という言葉すら超えた感情を抱いている事を。
彼女が今回の実験をどれほど怖がっていたのかを、どれほど一地矢に辞退して欲しいと言いたかったのかを。
詩刀祢は知っていた。
(きっと大丈夫だから。)
目の前で開始される実験にその場の誰もが固唾を呑んだ。
一地矢が震える手で収容装置のロックを解除する。
一歩、二歩、三歩、四歩。
収容装置の中央で虚空を見る「目覚め」に近付く。
五歩、六歩、七歩、八歩。
九歩目を踏み出した瞬間「目覚め」が一地矢を見た。
透明な防音壁の向こうで「目覚め」が声を上げる。
一秒、二秒、三秒、四秒。
三秒を超えても始まらない覚醒体化にその場の全員が胸をなで下ろした。
五秒、六秒、七秒、八秒。
実験の成功を確信した一地矢が「目覚め」の効果範囲から出るために転身する。
装備の重さでぎこちなく一地矢が身体を向けた時、詩刀祢は確かに目が合うのを感じた。
その目が瞬時に笑う。
緊張が解ける。
そこから先が詩刀祢にはまるでコマ送りのように感じた。
一地矢が踏み出そうとした足が滑る。
身体がゆっくり傾き、片足で支えられる限界を超え、放り出されるように地面へと倒れ込む。
緊張と緩和。
不意に転けた一地矢に周りで見守る職員達から思わず笑いがこぼれた。
ただ二人、百目木と詩刀祢を除いて。
「逃げろ!」
百目木が叫んだ。
十二秒、十三秒、十四秒。
一地矢が存在した場所に即座に覚醒体が出現した。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
絶叫と共に詩刀祢が駆け出す。
他の誰が動くよりも早く。
収容室の扉の前で対覚醒体用大型拳銃黄昏を構える。
覚醒体は人間大のこけしだった。
貼り付けた穏やかな笑顔が詩刀祢を見る。
叫びながら詩刀祢は引き金を引いた。
打ち出された弾丸はこけしの頭部を粉砕し、木片が散らばる。
二発、三発、四発。
正確に命中する弾丸はこけしの胴体を上から順に粉砕した。
五発目でこけしの原形は完全になくなり、発砲の残響が消える前にこけしはその破片ごと消失した。
他の職員が急いで詩刀祢を収容装置から引き離し、扉をロックする。
瞳孔の開ききった詩刀祢の目に映ったのは、残された一つのミサンガだった。
日時
【四月二十六日 日曜日 十五時三十八分】
場所
【社日夕支部六階】
人物
【詩刀祢】
社日夕支部最下層。
らしくなく、微かに震えながら詩刀祢はその階に到着した。
一定以上の職務権限がなければ入る事すら許されない階層。
五階に続き枕の管轄となるこの階は、他の階に比べ天井が二倍以上高い。
無機的な廊下は高すぎる天井によって開放的な圧迫感をもたらす。
六階に存在する覚醒体はただ一体。
日本国内で管理されている覚醒体の中でも五本の指に入る程の危険性を持つそれは、見た目こそただの鶏だが、その声は終焉のラッパと同義とされる。
覚醒体「目覚め」。警戒階級は最高の海嘯。
「詩刀祢、なぜ六階に居る。」
子守里から直接の通信が詩刀祢に入る。
「侵入者が八難技だった場合、ここに来る可能性が高いと考えたからです。」
「八難技? ああ、そうか、彼女か、なるほど理解した。」
第九回目覚め実験事案と名付けられたあの出来事の後、回収された異品、ミサンガはそれを担当した職員によって「束ねた孤独」と名付けられた。
担当職員八難技が束ねた孤独と共に失踪したのは事案から二ヶ月後の事だった。
「殺せるか?」
子守里から問われた詩刀祢は即答する。
「私は社日赤支部手特務実行部隊獏詩刀祢です。」
非情に、冷静に、質実に。
一本の刃のように。
「よし、六階での行動を許可する。数人を援護に回そう。」
(一切の有情に斬れる物なし。)
自分を奮い立たせるように詩刀祢は心の中でそう呟く。
もう彼女は震えてはいなかった。
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