2-1 事後不省
日時
【四月二十日月曜日 十時五十七分】
場所
【某県某市やすらぎ斎場】
人物
【中園司季】
「舎利子 色不異空 空不異色 色即是空」
お経が耳を通り抜けていた。
椅子に座っている。
なんで、ここに居るんだっけ?
すすり泣く声が聞こえる。
前から後ろから右から左から。
なんで、ここに居るんだっけ?
葬式だ。
誰の?
ああ、そうか、ユズの葬式だ。
そう思った瞬間、目から涙がこぼれ落ちた。
土曜日、ユズは俺の目の前で、建設現場の落ちてきた鉄骨の下敷きになって、死んだんだ。
焼香の順番が回ってくる。
まるで、今眼が覚めたように足下がふらつく。
棺までの距離が永遠に思えた。
ユズの顔が見える。
まるで、眠っている、ように、見えた。
倒れないように必死で、作法すら忘れて、焼香を、なんとか終えて、席に倒れるように座る。
嗚咽が漏れないように奥歯を噛み締めていた。
時間の感覚が溶けて、気付けば式が終わっていた。
母さんに肩を叩かれて、やっと時間が戻ってくる。
「最近の技術は凄いわね、あんなに綺麗に直されて。」
「可哀想だけど、少しは救いかもね。」
式場を出る時、参列者の誰かがそんな話をしていた。
日時
【四月二十三日 木曜日 十一時四十五分】
場所
【某県某市中央通り】
人物
【中園司季】
ユズの葬式からいつの間にか三日が経っていた。
日々の記憶は曖昧で生きている感覚すら曖昧だった。
家に居るだけで苦痛だった。
父さんも母さんも俺を気遣って優しくしてくれる。
学校を休んでいる事にもなにも言わない。
それが苦痛だった。
家の至る所にユズとの思い出があった。
それが苦痛だった。
外に出ようと思ったのは、ただの逃避だ。
ユズが居なくなったという現実からの逃避。
外に出てから、自分が数日風呂にも入っていない酷い状態だったと気付く。
着の身着のままで、財布すら持っていない。
まるで浮浪者のようだ。
そうなるのも悪くないと現実味なく思った。
少し歩いたところで、この逃避に大して意味がないと気付く。
この街の至る所にユズとの思い出があった。
一緒に歩いた通り、一緒に買い物をした店々、一緒に遊んだ場所、どこに居てもユズを忘れる事なんかできない。
涙は既に涸れ果てて、掬う事もできないがらんどうな悲しみがあった。
三十分ほど歩いて、自分が滑稽に思えて、足を帰路に向ける。
大通りでの信号待ち、時間帯が悪かったらしく平日なのに通りには人が多い。
こちら側で待つ人は俺を避け、あちら側で待つ人の視線を感じた。
きっと被害妄想だろう。
この世界は自分が思っているよりも俺に興味はない。
大切な幼馴染みが目の前で死んだって、世界はなにも変わらずに続いている。
取るに足らない、面白味もない、物語になんかならない、大切な日常がぶち壊されても、世界はなにも変わらない。
なにも変わらずに世界は続いてしまっていて、なにもかも変わってしまったように思えるのに俺は生きている。
なんでだよ。
居心地の悪さに視線を左手側に逸らす。
向こう側の通りを歩く一人の女性が視界に入った。
同時に、変な既視感を覚える。
整った顔立ちだが、街中で人目を引くほどではない。
なのに、なぜかその姿から目が離せなかった。
信号が変わる。
流れに沿って歩きながら、視線はその女性から離れない。
なにか、大切な事を忘れてしまっているような感覚。
その鍵を彼女が握っているという変な確信。
まるで引力でも働いているかのように、俺は彼女に近付く。
「あの。」
声をかけたのは、完全に無意識だった。
ポニーテールを揺らして、彼女が振り向く。
自分が声をかけるなんて思っていなかった俺は間違いなく驚いた顔をしていたはずだ。
しかし、振り向いた彼女の表情に比べればまだ普通と言えた。
彼女はまるであり得ない物を見たような表情で俺を見た。
驚愕のお手本のような表情。
「なに?」
しかしそれも一瞬、口を開く頃には平静を取り戻していた。
「あの、なにか用?」
彼女の忙しい表情の変化に気を取られ、自分が話しかけられている事に気付くのが遅れる。
「えっ、えっと。」
用などあるはずがない。
自分ですらなんで声をかけたのかわからない。
唯一理由があるとすれば既視感だけだ。
「どこかで、会いませんでしたか?」
やってしまった。
吹き出す彼女を見てそう思う。
これじゃまるで
「もしかして、ナンパしてるの?」
「いや、そういうわけじゃ。」
「でも、君、ナンパするにしては、もう少し格好をどうにかした方がいいんじゃない?」
返す言葉もない。
「あの、声かけてすみません。」
「ちょっと待って。」
羞恥に耐えられなくなって立ち去ろうとする俺の手を彼女が掴む。
「君、丁度良いから少し付き合ってよ。」
俺の了承を待たずに、彼女は歩き出す。
思いの外強い力に抵抗も出来ず、数分後、俺はオシャレなカフェのテーブルに座っていた。
「コーヒー飲める? 甘いの大丈夫?」
向かい合わせで座った彼女はメニューをめくりながらそんな事を言う。
なにをどう間違ったら、こんな事になる?
傷心を誤魔化すどころじゃない事態に、異質の混乱を覚える。
「あの、俺、財布持ってきてなくて。」
「いいよ、奢るから。」
「そんな、悪いです。知らない人に。」
「会ったことがあるんじゃなかったの?」
「それは……。」
「このカフェ前から気になってて来たかったんだけど、一人で行くのも寂しいって丁度思ってた所だったんだよ。」
数分前までカフェなんか行ける気分じゃない筈だった。
それが、なぜかこんな所に居る。
ただ、最近出来たばかりのこのカフェには少なくともユズとの思い出は存在しなかった。
「私はコーヒーとパンケーキのセットにするけど、君はどうする?」
「同じので、お願いします。」
苦すぎるコーヒーと甘すぎるパンケーキがそれぞれ半分程空になる。
「君、高校生でしょ?」
それまで黙々と食べて飲んでいた彼女が思い出したように口を開いた。
「はい。」
「平日の昼間にナンパとはやるね。」
冗談のように笑いながら、彼女は言う。
「ナンパとかじゃなくて、たぶん人違いです。」
「そう? まぁ特徴ない顔だってよく言われるけどさ。」
「い、いえ、美人だと思います。」
「少年、おだててもコーヒー代しか出ないよ?」
俺はここでなにをしているんだろう?
早く家に帰って……家に帰って?
家に帰って、部屋に籠もって、また塞ぎ込むのか?
「ナンパじゃないなら、話くらいは聞くよ。」
「え?」
「だって、君くらいの子がそんな格好で平日の昼間に歩いてるなんて、なんかあったんでしょ?」
親切心からの言葉だろう。
しかし、それに応えられるほど今の俺は親切ではなかった。
「……別に。」
「まぁ話したくないなら話さなくてもいいけどさ。」
そんな俺を咎めるでもなく、彼女はパンケーキを口に放る。
「ところで、私の事は、しーさんって呼んでいいよ。」
「しーさん?」
「ニックネームみたいなものだよ。その方がいいでしょ?」
「君はなんて呼べばいい? もちろん、本名じゃなくてもいいよ。」
「……ハクゾン」
少し悩んで、不意に思い浮かんだ単語が口からこぼれた。
その単語を覚えていた事に、そしてその単語を口にした事に、自分で驚く。
この先一生観ることはないだろう映画のタイトル。
「ハクゾンくんね、わかった。」
視線をパンケーキから俺に移して、彼女、しーさんが頷いた。
否定しようとも思ったが、どうせこの場きりの名前だ、どうでもいい。
「なんで、しーさんは俺をここに連れてきたんですか?」
「理由はさっき言ったと思うけど、まぁ敢えて言うなら、自分を許す為かな。」
「自分を許す?」
「言葉の真意は教えないよ。」
なにかを誤魔化すようにしーさんは笑う。
「しーさんもなにかあったんですか?」
「いや、最近は割りと平穏かな。慣れたって事もあるけどさ。」
「仕事の話ですか?」
「そう、仕事。色々と大変なんだよ。」
「そう、なんですね。」
「おっと、私が愚痴を言っちゃダメだね。」
しーさんは自嘲気味に笑う。
「それにしても、ここのパンケーキ美味しいね。」
「そうですね。」
俺はそんなに甘い物が好きじゃない。
ユズならきっと本心から美味しそうに食べただろう。
「そういうわけで、また来ようと思うんだけど、私の次の休みが三日後だから、ここに待ち合わせでいい?」
気の知れた友人に話すようにしーさんは当たり前に言う。
いつの間に俺と彼女はそんな仲になったのだろう?
「時間は、十一時がいいかな? 日曜日だし混むだろうから。」
俺の疑問を他所に、しーさんは予定を詰めていく。
「あの。」
「なにか予定入ってた?」
「……いえ。」
「それじゃ、決まりね。」
そんな気分じゃない筈の俺はいつの間にか日曜日にカフェに行く約束を取り付けられていた。
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