52.備えあれば、うれしいな
●
「取りあえず、これぐらいやっとけば大丈夫でっしゃろ」
施工を終えたナベさんは満足そうだった。
空気は換気扇が回っているから淀む心配はない……と思う。もう晩秋だから暖房が欲しいけれどもね、そこは我慢せな。数日の辛抱だと思うで。幸いここはスタジオや、会社や。地下には備蓄の食料も医療品もそれなりにある。高橋はん、アンタええとこ勤めてましたな。こんなに緊急事態に備えた備品きちっとそろえてある会社はホワイトやで……。
ナベさんは相変わらずわけのわからないことを言っている。
どこか楽しそうだね、と二宮。こういう特殊な状況になると途端に張り切りだすやつは、確かにどこの学校にもいた。お祭り気質なのだろうか。
「美影くんのことが心配かい?」
「いいや……仮にもう宇宙へ行っているなら、この騒動とは無縁のはずだろう。そもそもあいつは南裏界島へ行っているのだから」
「そうだね、お互いの無事を祈りたいものだ」
二宮はしかつめらしくそう言って、トレードマークのサングラスを指で押し上げた。
一方で、現状を伝えるニュースは続けられる。
電波は相変わらず悪く、どこからかジャックされているのかもしれなかった。テレビでは報道特集が早くも組まれていて、専門家がこれまたわけのわからない専門用語を並べ立てている。ウイルスを使ってシリコン……同位体沈着を試みたのでしょう。そんな話が途切れ途切れに聞こえてきた。
「同位体ってなんやねん」というナベさんに、二宮が説明を始める。
俺たちのいる世界は、水素、ヘリウム、リチウムなど、約九十種類の元素からできています。一つの元素を拡大していくと、原子核と電子から成り立っている……というのは常識かと思いますがね、その原子核をさらに拡大してゆくと、陽子と中性子に分けられるってわけです。中性子爆弾とかで耳にする、あの中性子ですね。
水素原子は陽子がひとつ、ヘリウムには二つ……と、元素の違いはその原資を構成する「陽子」の数の差で説明されるわけなんですが、中には同じ元素でも中性子の数が違うものが存在しているんです。もちろん陽子の数は同じですから、同じ一つの元素なのに、中性子が多いものはそれだけ重くなるわけです。いくら原子核と言っても物質ですからね。
で、同じ元素なのに重さが違うもの――これが「同位体」です。コンピューターに使われる半導体、それを構成する元素にもこの同位体はあります。例えば、ゲルマニウムだと質量数が五種。シリコンでは三種類が、自然界に一定の割合で存在しています――長い説明だった。
「ほお、二宮はんよう知っとるのぅ」
ナベさんは感心したようだった。理解できているかは甚だ怪しかったが。
二宮は続ける。
古典コンピューター……ああ、つまり我々が普段使っている普通のやつね。あれの心臓部ってシリコン半導体なんですよ。おそらくは、ゲルマニウムよりも産業的な広がりもあって汎用性も高いことから、シリコン同位体の研究が進められていったんでしょうなあ。古い海外のSF小説なんか読むと、ゲルマニウム沈着でもって、電子化を図るなんてものもありますがね。現実はまた別の道を選んだ、と。
シリコン原子を使った量子コンピューターには、同位体分離した質量数二八のシリコンと二九のシリコンが使われるんだそうです。この二つは重さ以外にももう一つ違いを持っていましてね、それが「核スピン」と呼ばれる特性です。
これを持つものは、とても小さな磁石のようにふるまうのだそうで、シリコン同位体のなかで核スピンをもつのは二九シリコンのみだというんですね。
で、純度の高い二八シリコンを敷き詰めたなかに、二九シリコンの原子を一つずつ一列に並べ、磁場を発生させ核スピンを操作することで、ひとつひとつが小さな磁石と化した原始それぞれに情報を持たせることができるようになる――これが古典コンピューターの何万倍もの情報を処理することが可能となるんだそうですよ。同位体工学っていうわけですね。
「う~む、なんか込み入っててようわからん話やけれども、ともかく量子コンピューターちゅうのはそういう理屈で出来上がるゆうことやな」
「大まかに言えばそうなりますね」
「しかし、回路の集積が原子レベルにまで進んでいるというのも驚きですね」と、傍で聴いていた男優の一人が言った。「非ノイマン型コンピュータっていうんやな」――と、ナベさん。あんた結構知ってるじゃないのと二宮は感動した面持ちだった。
まぁ、伊達に五十数年人間やってるわけじゃありませんわ。はっはっは。そう言って豪快に笑うのだった。
一方のテレビでは、二宮の説明を補完する様に専門家の解説が続いていた。
「〈教団〉がウイルスを散布するテロを行ったことで、民衆の間にはシリコン沈着化が進んでいるはずです。かれらがなにを企んでいるのか、それがどういう結果をもたらすのか、現段階ではまったくわからないですね……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます