45.ゲシュヴィッツの真意

 旅立ちの時は刻々と迫っていた。

 もう後戻りする途は残されていなかった。

 これから先は行くも一人、たとえ退けたとしても一人なのだ。

 ならばこそ、前に進む以外に道は示されていないように思われた。


〈モナルキア〉ことANALもまた〈教団〉の一部にすぎなかった。

 何処まで行っても彼女は逃れられない。

 最初から全て仕組まれていたことだったのだ。

 彼女を指導した君由や教官、そして稲村たちはすでに舞台を降りていた。

 唯一残ったのは、フライトサージャンを務めるC・Fだけだ。美影の身の回りの準備をしながら、宇宙へと上がるその日のためだけに、彼女もまた存在し続けている顕在の光である……。



 白い部屋の中でピアノが静かに奏でられている。

 曲目は、サティの「ジムノペディー」だ。ごくごく単純な譜面ながら、その音色は深く、どこか静かな狂気をはらんで耳に届く。弾いているのはゲシュヴィッツだった。


「これをいていると落ち着きますの」


 静かに語りかける先には天満美影が立っていた。

 間もなく出発ですわね。心の準備はできて? そのために弾いていたのだとゲシュヴィッツは語った。


「全部、嘘だったのね」

「……ごめんなさい」

「〈教団〉から解放されたつもりでいたけれど、全ては繋がっていた。ANALなんて組織はそもそもどこにも存在しなかった。このメガフロート自体、〈教団〉が財力にものを言わせて接収したもの。南裏世界島もそう。偽りの楽園だった。私をこう仕向けるためだけに用意された、いわば培養槽だった……」

「そんなことはありませんわ。メガフロートもマスドライバー施設もきちんと管理されています。危険なことなんてありはしない。そう――ここはね、神の国へと繋がる〈門〉なのですわ」


 ゲシュヴィッツの顔は上気し、目は虚ろだった。楽譜は見えているのだろうか。

 それでも演奏は止まらない。

 正確なリズム進行をキープし、一音一音、丁寧に鍵盤を叩いてゆく。それが「ジムノペディ」らしさに拍車をかける。


 どこか水音が混じって聞こえるのは、これも可詞化能力エクリチユールの影響なのだろうか。

 既に美影は発作を克服している。

 視ようと思えばいつでも世界の声を視ることができるようになっているのだった。


「地球の声――残念ながらわたくしには聞き取ることはできませんでした。アポカリプスサウンドという言葉もありましたわね。終末を告げる地球の声です。導師は、大いなる父はそれを聴き取ることのできる数少ないお方。そのお告げがこうさせたのです。ああ、わたくしにもその力があれば、と思います。ならばこそ、師の側近たりえる十二人の乙女の中にも入ることはできなかった。所詮わたくしは、貴女に接触するためだけに遣わされた使者でしかない。こうやってピアノを奏でてさし上げることぐらいしか、今のわたくしには価値がないのですわ」


 支離滅裂な思考と発言。

 思考は、シコウ、しこう、至高と変換されて高みへと誘う。

 発言は、ハツゲン、はつげん、発現と変換されて、美影の可詞化能力エクリチユールを高めてゆく……。


 文字は偉大だ――とかつて君由に習った講義を思い出す。

 文字は神に宿る。神は文字だ。認識こそが神なのだ。

 その手段こそが神なのである。

 この不完全なる地上世界から、光の世界たるその認識の世界へと還る――それこそが、〈教団〉の推し進めていた「人類昇華計画アセンシヨン」そのものだった。


「美影さん、時間です」


 背後に現れたのはC・Fだった。

 これから与圧服に着替え、宇宙往還機で軌道上に打ち出されるのだ。

 往還機……。果たして戻ってくる場所が自分にあるのか?

 美影は茫洋とした面持ちで、出発の準備に取り掛かる。

 そしてC・Fが呟いた。


「傷もてる我ら、苦難の道を歩まん――」

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