55.終局、そして…

 寒い……。


 美影みかげは薄れゆく意識の片隅で、これまでのことを想っている。

 正確には思い出そうとしている。そうやって、ともすれば消え入りそうな意識をかろうじて現実に引きとどめていた。


 少女の肉体は冷え切っていた。もはや指先一つ動かすことはかなわない。

 天満美影はいま、EMUを着せられた状態で、いつか幻視したあのピンク色をした肉の牢獄に捕らわれている。牢獄は巨人の胎内だ。あの培養槽の化け物は、私をとらえるための檻として用意されていたのか……。


 全身には至る所に管が突き刺さっている。

 抗生剤の点滴に加えて、直腸にはコア体温計が。尿道にも排泄用カテーテルが挿入された痛ましい姿だった。


 その他各種センサーに、脳波を計るためのコード類が無数に絡みつき、さしずめ樹木の精霊の様でもある。朦朧もうろうとする意識のもとで処置されたため、苦痛や不快感を抱かずに済んだのだけは僥倖と言えたかもしれない。


 そして両腕には血液循環用の太いチューブがつながれていた。すべての管や計器はEMU背面の生命維持装置――それも非常に大型のもの――につなげられており、血液循環管はそこで摂氏二十五度にまで冷却され、再び少女の体内へと戻されていた。


 したがって美影の体温は急激に低下してゆくことになる。


 低体温麻酔法だ。

 人間の肉体は摂氏三十五度以上で正常に機能するようにできている。当然体温が下がれば代謝機能は落ちてゆき、一定以下になれば目覚めていることすら不可能になる。だが、血液に少量の栄養剤を混ぜてやれば死ぬことはない。無重力なので床ずれによる壊疽えその心配もない。拘束場所として宇宙とは、文字通りの最適な環境なのだ。


 これは一種の人工冬眠であり、主に心肺系の手術の際に行われる処置と同じものが、少女には施されていた。さながら眠り姫の誕生でもある。


 すべては、衛星軌道上で建造された〈アダマスの器〉を起動させるために必要な儀式だった。知性たる――ソフィア=ピスティスと呼ばれた美影を魂として取り込むことで、器は認知グノーシスを得て神となる。


 疑似神化を遂げるのだ。

 これを地上で広げた量子コンピューター回路――これらはウイルスの散布によるシリコン沈着によって、無作為に行われた――と連動させることで、天と地とをつなぐ巨大な呪具が完成する。


 かつて伊邪那美といわれたこともある地の王と、光の王たる天空の伊邪那岐――それらは相反する性質でありながら、それでもなお互いに引き合いバランスを保つ。盤石なる軌道エレベータのシステムはこうして完成へと近づくのだ。


「そう、これこそが〈軌道地鎮祭〉だ」


 姿をくらました黒き聖者――導師は、どこかに眠る玄室の中でひたすら祈りを捧げていた。人工的に生み出した巨人とは、これからの人類が新たに得る器――肉体そのもののテストベッドである。

 高橋が愛好している『福音エヴァンゲリオン』と似たようなものと言えるのかもしれない。今は、精製軌道上で四肢を十字に広げ、その神々しき威容を天空にさらけ出している。全身には装甲具を思わせる鎧や飾りの類がかぶせられ、文字通りの戦士のいで立ちに変貌しつつあった。


「神子のバイタル、安定しました」

「循環系、全て問題なし。排泄も問題なく行われています」

「神子からレム睡眠波が出ています。間もなく意識消失。真なる認知(アグノーシア)に至ります」

「体温、二十三度を維持。酸素濃度を少し上げた方がいいかもしれませんね」


 黒衣の飛行士たちが、ISSにて美影の肉体を調整している。

 こうして――導師が、信徒たちが待ち望んだ〈軌道地鎮祭〉は、その薄いヴェールを静かに降ろしてゆく……。

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