第4話

 6月2日 - 内閣総理大臣鳩山由紀夫が民主党臨時両院議員総会の席で退陣を表明。また小沢一郎民主党幹事長も同時に辞任を表明した。


 右近は前橋公園に出かけた。さちの池やるなぱあくも同公園内にある。皇太子殿下の結婚を記念して鶴舞う形の群馬県をかたどった。さちの池と同様、群馬県をかたどった池としては太田市の宝泉遊水池がある。


 さちの池西側河川敷には、親水・水上ステージゾーンとして、群馬県の河川事業と一体で整備を行った。 2008年(平成20年)3月29日から6月8日まで開催した、全国都市緑化フェアでは総合会場として使用され、みどりの散策エリア(旧競輪場跡地)、日本庭園が公園としてオープンした。

 

 6月3日

 大手ビジネスホテル「東横イン」(東京都大田区)で、大阪府や兵庫県内のホテルのフロント業務を担当する20 - 30代の女性正社員十数人が「東横イン労働組合」を結成。サービス残業中止や産休取得など、法令順守を求めるため、同社に団体交渉を申し入れ。

 ダイエー創業者、中内㓛の次男で旧福岡ダイエーホークス元オーナーを務めた中内正が、贈与税2億7500万円を脱税したとして相続税法違反容疑でさいたま地検に逮捕された。

 

 ぐんまフラワーパークに右近はやって来た。前橋市柏倉町にある群馬県立の植物園。赤城山の裾野に広がる。年7回の花まつりがあり、5棟の温室で、年間を通じて花が咲いている。花と緑の学習館では、体験教室が行われる。

 総面積18.4haの敷地に、フラトピア大花壇(約6000m2)、高さ18mのパークタワーが設置され、ほか、温室エリア、庭園エリア、ガーデンエリア、キッズエリアに分かれている。


 春はフラトピア大花壇で20万球のチューリップを咲かせる。冬は、数十万~100万個のイルミネーションを行う。


 パークタワーからの眺めは格別だった。

 園内中央に位置し、高さが18mある展望台になっている。パークタワーから見える景色は北には赤城山が見える。南は関東一円の景色が見え、天気が良い日には富士山や東京スカイツリーも見える。

 冬のイルミネーション期間中はプロジェクションマッピングが行われている。


 タワーのあとはフラトピア大花壇を見た。

 季節ごとに模様替えを行う。春には20万球のチューリップを咲かせる。

 高さ18mのパークタワーから見下ろすと、絵画のような風景が広がる。


 ダリア園はまだ開園してなかった。

 夏から秋にかけて見頃となる。290品種1350株のダリアが栽培されている。

 ダリアまつり期間中には「まるごと美味しいダリアまつり」と題しダリア料理が堪能できる。


 6月4日 - 鳩山由紀夫内閣が総辞職。菅直人が民主党代表選挙で樽床伸二を退けて第8代民主党代表に選出され、同日の衆議院及び参議院での首班指名選挙に於いて第94代内閣総理大臣に選出される。

   

 この日は赤城クローネンベルクにやってきた。赤城山南麓にあるドイツの田舎の町並みを再現したテーマパーク。通称・ドイツ村人。2017年(平成29年)11月30日を持って閉園。

 1994年(平成6年)開園した。元々は前橋刑務所赤城農場跡であった。園内に設けられた動物ふれあい広場では、動物と直接触れることが出来た。また、自家製のソーセージや地ビールなどを食べることができる施設も設けられており、特色ある施設として人気を集めた。2008年(平成20年)の入園者は約19万人だった。赤城高原開発が運営した。「クローネンベルク」とは「王家の丘」という意味の架空の街の名前とされている。園内には乗馬コースやアーチェリー場、カート場、パターゴルフ場などが設置され、1日1組限定で結婚式の開催も受け付けていた。

 羊の放牧場「レーベン」、ドイツ料理レストラン「クローネ」、石窯パン・ピザ工房「ホルツ」、ハム・ソーセージ工房「ミューレガッセ」、デイキャンプの森「バルト」、野外劇場「ビューネ」、バラ園……見所満載。

 

 6月8日 - 菅直人内閣が発足。

 夕方、赤城温泉郷にやってきた。赤城山の南麓にある温泉の総称である。

 赤城山(標高1827.6メートル)の南斜面の中腹、群馬県道16号大胡赤城線周辺の標高900メートルから700メートル付近に温泉地が点在する。荒砥川沿いには赤城温泉、忠治温泉、粕川沿いには滝沢温泉がある。


 これに赤城高原を加える場合もある。4温泉地を総称して「赤城南麓の宿」という場合もある。


 確かな記録があるものとしては元禄時代の「湯之澤温泉」(湯之沢温泉)をルーツとし、これが赤城温泉に改称した。ほかの3温泉は近代以降の開湯である。


 国定忠治や大前田英五郎にゆかりがあるとされており、特に夏季の納涼と冬季の湯治の利用客が多い。また、赤城山への登山基地としても利用されている。山菜料理や川魚料理が名物とされる。


 赤城温泉

 江戸時代の「湯之沢温泉」が改称したのが赤城温泉である。元禄13年(1700年)創業の「あづまや」を前身とする宿泊施設が数軒ある。荒砥川の谷沿いの標高850メートル前後の位置に、2018年現在、3軒の宿泊施設が営業している。


 源泉はボーリングによる地下180メートルに位置する。湧出量は毎分210リットル(1979年現在)。源泉の湯温は摂氏44度。


 古くは「鉄鉱泉」(鐵鑛泉)とされていた温泉法に基づく泉質は下記の通り。


 旧泉質名 - 含芒硝重曹泉(含芒硝重曹鉄)

新泉質名 - カルシウム・ナトリウム・マグネシウム-炭酸水素塩温泉

 効能としては、胃腸病・神経痛・リウマチ・高血圧や、外傷・手術後の療養[3]などに効果があるとしている。 1904年(明治37年)に与謝野鉄幹、高村光太郎らが赤城山の帰路に訪れて宿泊している。


 忠治温泉は1939年(昭和14年)の創業。赤城温泉よりも約2キロメートル下流に位置し、標高は約700メートル。荒砥川に懸かる「朝日の滝」を景物としている。2018年現在、営業中の宿泊施設は1軒。「忠治」の名は、逃亡中の国定忠治がこの地域に隠れ住んだことに由来するという。


源泉は摂氏38度。

旧泉質名 - 炭酸泉

新泉質名 - カルシウム・ナトリウム・マグネシウム-炭酸水素塩温泉


滝沢温泉は、1895年(明治25年)の創業[7]。忠治温泉から400メートルほど東にあり、粕川沿いに位置している。


 古くは「鉄鉱泉」(鐵鑛泉)とされていた。温泉法に基づく泉質は下記の通り。


 新泉質名 - カルシウム・ナトリウム・マグネシウム-炭酸水素塩冷鉱泉


 赤城高原は標高430メートルほどに位置している。国道353号(旧赤城南面道路)に面し、宿が1軒ある。

 

 6月13日 - 小惑星探査機「はやぶさ」が地球に帰還。


 右近は大沼にやってきた。群馬県の赤城山の山頂カルデラにある火口原湖で、赤城山のカルデラ湖としては最大のもの。


 水系としては利根川に属し、湖水は北西の火口瀬から沼尾川として流出、赤城山の西麓を流れ下って直接利根川に注ぐ。半島部の小鳥ヶ島には赤城神社が鎮座する。冬期のワカサギ釣りやスキー・スケート地として知られ、1970年代には関東地方のスキー場として多くのレジャー客を集めた。


 赤城山の神と日光(栃木県)の神(二荒山)が、赤城大沼や中禅寺湖をめぐって争ったとする伝承がある。この伝承にはさまざまな亜種があり、北関東地方の各地にこれにまつわる伝承の地がある。両神はかねてから仲が悪く、武力をもって衝突したり、ムカデや大蛇に化身して戦ったりした。戦場ヶ原がその戦地であるといった伝承や、坂上田村麻呂や鹿島神、猿丸が加勢したというエピソードもあるが、大筋では赤城山の神が敗れる物が多い。


 これらの伝承は古代における上毛野国造と下毛野国造との領地争いや利水権をめぐる争いを反映したものであるとみなす者もある。


『神道集』(室町時代に成立)には、赤城大沼と榛名湖をめぐる伝承が採譜されている。


 上野国に「高野辺家成」(高野辺大将)という公卿が配流された。高野辺大将には美しい娘が3人いて、それぞれ「淵名姫」「赤城姫」「伊香保姫」といった。娘たちの母はやがて亡くなり、高野辺大将は信濃国から後添いを迎えた。その後、高野辺大将は罪を免じられて上野国国司に任じられ、娘達を継母に委ねて出仕した。


 ところがこの継母は3人の娘を疎んじ、弟の更科次郎兼光に命じ、3人の娘を殺害させた。長女の淵名姫が利根川に沈められて殺されると、次女の赤城姫は赤城山へ、末娘の伊香保姫は榛名山(古名:伊香保山)へ逃げた。赤城姫は赤城大沼の竜神(または「晻佐羅魔女」)によって赤城明神に転生し、伊香保姫は榛名湖の竜神によって榛名明神となった。


 3人の娘には都に出仕していた実弟がおり、事態を知って上野へ引き返すと更科次郎兼光を討ち、継母を捕らえて信濃に追放した。継母はその後冠着山(姥捨山)で死んだという。


 この弟は、赤城大沼の畔で、神となった淵名姫と赤城姫(赤城大明神)に再会を果たした。このとき淵名姫を乗せていた鴫は大沼に降り立って小鳥ヶ島へ姿を変えたという。弟はその後、庵を結んで3昼夜にわたり姉を祀った。その地を「三夜沢」と称したという。


 平安時代に成立した『延喜式神名帳』(延長5年・西暦927年)には、上野国の名神大社として「赤城神社」が記載されている(式内社)。赤城山の周辺には「赤城神社」と称する主要な神社が3社あり、いずれを『延喜式神名帳』の赤城神社とするかは見解が分かれている。赤城山山頂の赤城神社はその一つである。


 旧来は湖畔に湖を背にして祀られていた神社だが、1968年(昭和43年)に現在地の小鳥ヶ島に遷座した。


 この赤城神社がいつ創建されたものであるかは不詳。境内の安山岩製の宝塔(赤城塔)には応安5年(1376年)の銘がある。社伝では崇神天皇の時代に豊城入彦命が創建したとする。また、神社では大同元年(806年)に地蔵岳中腹から大沼の湖畔へ遷宮したという記録を有するとしており、湖畔の地名「大洞」はこの年号に由来するという。近世には前橋城(厩橋城)の歴代の城主の崇敬を受けており、酒井家の時代には社殿造営を5回行っている。


 もともとは赤城大沼と赤城山を祭祀していたもので、明治時代には赤城山周辺の小社を合祀、現在は豊城入彦命、大国主命、徳川家康公など6柱を祭神としている。

 

 6月18日 - 改正貸金業法が施行される。

 右近は覚満淵にやってきた。前橋市富士見町赤城山にある湿原。赤城山の山頂付近、大沼の南東600メートルの位置にあり、小沼にも近い。標高は1,360メートル、周囲長は800メートルほどである。「小さな尾瀬」、「小尾瀬」とも言われる。

 古くは湖であったが、覚満川を通じて水が大沼へ流出し、湿原となったもの。「かつては大沼の一部であった」、「大昔は大沼とひとつの湖であった」といった説明がなされることもある。地名は平安時代の「覚満」という名の人物に由来する。比叡山延暦寺の高僧であった彼が、当地で法会を行ったとされる。


 当地では高山植物やコケ植物が群生している。春はミズバショウ(3月)、5月の新緑、初夏はレンゲツツジ(6月)、秋の紅葉(10月)が見所である。モウセンゴケやニッコウキスゲも見られる。泥炭層の薄い場所は、ススキやズミなどの低木林となっている。


 湿原を一周する木道が敷設されており、付近の県立赤城公園ビジターセンターから徒歩30分間ほどで周遊できる。覚満淵を見下ろす鳥居峠の高台からは、遠く大沼まで見渡せる。

 

 6月22日 - 特許庁先任審判官が、基幹系システムリニューアル事業の入札情報提供の見返りにNTTデータから200万円のタクシー券を受け取っていた収賄の容疑で、警視庁に逮捕された。


 前橋は前橋城があった。上野国群馬郡、現在の群馬県前橋市にあった日本の城。前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城まやばしじょうと呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられた。車橋門の跡が前橋市の史跡に指定され、酒井氏に伝わる城絵図が市指定重要文化財に指定されている。

 

 前橋はその旧名を厩橋といった。このため前橋城は当初、厩橋城と呼ばれていた。城の起源については諸説あるが、室町時代中期の15世紀末頃に長野氏の拠点であった箕輪城の支城として築かれた石倉城がその始まりであるとされる。


 伝承では、石倉城築城時に低地帯を台地の東に流れていた利根川の本流が、天文3年(1534年)の氾濫により流路を変え石倉城の水路に流れ込み、本丸・二ノ丸などを崩壊させてしまった。当時の城主長野賢忠(長野方業、法号・固山宗賢)が残った三の丸を拠り所に再築した城が、後に厩橋城と呼ばれるようになったという。ただしこの厩橋長野氏の系譜ははっきりせず、厩橋の長野氏で築城者とみられる初代の人物も、法号の固山宗賢としか判明しない。学説上で明らかなのは長野氏によって築城されたことのみである。


 天文20年(1551年)、厩橋城は上野国に侵攻した後北条氏に付いた。一説には城主の長野賢忠が城を明け渡し長尾景虎(後の上杉謙信)を頼りに越後へ移ったという。なお、石倉城を破壊した利根川はこの天文年間までに厩橋城の西へと流路を完全に移している。


 永禄3年(1560年)、景虎の長尾軍が厩橋城を攻め取り、河田長親が城代となる。この際に厩橋長野氏を中心とする厩橋衆は分解した。以降、厩橋城は景虎の関東進出の足掛かりとされた。永禄6年(1563年)小田原北条・甲斐武田の連合軍により攻め落とされる。年代に諸説あるが、この時期に厩橋長野一族は、上杉家の家督を継いだ景虎改め政虎に断罪され粛清された。賢忠が病気を理由に攻防戦に参陣しなかったからとも、玄忠(賢忠?)の子・彦太郎の馬が暴れたのを謀反と勘違いされた、などの伝承が伝わる。長野氏の混乱は、上杉家の謀略だったともされる。城はその後、再び上杉家に取り戻され、越後の北条高広が城代に据えられた。だが永禄10年(1567年)にはその北条高広が北条陣営へ寝返ったことにより、周辺は再び北条家の勢力圏となる。


 その後、越相同盟によって北条高広は上杉家へ帰参することが取り決められ、厩橋城は上杉方に引き渡された。高広は謙信の死後の天正7年(1579年)、御館の乱で越後の本拠地を失い、勝頼率いる武田氏に降伏した。引き続き厩橋城代として残るも、天正10年(1582年)3月に武田氏が織田信長によって滅ぼされ、織田方の滝川一益が上州を支配することとなり、高広は滝川に厩橋城を引き渡した。同6月の本能寺の変の後、神流川の戦いで北条氏直に敗れた一益は上州から撤退した。北条高広や上杉氏らのせめぎ合いの末、上州の大半および厩橋城は後北条氏の元に入った。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、豊臣方の浅野長政により攻め落とされ、同年8月、関東を任された徳川家康の支配するところとなり、家臣平岩親吉を厩橋城に置き、3万3千石を与えた。


 慶長6年(1601年)の関ヶ原の戦いの後、甲府藩に移された親吉に代わって酒井重忠が厩橋藩3万3千石を任され城に入る。重忠は城の大改修を行い近世城郭へと変貌させ、城には3層3階の天守も造営された。17世紀中頃から18世紀初頭、忠清から忠挙の代に、厩橋の地は「前橋」と改められ、城も「前橋城」と呼ばれるようになる。しかし、大老酒井忠清を出すほどの名門が置かれたのとは裏腹に、前橋城は利根川の浸食を受け続け、18世紀の初頭には本丸の移転を余儀なくされている。


 寛延2年(1749年)播磨国姫路藩に転出した酒井氏と入れ替わり姫路より松平朝矩が15万石で前橋城に入る。以後、前橋城は明治維新まで越前松平家の城となった。明和4年(1767年)、利根川の浸食を受けた本丸が崩壊の危機に曝されたが、前橋松平氏は前橋入封までに10度の転封を経験して借財が多く、城を修築するだけの力は既に無かった。時の藩主松平朝矩は幕府の許可を得て前橋城を放棄し、前橋藩の飛び地であった武蔵国川越城に移り、以降前橋藩ではなく川越藩となる。前橋城一帯は川越藩の分領としての陣屋支配となり、前橋城は明和6年(1769年)に破却された。


 領主が去り荒廃した前橋領において、領民の前橋城再建・領主帰城の願いは強く、再三にわたり松平家に帰城が請願された。天保年間(1830年 - 1843年)に郡代奉行安井政章(安井与左衛門)らにより利根川は改修され、利根川の勢いが西方に反れた事で城郭崩壊の危険度は低くなった。横浜開港後、特産の生糸の輸出により前橋領の財力が回復すると、文久3年(1863年)12月、時の川越藩主松平直克は遂に幕府に願い出て前橋城の再築を開始した。領民による出資や労働奉仕を受け前橋城は竣工、慶応3年(1867年)3月、直克が入城し前橋藩が再興した。


 前橋城再建から半年の後、大政奉還により江戸幕府は終焉、1871年(明治4年)の廃藩置県により前橋城本丸御殿に前橋県の県庁が置かれたが、他の建屋は取り壊された。府県統合により群馬県が成立した後、県都が当初の高崎から前橋に移され、本丸御殿は1928年(昭和3年)に老朽化で取り壊されるまで、群馬県庁舎として使われた。


 今日、本丸跡地には1999年(平成11年)に竣工した地上33階・地下4階の鉄筋コンクリート建の群馬県庁本庁舎が置かれている。また、二の丸跡地には前橋市役所が置かれ、三の丸跡地は前橋地方裁判所となっている。三の丸外郭の地が1905年(明治38年)に整備され、前橋公園となった。この他、前橋城址には、移築された群馬県庁昭和庁舎と群馬会館の2つの近代建築遺産がある。現在の城址は市街化が進み、城の面影は少ない。

 

 6月28日 - 高速道路無料化社会実験の開始。

 右近は臨江閣りんこうかくにやってきた。前橋市大手町にある、近代和風建築の迎賓施設。 本館、別館、茶室は国の重要文化財に指定されている。

 1884年(明治17年)9月竣工。当時の群馬県令・楫取素彦かとりもとひこの提言がきっかけとなり、前橋の企業や町民有志の協力と募金により、迎賓館として建てられた。建物名の「臨江」は「利根川に臨む」の意である。建物は、木造2階建て、入母屋造、桟瓦葺き。1階には「一の間」「次の間」「三の間」「控えの間」を設け、建物西側の突出部には「奥座敷」「次の間」がある。一の間は畳をはずせば能舞台として使用できる設えになっている。2階には「一の間(御座所)」「次の間」「控えの間」がある。明治26年(1893年)10月20日から21日にかけて、近衛師団小機動演習天覧のための行幸の行在所となり明治天皇が宿泊した。


 京都の宮大工・今井源兵衛によって、本館より2か月遅れて1884年(明治17年)11月に完成した。木造平屋建て。東側に8畳の書院、西側に4畳半の茶室を設ける。書院部分は寄棟造、茶室部分は入母屋造でいずれも桟瓦葺きとする。


 6月30日 - 岩手日報が夕刊の発行を廃止、朝刊単独紙に移行。

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前橋殺人事件 鷹山トシキ @1982

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